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開始日時 | 2018/01/03 11:16:43 | 終了日時 | 2018/01/03 15:34:13 |
水平距離 | 39.19km | 沿面距離 | 39.78km |
経過時間 | 4時間17分30秒 | 移動時間 | 3時間38分24秒 |
全体平均速度 | 9.27km/h | 移動平均速度 | 10.84km/h |
最高速度 | 29.97km/h | 昇降量合計 | 941m |
総上昇量 | 460m | 総下降量 | 481m |
最高高度 | 41m | 最低高度 | -50m |
2018/01/03 11:42:14
左 反正天皇御陵道二丁・右 履中天皇御陵道十八丁 仁德天皇御陵道十四丁
と刻まれていた・
戦前に陵印集めが流行った(時代的に)時期のものだろう。
2018/01/03 11:46:21
百舌鳥古墳群北端にある全長約148mの天皇陵では小さい方の前方後円墳。5世紀中頃の築造で陪塚とされる古墳2基、二重濠の存在が確認されています。百舌鳥3陵の一つ百舌鳥耳原北陵とも呼ばれています。
2018/01/03 11:49:00
古墳一部が削られているために形が変っていますが1辺が16m、高さが3m程の方墳です。埴輪が立てられており、幅3mの濠がめぐらされていたと考えられています。
2018/01/03 11:50:20
円墳のように見えますが1辺が9m、高さが3m程の方墳です。現在は住宅に取り囲まれていますが本来はもう少し規模が大きく濠がめぐらされていたと考えられています。「天王」の名称は、以前このあたりにあった向井神社の別称「天王社」によるもので「天皇」とは関係ありません。
2018/01/03 11:58:12
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の北西約50メートルにある前方部を南に向けた前方後円墳です。
墳丘の規模は全長約100メートル、後円部径約63メートル、高さ10.3メートル、前方部幅約68.5メートル、高さ10.3メートルで、西部のくびれ部には造出しが認められます。
墳丘は2段によって築かれていて、葺石と埴輪があり、周囲には盾型の周濠がめぐっています。
調査されていないので、主体部の構造は不明で、副葬品の内容や性格もわかりません。
墳丘は陪塚として宮内庁に管理されていますが、かたちと規模から陪塚とは考えにくい古墳です。
2018/01/03 12:00:09
丸保山(まるほやま)古墳は、短い前方部を南に向けた帆立貝形古墳で、周囲には濠が巡っています。前方部の高さが著しく低いのは、昭和30年の開墾で大きく削られてしまったからです。埋葬部の構造や副葬品の内容などはわかっていませんが、円筒埴輪が採集されています。その埴輪から5世紀後半頃に造られたものと考えられています。
2018/01/03 12:03:08
仁徳天皇陵古墳の後円部西側に位置する古墳で、前方部を南に向けた帆立貝形墳であったと考えられている。
墳丘の現存長は33m、高さは4mである。墳丘からは円筒埴輪、形象埴輪がみつかっている。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/03 12:06:32
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の三重濠の西側面、ほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47mの不整形な古墳で、濠を浚渫した時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されています。
2018/01/03 12:09:53
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の後円部外側の第2堤上から、三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの西側にある、径56m、高さ9.3mの円墳です。茶山の呼称は、「堺鑑」に豊臣秀吉が仁徳天皇陵古墳で狩りをした時に、陵の上で仮の居宅を構えたあとを、茶屋山と呼んだという記事があることに由来します。
2018/01/03 12:15:29
仁徳天皇陵古墳の中堤が広がった部分に造られた円墳。
濠にはさまれた堤の上に付属墳として墳丘が造られることはたいへん珍しく、大安寺山古墳と茶山古墳以外では確認されていない。
墳丘径は62m、高さは9.7mで、百舌鳥エリア最大の円墳である。
2018/01/03 12:17:35
現状は直径34m、高さ5.4mの円墳の墳丘部が仁徳天皇陵古墳の陪塚に指定され宮内庁が管理しています。
あまり家がなかった頃の地図でははっきりと濠の跡が残っていました。古墳の西側と北側の道路に、濠の跡を明示しています。民家や建物に挟まれていますが西側と北側の道路から柵越しに見学できます。
2018/01/03 12:20:45
明治45年には埋葬部の発掘調査が行われており、舟形の木棺が収められていました。木棺からは、銅鏡2面(変形四獣鏡・変形五獣鏡)、刀剣とともに、勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・棗玉(なつめだま)・臼玉(うすだま)などの大量の玉類が出土しています。遺物や埴輪から仁徳天皇陵古墳(大山古墳)と同じ5世紀中頃の築造と考えられます。
2018/01/03 12:23:14
直径約26mの円墳で、周濠内から葺石や円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土している。5世紀中頃の築造と推定されており、大仙古墳(仁徳陵古墳)の陪塚と考えられる。国指定史跡(百舌鳥古墳群)、2014(平成26)年指定
2018/01/03 12:26:26
