(紀州・中国・西国・東高野・清滝・守口・京・熊野)街道をポタってみる。

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2018-01-07 07-36

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/01/07 07:42:02終了日時2018/01/07 15:33:08
水平距離110.11km沿面距離110.53km
経過時間7時間51分06秒移動時間7時間05分41秒
全体平均速度14.08km/h移動平均速度15.44km/h
最高速度39.88km/h昇降量合計1875m
総上昇量936m総下降量939m
最高高度99m最低高度-1m

写真レポート

紀州街道 正音山 阿弥陀寺前

2018/01/07 07:46:50

紀州街道 正音山 阿弥陀寺前

江戸時代、大坂と和歌山への大動脈路でした。高麗橋から堺筋を南に下り、天下茶屋・住吉大社、堺を経るという、海辺に沿った和歌山への経路で、街道は大名や商人たちの往来で
賑わいました。昔は住之江あたりは、すぐそばまで海岸線が広がり、白砂青松の景勝地で有名でした。
掲示板

紀州街道 安立の家並

2018/01/07 07:50:14

紀州街道 安立の家並

「安立」という地名は元和年間(1615~1624)に、名医として名をはせた典薬頭・半井安立(なからいあんりゅう)が当地に居を構えて、その治療を求めて人々が集まって、いつしか町を形成したことが由来です。

ジョイフル安立は安立中央、本通り、東通り、銀座通りの4つの商店街で構成されていますが、いにしえには「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には参勤交代路として賑わいを見せた紀州街道沿いの商店街なので100年以上続くような老舗も数多く残っています。また江戸時代には、住吉大社の一寸法師伝説にあやかって針商人が「みすやの針」を売って儲けたといいます。掲示板

紀州街道 住吉大社

2018/01/07 07:54:53

紀州街道 住吉大社

住吉大社は、全国に2300余りある住吉社の総本宮であり、摂津国の一宮である。また下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに、日本三大住吉と呼ばれる。

紀州街道は住吉大社への参詣路として発達した面も大いにある。

紀州街道 天下茶屋跡

2018/01/07 08:02:25

紀州街道 天下茶屋跡

今から400年余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和62年に現在のものに修復された。掲示板

紀州街道 道修町の町家

2018/01/07 08:24:27

紀州街道 道修町の町家

道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町家を集大成した和風建築(国の重要文化財)。小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856)、京都から大阪道修町に出て薬種業・小西儀助商店(現・コニシ株式会社)を創業したことに始まる商家。現在の建物は明治36年(1903)から3年かけてつくられたもの。

街道起点 高麗橋東詰

2018/01/07 08:26:49

街道起点 高麗橋東詰

江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。

中国街道 梅田(茶屋町)辺り

2018/01/07 08:48:42

中国街道 梅田(茶屋町)辺り

中国街道は高麗橋を起点として西宮で西国街道と合流する。
ここ梅田の茶屋町あたりは湿地帯で江戸時代菜の花畑が広がっていたそうだ。

中国街道 能勢街道 分岐点

2018/01/07 08:53:26

中国街道 能勢街道 分岐点

左は中国街道、まっすぐは能勢街道。

能勢街道は此処中津を起点として、十三、三国、庄内、服部、岡町、石橋、池田、木部、古江、多田、一の鳥居、そして尾根筋を通り妙見山へ至る。

能勢街道 三国の渡し

2018/01/07 09:15:06

能勢街道 三国の渡し

大阪市と豊中市の境界となっている神崎川にかかる三国橋、明治6年にこの橋が架けられる以前はこの場所に渡し船があり「三国の渡し」と呼ばれていました。その歴史は古く「太平記」のなかで南北朝の楠木・和田軍と箕浦・佐々木軍の争いの記事に出てきており、1362年には既に存在していたと思われます。江戸時代には能勢・池田方面の特産品が集められ大阪市内へ積み出す港として能勢街道のなかでは重要な場所であったようです。現在はここから西側200mほどのところに阪急宝塚線の三国駅があり、今も変わらず周辺地域の交通の中心となっています。掲示板

