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開始日時 | 2018/01/14 07:56:07 | 終了日時 | 2018/01/14 12:20:59 |
水平距離 | 51.18km | 沿面距離 | 51.32km |
経過時間 | 4時間24分52秒 | 移動時間 | 4時間15分00秒 |
全体平均速度 | 11.63km/h | 移動平均速度 | 12.05km/h |
最高速度 | 30.40km/h | 昇降量合計 | 751m |
総上昇量 | 377m | 総下降量 | 374m |
最高高度 | 55m | 最低高度 | 6m |
2018/01/14 08:06:15
道標「右 住よし 大さか 左 妙国寺 五丁南 大小ぢ 安永六年丁酉四月 」
2018/01/14 08:13:07
方角の厄を取り除き、神様のご加護を受けられるとして親しまれてきたのが、「どの方角にも属さない」方違神社(ほうちがいじんじゃ)です。
摂津・河内・和泉の3国の国境である三国丘(みくにがおか)に位置したことから、東西南北すべての方位を消滅させる場所とされ、ここに参拝すれば三国の土を踏む、つまり方違えを行ったことと同じ意味を持つと謂われる。
2018/01/14 08:49:01
島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)は、大阪府羽曳野市島泉八丁目にある古墳。形状は円墳。古市古墳群の西北部に位置する。「雄略天皇陵」「高鷲丸山古墳」とも。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。
2018/01/14 08:50:49
古市古墳群に属し、その西北部に位置する方墳で、一辺50メートル。島泉丸山古墳(円墳)と隣接している。「丹比高鷲原陵」という名称を島泉丸山古墳と共有しているため、方墳と円墳を一つの前方後円墳に見立てているという説もあるが、一応別々の古墳として、通常は認識されている。
2018/01/14 09:01:56
前方後円墳。
墳丘長は210m、後円部の高さは16.9mである。
1912年に後円部から埋葬施設が発見され、竪穴式石室たてあなしきせきしつの中に国内最大級の長持形石棺ながもちがたせっかんが納められていた。石室や石棺内からは、銅鏡、鉄製武具・武器、腕輪形石製品、装身具などが出土している。
墳丘は、幅の広い二重の濠と堤に囲まれている。内側の濠の中には島状の高まりが造られており、3体の水鳥形埴輪が置かれていた。
築造時期は4世紀後半である。
2018/01/14 09:12:51
前方後円墳。墳丘長は245m、後円部の高さは19.5mである。室町時代に城として使われたため、墳丘の上面は一部の形が変えられている。
周囲には幅の広い濠が巡り、堤の上にも円筒埴輪が並べられていた。墳丘や濠からは、円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は諸説があるが、4世紀後半から5世紀後半にあたるものと考えられる。
2018/01/14 09:19:22
哀天皇陵古墳の北側に位置する前方後円墳。仲哀天皇陵古墳の付属墳と考えられる。
墳丘長は60m、後円部の高さは6.5mである。長さに対して、こんもりと高い墳丘が特徴的である。墳丘から円筒埴輪がみつかっている。
築造時期は5世紀後半である。
2018/01/14 09:30:27
雄略天皇の子清寧天皇に子がなかったため、清寧天皇はこれを喜び、兄弟を迎え、兄の億計皇子を皇太子とした。しかしながら、兄弟で皇位を譲り合っていたために、はじめは姉の飯豊青皇女が称制し、次に弟の弘計皇子が即位(顕宗天皇)、最後に億計皇子が即位し仁賢天皇となった。
2018/01/14 09:36:40
前方後円墳。墳丘長は96m、前方部の高さは10mである。
築造時は二重の周濠をもつ古墳であった。埋葬施設である後円部の石室には阿蘇産の石材で作った舟形石棺が納められていた。
石室の内部からは、銅鏡どうきょう、大刀たち、鉄鏃てつぞく、多量の玉類、馬具のほか豪華な装飾品などの副葬品が出土した。