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の東260mに位置する、径40m程の円墳であったと推定されますが、現在は一辺10m前後、高さ2.8m程の三角形状の墳丘が残るのみで、かなり古い段階に大規模な削平が行われています。
2018/01/03 12:31:09
長塚古墳は前方部を西へ向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群では11番目の規模をもった古墳です。
墳丘は3段に築かれており、斜面では葺石を検出しています。もともとは周囲に濠が巡っていましたが、現在ではすべて埋没してしまい宅地となっています。近年の小規模な調査で濠の範囲がわかりつつあり、前方部の西側では幅約14メートルと判明しました。埋葬部の構造や副葬品の内容は不明ですが、埴輪の形状・前方部の高さや幅が発達していることなどから、5世紀中頃~後半頃に造られたものと考えられます。
2018/01/03 12:32:55
収塚(おさめづか)古墳は円墳のように見えますが、もとは前方部を西に向けた帆立貝形古墳でした。現在、前方部は削られてその形をとどめておらず、周囲を囲んでいた濠も埋没しています。埋葬部の構造や副葬品は不明ですが、以前に古墳の頂上部から鉄製のよろいの破片が採集されたと伝えられています。近年、古墳の東側で調査が実施され、濠の位置が判明し埴輪が出土しました。埴輪の形から5世紀中頃に造られたものと推定されています。
2018/01/03 12:35:48
仁徳天皇陵古墳の前方部南側に位置する帆立貝形墳。仁徳天皇陵古墳の付属墳と考えられる。
前方部は墳丘や濠の形が変えられていたが、発掘調査により、前方部の墳丘と濠が復元されている。
墳丘長は65m、後円部の高さは7.7mである。濠からは円筒埴輪や形象埴輪がみつかった。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/03 12:38:59
墳丘長486メートルの前方後円墳。日本最大の古墳であり、エジプトのピラミッド、中国の秦始皇陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられるほか、北側の反正天皇陵古墳、南側の履中天皇陵古墳と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれている。前方部と後円部に長持形石棺を納めた竪穴式石槨がある。明治5年に発見された前方部の竪穴式石槨では副葬品として金銅装の甲冑などが確認されており、この甲冑を描いた図は堺市指定有形文化財ともなっている。三重の周濠をもつ。5世紀中頃。
2018/01/03 12:41:36
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の陪塚と考えられ古墳の全長は61m、後円部径43m、前方部幅26mの前方部が短い帆立貝形をしています。一部の調査では葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたようですが、埋葬施設などについては不明です。
2018/01/03 12:43:08
濠から葺石や埴輪、須恵器などが出土したころから、墳丘には埴輪が並べられ、斜面には石が葺かれていたと考えられます
2018/01/03 12:45:07
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の西南にあり、高さ5.4mの方墳で周濠の有無は不明です。古くは堂亀山とも記されていたようです。墳丘は高く、2段築成がよく残るなど残存度は良好で、下段は南側が造り出し状に張り出し長方形を呈しています。
2018/01/03 12:50:04
履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)の北側、大仙公園の南入口にあります。鉢巻状の壁で保存されていますが、原形とは少し違うようです。鉄器や武器が大量に発見された七観山古墳(七観古墳)と、名前が似ているのでよく間違えられます。堺市の調査で直径25m、高さ3m程の円墳であることがわかっています。中心部の様子はわかっていませんが、碧玉製の琴柱形石製品が出土したといわれています。
2018/01/03 12:51:59
仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳の間に位置する帆立貝形墳。墳丘長は57.9m、後円部の高さは3.8mである。
小石が敷かれた墳丘の平坦面には、形象埴輪を立て並べていた。
円筒埴輪のほか、多種多様な形象埴輪がみつかっている。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/03 12:54:43
旗塚古墳のすぐ西側にある直径約61メートルの大形の円墳です。
墳丘は2段築成と考えられています。
周囲には濠がめぐり、葺石と埴輪があります。
主体部の構造や副葬品はわかっていませんが、円墳で径約61メートルという大きさは、仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の陪塚とされている径62メートルの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国でも有数です。
仁徳天皇陵古墳(大山古墳)や履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)の陪塚ではないようです。
2018/01/03 13:02:37
百舌鳥古墳群に属し、第十七代履中天皇陵である上石津ミサンザイ古墳の陪塚。円墳で径約21メートル。
宅地に囲まれて見えない。
2018/01/03 13:05:11
百舌鳥古墳群に属す円墳で、径約25メートル、高さ3メートル。
2018/01/03 13:10:24
古墳とは何の関係もありませんが、シマノの本社です。僕の6870Di2すこぶる調子がいいですね。