能勢街道 服部天神宮辺り

2018/01/07 09:26:37

能勢街道 服部天神宮辺り

関連リンク

この辺りは渡来人の秦氏が住居していたところとされ、服部の地名も「機織部(はたおりべ)」から成り立ったとしている。この秦氏一族が崇拝していたのが「少彦名命」とのことで、当社の創建はこの時代まで遡ることになる。
 菅原道真が901年(延喜元年)大宰府に左遷される途中、この辺りで脚気に悩まされ、足が浮腫んで歩けなくなったとき、村人の勧めで、「少彦名命」を祀る服部の路傍の小祠に詣で、平癒を祈願したところ、持病の脚気が治り、無事に大宰府に着いたと伝えられる。菅公の没後、各地に天神信仰が起ったが、当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営したことから、全国に菅公脚気平癒の霊験が喧伝され、「脚気天神」「足の神様」として広く信仰を集めた。
 特に、当地は大坂から池田、能勢、亀岡に通じる能勢街道の中間地点にあったことから、江戸時代の中期から末期にかけては、非常な賑わいを見せ、

能勢街道 原田神社辺り

2018/01/07 09:38:35

能勢街道 原田神社辺り

関連リンク

7世紀後半の天武天皇の時代に創建されたと伝えられている「原田神社」。主祭神は「牛頭天王(ごずてんのう)」で、1688(貞享5)年に「原田大明神」の神号を得て現在の社名となった。
能勢街道と伊丹街道の分基点

能勢街道 寛政5年(1793)道標

2018/01/07 09:51:52

能勢街道 寛政5年(1793)道標

豊中市刀根山元町1にある古い道標。

能勢街道 西国街道 合流点

2018/01/07 10:02:13

能勢街道 西国街道 合流点

ここは西国街道と南北に通る能勢街道(江戸時代は大坂・池田道)との辻で、高札場跡でもあります。この踏切にはかって、石橋が架かっており、西国街道と能勢街道が交差していました。道標は、その石橋の西詰に設置されていたものです。

西国街道 牧落の旧札場

2018/01/07 10:14:52

西国街道 牧落の旧札場

ここは西国街道と箕面・大坂道との四つ辻になり、牧落村の高札場でした。ここに2基の道標があります。右の道標に表記された天神は、大阪市北区の天満宮、豊中市服部元町の服部天神を、刀根山御坊は、豊中市刀根山元町の刀根山御坊を、それぞれ案内しています。刀根山御坊は、貞治二年(1363)存覚上人が摂津国豊島之庄に創立した大寺院で、その後織田信長が荒木村重の有岡城攻略のために刀根山城を築いたところです。

西国細動 萱野三平旧邸

2018/01/07 10:22:57

西国細動 萱野三平旧邸

関連リンク

四十八番目の赤穂浪士萱野三平重実は、この地で父重利の三男として生まれた。父は旗本大嶋出羽守の家臣で大嶋家の所領椋橋庄の代官を勤めていた。三平は13才の時、大嶋家の推挙で播州赤穂の浅野長矩に仕えて中小姓となる。元禄十四年三月、主君切腹となるや、速水藤左衛門と共に五日五夜早駕籠を乗り継いで、このことを赤穂へ急報する。途中生家の前を通り過ぎる時、図らずも母小まんの葬儀に出会うが、ただ掌を合わせて先を急ぐ。主家断絶の後、仇討ちの連判状に加わるが、父は江戸行きを許さず、翌十五年の一月十四日、主君命日の日、自宅の長屋門の一室で自害する。時に二十七才。辞世「晴れゆくや日頃こころの花曇り 涓泉」
 彼は大高源吾と共に、当時名前の知られた俳人の一人でもあって涓泉はその俳号である。これによって旧邸は涓泉亭と名付けられて公開さ;れている

西国街道 勝尾寺表参道大鳥居

2018/01/07 10:34:54

西国街道 勝尾寺表参道大鳥居

勝尾寺(西国三十三所第二十三番札所)の参道はいくつもありますが、西国街道に面したこの大鳥居を起点として北へ向かう道が表参道になります。鳥居の右下に町石(大寺院などへの案内として街道筋に建てられた道しるべ)と道標(町石の左)があります。

西国街道 椿の本陣

2018/01/07 10:45:11

西国街道 椿の本陣

郡山宿は、西の瀬川宿と東の芥川宿にはさまれた、西宮と京都の間の五宿駅の一つです。この本陣は、享保三年(1718)に焼失しましたが、享保六年には西国諸大名の寄付などにより再建されました。現在の建物はその当時のままに残されています。また、正門の脇には椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから「椿の本陣」と呼ばれた。