墳丘や濠からは円筒埴輪、形象埴輪のほか、須恵器が出土している。
2018/01/14 09:39:50
古市古墳群の南西部に築かれた前方後円墳です。墳丘長115メートル、後円部直径63メートル、前方部幅128メートルを測り、前方部幅が後円部直径の2倍に達しており、前方後円墳としてはもっとも前方部が発達した形態で、墳形の最終段階を示すものと考えられています。周濠(しゅうごう)は地形に制約されるため、前方部付近には水量調整用の土手が築かれています。また、くびれ部の北側には造出しが存在します。さらに平成15年度の調査で二重目の濠が存在することが判明しました。これらの調査で出土した埴輪などから古墳の築造は6世紀前半頃であったと考えられています。
2018/01/14 09:42:52
古市(ふるいち)古墳群の南西部、羽曳野丘陵から東にのびる台地の上に造られた小型の前方後円墳です。西方には全長115メートルの前方後円墳の白髪山(清寧陵古墳)が一直線上に同じ向きで並んでいて、その陪冢(ばいづか)と考えられます。
全長46メートル、高さ4.5メートル、幅10メートルほどの周濠(しゅうごう)がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたようです。白髪山古墳とともに、6世紀前半頃に築造されたと推定されます。
2018/01/14 09:46:28
古市エリアの南側に位置する前方後円墳。
墳丘長は200m、前方部の高さは23.3mである。
発掘調査の結果、墳丘に造られた平坦面から隙間なく並べられた円筒埴輪が見つかっている。造り出し付近からは、まつりに使われたと考えられる須恵器が発見された。
築造時期は5世紀後半である。
2018/01/14 09:53:06
古墳は高屋丘陵の北端に築かれた前方後円墳で、古市古墳群内の南側のグループのひとつです。墳丘長122メートル、後円部直径78メートル・高さ13メートル、前方部幅100メートル・高さ12.5メートルを測り、前方部が開き、わずかに後円部の方が高くなります。周濠(しゅうごう)は幅約15メートルで全周しますが、外堤(がいてい)については地形の変形が著しく、その規模は不明瞭(ふめいりょう)です。さらに墳丘部分は、中世の高屋城の築造や陵墓改修に伴って、古墳本来の形態が大きく改変されています。特に、前方部の北隅が直角になりますが、これが本来の形態かどうかは確認されていません。 出土する埴輪や須恵器(すえき)の特徴、正倉院(しょうそういん)と同種のペルシャ製ガラス椀の年代観から古墳は6世紀前半頃に築かれたと考えられています。
2018/01/14 10:02:36
墓山古墳の後円部南東側に位置する方墳。墓山古墳の付属墳と考えられる。
墳丘長は45m、高さは9.4mである。
円筒埴輪、形象埴輪のほか、須恵器が出土している。
築造時期は5世紀後半である。
2018/01/14 10:05:21
墓山古墳の後円部東側に位置する方墳。墓山古墳の堤に、墳丘の一部をくい込ませるように造られ、墓山古墳の付属墳と考えられる。
墳丘長は68m、高さは10.7mである。
墳丘から円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:06:57
古市エリアのほぼ中央の台地上に位置する前方後円墳。
墳丘長は225m、後円部の高さは20.7mである。
墳丘からは円筒埴輪のほか、家形、靫ゆぎ形などの形象埴輪が出土している。
形象埴輪のなかでも、盾たてを持つ人をあらわした埴輪は、人物形の埴輪として最も古いもののひとつである。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:10:18
全長約154mの前方後円墳。後円部径約100m・高さ約14.1m、前方部幅約75m・高さ約10.1m、3段築成で葺石・埴輪(円筒・家・盾・馬・鶏・猪など)を備え、くびれ部両側に造出しを持つ。墳丘の周囲は濠と堤に囲まれている。後円部墳頂に竪穴系の埋葬施設が存在すると思われるが、詳細は不明。5世紀前半の築造。
前方部に幼稚園、後円部には神社が建てられている。桜の名所としても知られ、「藤井寺八景」の1つにも選ばれている。
2018/01/14 10:17:05