2018/01/03 13:14:01
乳岡(ちのおか)古墳は、百舌鳥古墳群の最も南西に位置する前方部を南西に向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群では6番目の規模を持つ古墳です。前方部の大半は削られてしまい、3段に築かれた後円部のみが現存しています。周囲に巡っていた濠も埋められていますが、墳丘には葺石(ふきいし)があり、埴輪が立てられていました。昭和47年には、埋葬部分の確認調査が行われています。その結果、後円部中央で粘土で覆われた長持形石棺(ながもちがたせっかん)が検出され、粘土からは車輪石(しゃりんせき)などの腕輪形石製品が出土しました。
乳岡古墳が築かれたのは、石棺の形や遺物から4世紀末頃と考えられ、百舌鳥古墳群で最初に造られた大型前方後円墳です
2018/01/03 13:24:03
墳丘長365メートルの前方後円墳。日本第3位の墳丘規模を誇る。現在は一重の周濠であるが、発掘調査により二重濠をもつことが確認されている。4世紀末、ないし5世紀初頭。
2018/01/03 13:31:06
百舌鳥古墳群に属し、径20メートルの円墳。第十七代履中天皇陵である上石津ミサンザイ古墳からやや離れたところにあるが、陪塚として宮内庁が管理している。
2018/01/03 13:35:30
百舌鳥古墳群に属し、墳丘長50メートルの前方後円墳で、前方部は短い帆立貝形をしている。すでに消滅している百舌鳥大塚山古墳の陪塚の可能性があるとされる。
2018/01/03 13:47:30
百舌鳥古墳群に属す円墳で、径10メートル。すでにほぼ消滅している。
2018/01/03 13:50:07
グワショウ坊古墳の南約100m、府立堺支援学校の敷地内にある前方部を西に向けた前方後円墳です。前方部が削られているために、現状では円墳のような形になっていますが、昭和56~57年(1981~1982年)、平成19年(2007年)に大阪府教育委員会の行った調査で墳丘が全長約72m、後円部径約54m、前方部幅約44mの規模で、周濠がめぐっていたことが確認されています。
2018/01/03 13:54:34
墳丘長146メートルの前方後円墳。昭和30年頃に破壊の危機にあったが、市民を中心とした保存運動により保存された。堺市指定有形文化財の衝角付冑型埴輪が出土している。 5世紀前半。国史跡。
2018/01/03 13:56:22
善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳は、百舌鳥川北岸に位置する方墳で、いたすけ古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と考えられます。
平成12・15年度の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しましたが、墳丘の周囲には明確な周濠を設けていません。また、テラス上に埴輪列を検出しましたが、その埴輪から5世紀前半の築造であると考えられます。
2018/01/03 13:59:34
百舌鳥エリアの中央部に位置する前方後円墳。
墳丘長は203m、後円部の高さは18.3mである。築造時は二重の周濠をもつ古墳であった。
発掘調査の結果、墳丘に造られた平坦面から隙間なく並べられた円筒埴輪が出土した。造り出しからは、囲形かこいがた埴輪、家形埴輪、魚やザル形の土製品など、多様な遺物が出土した。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/03 14:07:07
百舌鳥古墳群に属し、後円部径25メートルの前方後円墳。御廟山古墳の陪塚と考えられる。
2018/01/03 14:17:06
百舌鳥古墳群に属し、径34メートルの円墳。独立した古墳。5世紀中頃の築造と考えられる。
2018/01/03 14:20:46
御廟表塚(ごびょうおもてづか)古墳は、百舌鳥川北岸に位置する帆立貝形前方後円墳ですが、耕地開発や宅地開発により、周濠の大半が埋められ、前方部が失われています。史跡指定地は、後円部及び北東隅に残された周濠の一部です。
2018/01/03 14:30:16
ニサンザイ古墳の北方約500メートルにあります。
現在は、城の山公園と名づけられた古墳公園になっています。
一見するとただの土まんじゅうのようにしか見えませんが、昭和30年代までは、周濠の跡も水田の畦にクッキリと残っていました。
しかし、もともとは前方部を西に向けた帆立貝形古墳で、昭和43年(1968年)より行われた土地区画整理事業の際に墳丘が著しく変形し、そのまま公園となりました。
2018/01/03 14:36:34
墳丘長300メートルの前方後円墳。日本第7位の墳丘規模を誇る。現在は一重周濠だが、発掘調査で二重目の濠が確認されている。5世紀後半。墳丘は、東百舌鳥陵墓参考地として宮内庁が管理
2018/01/03 14:41:55
陵南中央公園内に保存されている直径約25mの円墳。
国指定史跡(百舌鳥古墳群)、2014(平成26)年指定。
2018/01/03 14:42:54
正楽寺山(しょうらくじやま)古墳は、美濃川北岸に位置する円墳で、ドンチャ山古墳と接するように築造されています。
平成21年度の調査では、墳丘は2段築成で、盛土の状況から中央に埋葬施設が残されている可能性が高まりました。古墳築造時期は、出土した須恵器から6世紀前半の築造であると考えられます。
2018/01/03 14:55:16
百舌鳥古墳群の南端にあり、主要な古墳の集中地帯から離れて築かれた、百済川(くだらがわ)左岸の台地上にある前方部を西に向けた前方後円墳です。
墳丘は全長約59.1m、後円部径約36.3m、高さ約5m、前方部幅約27.3m、高さ約4mの規模で、明確な周濠はありません。かつて、須恵質の埴輪が採集されていますが、主体部の構造や副葬品などについてはわかっていません。古墳の中には入れませんが、南側と西側の道路からフェンス越しに墳丘を眺めることができます。