昭和レトロな尼崎街道と勝間街道をポタる。

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2017-10-09 08-11

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/10/09 08:11:40終了日時2017/10/09 11:13:09
水平距離41.77km沿面距離42.15km
経過時間3時間01分29秒移動時間2時間31分44秒
全体平均速度13.94km/h移動平均速度16.51km/h
最高速度37.06km/h昇降量合計691m
総上昇量347m総下降量344m
最高高度60m最低高度-5m

レポート概要

大坂は今でもそうですが、かつては日本中の物品が集まる一大商都でした。

江戸期の後半には物流が整備され周辺の区々に商品と人々が広がっていました。
尼崎街道を始め勝間街道などが開かれて流通が盛んになっていった模様です、今回は尼崎街道を走り昭和レトロな此花区ポタります。

帰路は勝間街道を南下して住吉へと至りました。

写真レポート

加賀屋新田会所

2017/10/09 08:17:00

加賀屋新田会所

 延亨(えんきょう)2年(1745)、加賀屋甚兵衛によって干拓された。この埋立ては、その後数回にわけて北へ北へと拡張された。これらの民間資力による開拓事業は、幕府の崩壊で終るが、その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ1/3にもあたるものである。

此処から井路に船を浮べてお大臣遊びをしたのだろうか?

十三間川

2017/10/09 08:20:00

十三間川

津守新田の開発を始めた元禄11年(1698)に河村瑞軒により開削されたものと伝えられています。
明治の始めごろまでは、農業用水路として利用されただけでなく、両岸に松の並木、楊柳(やなぎ)などがあり、頗る風情にとみ大坂より住吉に遊ぶものが多かった。

十三間川

2017/10/09 08:21:35

十三間川

十三間川の名残 琴江橋跡

2017/10/09 08:38:17

十三間川の名残 琴江橋跡

かつては十三間堀川と七瀬川の合流地点に架かる橋であった。
七瀬川は昭和29年頃埋立てられ、十三間堀川は昭和45年の阪神高速堺線の建設に伴い埋立てられた。

昭和チックな高架下

2017/10/09 08:41:34

昭和チックな高架下

川口教会

2017/10/09 08:51:09

川口教会

安治川と木津川が出合う中州に位置する西区川口地区にある。正式名称は日本聖公会川口基督教会。

大阪が開港した頃の面影を残す建物(登録有形文化財)。

旧新大阪新聞社 川口アパート昭和3年謹製

2017/10/09 08:52:48

旧新大阪新聞社 川口アパート昭和3年謹製

木津川沿いに建つ珍しい連棟建てのレトロな建物。
かつては隣に3階建ての新大阪新聞社が建っていたが、現在は2階建ての部分だけが残っている。

いい被写体になる。

大阪船奉行所跡

2017/10/09 09:03:11

大阪船奉行所跡

元和6(1620)年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けた。西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向をここで監視した。

レトロチックな此花区

2017/10/09 09:04:28

レトロチックな此花区

鴉宮

2017/10/09 09:10:09

鴉宮

当社は1215年(建保3年)伝法村の船問屋たちが村と港の繁栄を祈念し、天照皇大神、住吉大神、恵比須大神を勧請し、傳母頭(もりす)神社として祀った。
 1592年(文禄元年)豊臣秀吉が朝鮮出兵の時、渡航の安全を祈願したところ、社殿の奥の森より、三足の鴉(八咫烏)が現れ、「航海の安全守護のほか、瑞祥を示さん」とのお告げがあり、航海にはお告げ通り、八咫烏が出現、船内に祀ってあった住吉神像の杖の上に止まったという。秀吉はこのことに大いに感激し、無事平安に帰国した後、当社に「鴉宮」の名を贈り、自らが祭主となり、鴉が巣を成している場所を選定し、お墨付本宮社として遷宮したと伝える。
掲示板

此花レトロ

2017/10/09 09:13:04

此花レトロ

ああ もうこんな 町並みは消えていくんやろうなーさみしいなー

旧鴻池本店

2017/10/09 09:15:03

旧鴻池本店

和風屋敷に洋館をつけた和洋併置式邸宅で、「アールヌーヴォーの館」として知られる旧松本家住宅との類似から、設計者は久保田小三郎と考えられている。ステンドグラスを用いた装飾や、水洗トイレ、折りたたみ式のベッドなども設備されている。 明治13年(1880年)、鴻池忠治郎がここ伝法に運輸建設業鴻池組を起こし、明治42年(1909年)から昭和43年(1968年)に本社・本店社屋「鴻池ビル」が完成するまで本店として使われた。内部は一般公開されていない。

ウィキペディア

澪標住吉神社

2017/10/09 09:15:35

澪標住吉神社

当社の創起は、社伝によれば、古代当地は難波八十島の一つで、804年(延暦23年)遣唐使*の一行がこの島に一泊、前途の安泰を祈願するため、島民の合力により、祭壇を造り、住吉大神を奉祀した。これが機縁となり、祭壇跡に小祠を造営し、一行の帰路を迎えるため浜辺に、澪標を立てたのがはじまりという。
 当地が伝法口として賑わうとともに、土地の守護神・海上交通安全の神として社殿境内も改まり、今もその面影を留めている。

掲示板

伝法の家並

2017/10/09 09:18:53

伝法の家並

中世末期は、中津川河口の港として交通の要衝となっていました。江戸時代は幕府領。大坂にある幕府の船の管理や大坂に出入りする船の監視をなどを行う大坂船手の支配下となりました。

いい感じの家がある。

西念寺

2017/10/09 09:19:52

西念寺

大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりという。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め、広大な寺領を持ち、摂・河・泉・三国の四大本山の一つとして栄えたという。明治6年には小学校(現伝法小学校)が当寺に設置されていた。

門前に道標がある。

淀川に寸断される尼崎街道

2017/10/09 09:22:32

淀川に寸断される尼崎街道

このあたり現在は伝法五丁目であるが、かつては北伝法村で新淀川ができる前は申村であったところですが、明治期に淀川が開削されるまではかなり賑わいがあった様子。

造船所クレーン跡

2017/10/09 09:31:24

造船所クレーン跡

淀川河口の造船所跡 滑走船台があってかつては小さな船を製作していたんだろう。

五社神社

2017/10/09 09:39:30

五社神社

中島新田開発の際に五社五柱の神様を勧請し創建されました。
 1804~1829年頃、神官に津田常則という方がおられ、くさ(腫物)を治す霊験アリとして評判になり「城島のくさ神様」なんて呼ばれた。

此花レトロ

2017/10/09 09:57:36

此花レトロ

再び川口

2017/10/09 10:03:48

再び川口

なんだか宮本輝さんの本に出てきそうな風景。

長橋辺り

2017/10/09 10:30:04

長橋辺り

近世の産業道路であった勝間街道の名残。

鶴見橋商店街

2017/10/09 10:31:07

鶴見橋商店街

鶴見橋商店街は約100mおきに区切りがあり、東の1番街から西の8番街まで続いている(旧町名・鶴見橋通1丁目~8丁目にちなむ)。以前は日本で2番目に長い商店街として数えられていたこともある。

かなりディープな地区である。

レトロな銭湯

2017/10/09 10:40:41

レトロな銭湯

昔懐かしい銭湯 だんだん少なくなっています。

木の窓枠

2017/10/09 10:49:47

木の窓枠

勝間街道沿いの古い町家には木製の桟があった。

住吉の大神

2017/10/09 10:58:59

住吉の大神

最後は住吉の大神に参拝。

浪速の町はつくづく海路で栄えた町である。