西国街道 中川原の案内板

2018/01/07 10:49:41

西国街道 中川原の案内板

中河原は、西国街道と亀岡街道の交差点になります。古くは長柄や吹田を経て山陽道に通じる三島路と、丹波亀山(現亀岡市)から南進する路との南北の結節点でもありました。一方、西国街道は、山陽道、山崎道ともよばれていました。

西国街道 白井河原合戦場跡

2018/01/07 10:51:58

西国街道 白井河原合戦場跡

元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。この戦いに勝利した荒木村重は織田信長からも一目おかれる存在となる。

西国街道 芥川一里塚

2018/01/07 11:10:36

西国街道 芥川一里塚

関連リンク

西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の政治・経済に大きな影響を及ぼしました。現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。
江戸時代には脇街道として「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれ、京都・山崎と西宮間を結んで西国大名の参勤などに利用され、同時に京坂間の交通路として重要な役割を果たしました。
街道沿いには、一里塚が設けられ宿場が整えられていました。一里塚とは、1里(約4km)ごとに街道の両脇に塚を築き、エノキを植えて、街道の路程の目印としたものです。市域では梶原と芥川にありましたが、現在は旧芥川宿東口の東側だけに残り、府の史跡に指定されています。 高槻市HP転記

西国街道 摂津・山城の境界

2018/01/07 11:58:34

西国街道 摂津・山城の境界

「従是東山城國」の石碑が建つ小さな川で分けられた京都府大山崎町と大阪府島本町の境界があります。

西国街道 離宮八幡宮

2018/01/07 11:59:36

西国街道 離宮八幡宮

当社の歴史は貞観元(860)年に大和大安寺の僧行教が豊前の国宇佐八幡神の分祀を受け嵯峨天皇が営んだ河陽離宮に鎮座させたことに始まります。

平安時代の末に当地で始まった荏胡麻油生産が活発化すると鎌倉時代には油座が結成され、神社は座の会所となり大いに繁栄しました。

室町時代には大山崎油は西は九州北部から東は美濃地方まで独占販売するほどになりました。

大山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。

八幡宮はいはば油座のシンボルであったのです。

その当時の様子は司馬遼太郎の「国盗物語」の中にも描かれています。 大山崎町HP転記

西国街道 大山崎東黒門跡

2018/01/07 12:03:39

西国街道 大山崎東黒門跡

昔の大山崎集落は、離宮八幡宮の神領であり、15世紀にその集落の東と西の端にそれぞれ黒門が設けられ、それぞれ東の黒門・上の黒門と、西の黒門・下の黒門と言ったそうです。
門は夜になると用心のため集落を守るために閉めていました。東黒門はちょうど、五位川が西国街道と交わるところにあり、道路拡張され跡形も無い。現在は掲示板があります。

東高野街道 岩清水八幡宮

2018/01/07 12:21:03

東高野街道 岩清水八幡宮

旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の一社。宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡県福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の一社であり、また宮中の四方拝で遥拝される一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている(2016年2月9日指定)。本殿は現存する八幡造の中で最古かつ最大規模を誇る。

東高野街道 洞ヶ峠茶屋

2018/01/07 12:37:26

東高野街道 洞ヶ峠茶屋

洞ヶ峠(ほらがとうげ)は、京都府八幡市八幡南山 と 大阪府枚方市高野道・長尾峠町の境にある峠。かつては東高野街道の中継地であり、現在はその少し東を国道1号(枚方バイパス、京阪国道)が通っており、峠のすぐ北に八幡洞ヶ峠交差点(山手幹線の交点)がある。峠ではあるが、曲がりくねった坂道はなく、線形の良い勾配の緩やかな4車線道路である。Wikipedia

峠には茶屋があって(かなり昔から営業されている)ぼた餅が有名。

東高野街道 出屋敷辺り

2018/01/07 12:50:29

東高野街道 出屋敷辺り

高野山参詣のために整備された街道であるが、その歴史は古く平安時代の官道である南海道に遡る。南海道は、律令国家体制の崩壊とともに機能を失墜しつつ あったが、高野聖の台頭を機に碑がちの高野街道として再び重要視され、平安時代後期から室町時代の末頃まで貴族による高野詣での頻繁な往来で賑わった。以 後も慶長6(1601)年に京街道が整備されるまで、山城と河内を結ぶ幹線道であった。           旧東高野街道(出屋敷) 説明板

東高野街道 本尊掛松遺跡

2018/01/07 13:06:32

東高野街道 本尊掛松遺跡

元亨元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ユウズウネンブツシュウ)中興の祖法明(ホウミョウ)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(ジュウイッソンテントクニョライ)の画像を授かった。
上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(ショウミョウネンブツ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。
やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(イヌイジンエモ)屋敷(茄子作北町)であったという。
「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。 1994年 枚方市教育委員会

清滝街道 守口街道 分岐点

2018/01/07 13:38:51

清滝街道 守口街道 分岐点

本市の中央部を東西に貫く古道は、清滝街道と呼ばれ、多くの人々に利用されてきた。
蔀屋西端から東へ山間を越えて下田原に至り、磐船街道と交差する約7kmのこの道は、古代
より河内と大和を結ぶ重要な道であった。 戦後は国道163号として整備され、平成2年
には清滝トンネルが開通し、急坂が解消されて、いよいよその重要度が増している。

守口街道起点 京街道守口宿

2018/01/07 13:59:55

守口街道起点 京街道守口宿

守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。

京街道 文禄堤への勾配道路

2018/01/07 14:01:18

京街道 文禄堤への勾配道路

安土桃山時代の文禄5年(1596)、豊臣秀吉は、毛利輝元らに命じて、淀川左岸に京都と大坂を最短で結ぶ陸路を整備させました。これが京街道または大坂街道と呼ばれる堤防道です。この文禄堤の長さは約27キロメートルといわれていますが、淀川の改修等でその多くは姿を消しており、ここ守口にのみ面影をしのぶことができます。

京街道 守口宿

2018/01/07 14:02:30

京街道 守口宿

画像は文禄堤の上に現在残る家並。
街道風情が残り都心の中で江戸時代が息づいている。

京街道 野江の刑場跡

2018/01/07 14:25:21

京街道 野江の刑場跡

関連リンク

かつて京街道と水路に挟まれた場所に野江の仕置き場(刑場)があったそうだ。

京街道起点

2018/01/07 14:39:52

京街道起点

正確には街道起点は高麗橋東詰と成るのでしょうが。

一般概念的には此処が妥当でしょうね?

熊野街道 上汐町辺りの家並

2018/01/07 14:53:35

熊野街道 上汐町辺りの家並

熊野街道 四天王寺西鳥居

2018/01/07 15:03:20

熊野街道 四天王寺西鳥居

四天王寺の石鳥居(重要文化財)と西大門。1294年木造鳥居からを石鳥居に変えた、神仏習合時代の名残。鳥居上部に「当極楽土 東門中心」とあり、ここが極楽の入口であるとの意で西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。

熊野街道 阿倍野王子神社

2018/01/07 15:16:15

熊野街道 阿倍野王子神社

当地は四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣の街道筋の九十九王子のひとつ「阿倍王子」として、後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安時代には、窪津王子(大阪市中央区)、坂口王子(同)、郡戸王子(同)に次ぐ4番目の王子とされていた(「後鳥羽院熊野御幸記」)。後に郡戸王子と当王子の間に上野王子(天王寺区)が設置され、5番目の王子となるが、戦国時代の戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失。安土桃山時代には2番目の王子となっている。

現在、大阪府内の九十九王子で唯一、旧地に現存している王子である。

熊野街道 住吉大社 東門

2018/01/07 15:26:35

熊野街道 住吉大社 東門

関連リンク

わが国で初めて灯火用として搾油された記録としては,「搾油濫觴」(衢重兵衛編 文化 7 年 1810 年刊)によるものがあり,それによれば「摂津の国の住吉大明神(住吉大社)において行われた神事で灯火が使われ,その灯明油として献灯するため,同じ摂津の国の遠里小野村において,榛(はしばみ)の実の搾油がなされた」といわれている。遠里小野村はこれにより,社務家から御神領のうち免除の地を与えられた,という。これがわが国の搾油の始まりとされている。
東門は遠里小野へ向かう門でもあったし古代より続く磯歯津路(しはつみち)の起点でもあったようだ、5世紀にはこの路が存在したようだ・。