全長約154mの前方後円墳。後円部径約100m・高さ約14.1m、前方部幅約75m・高さ約10.1m、3段築成で葺石・埴輪(円筒・家・盾・馬・鶏・猪など)を備え、くびれ部両側に造出しを持つ。墳丘の周囲は濠と堤に囲まれている。後円部墳頂に竪穴系の埋葬施設が存在すると思われるが、詳細は不明。5世紀前半の築造。
前方部に幼稚園、後円部には神社が建てられている。桜の名所としても知られ、「藤井寺八景」の1つにも選ばれている。
2018/01/14 10:20:11
古市エリアの中央部に位置する前方後円墳。
墳丘長は103m、後円部の高さは9.5mである。後円部の頂上には、盗掘された跡(盗掘坑とうくつこう)があり、ここから石棺が発見されたと伝えられる。
墳丘から、円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:29:39
古市古墳群に属す方墳で、第十五代応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳の外溝に沿うように造られている。一辺50メートル。5世紀中頃のもので、周濠が確認されている。
2018/01/14 10:38:46
古市エリアの中央部に位置する、日本第2位の大きさの前方後円墳。
墳丘長は425m、後円部の高さは36mである。墳丘の体積(143万?)は国内第1位である。墳丘の周囲に二重の濠と堤をもつ。
墳丘や濠からは円筒埴輪や形象埴輪がみつかっている。応神天皇陵古墳には1万8千本以上の円筒埴輪が並べられていたと推定されている。築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:41:40
仲姫命陵古墳と応神天皇陵古墳の間に位置する前方後円墳。
墳丘長は110m、後円部の高さは12.3mである。
墳丘は、後円部の高さが高いことが特徴である。
墳丘の周囲には、幅の狭い濠が巡る。墳丘から円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:46:37
応神天皇陵古墳の外側の堤に接して造られた方墳。応神天皇陵古墳の付属墳と考えられる。
墳丘長は43m、高さは5mである。
墳丘と濠から円筒埴輪、家形の埴輪のほか、多様な形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:47:49
応神天皇陵古墳の外側の堤上に造られた方墳。応神天皇陵古墳の付属墳と考えられる。
墳丘長は30m、高さは3.5mである。墳丘周辺から円筒埴輪が出土した。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 10:51:10
応神天皇陵古墳の東側、内側の堤に接して造られた前方後円墳。墳丘長は110m、後円部の高さは9.9mである。応神天皇陵古墳の付属墳と考えられる。
墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。
築造時期は4世紀後半である。
2018/01/14 10:57:19
西名阪自動車道の高架下に保存されている1辺約15mの方墳。5世紀前半の築造。国指定史跡(古市古墳群)、2001(平成13)年指定。
2018/01/14 10:58:20
仲姫命陵古墳と応神天皇陵古墳の間に位置する前方後円墳。
墳丘長は150m、後円部の高さは15.3mである。
墳丘に造られた平坦面には、円筒埴輪が並べられ、形象埴輪も出土している。
築造時期は4世紀後半である。
2018/01/14 11:00:45
古市エリアの、台地のはり出した最も高い場所に位置する前方後円墳。
墳丘長は290m、後円部の高さは26.2mである。
墳丘の周りを幅のせまい濠が巡る。外側の堤は幅が広く、円筒埴輪、形象埴輪がみつかっている。
築造時期は4世紀後半である。
2018/01/14 11:09:26
仲姫命陵古墳の後円部北東側に位置する方墳。
墳丘長は63m、高さは7mである。仲姫命陵古墳の付属墳と考えられる。
墳丘からは円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀前半である。
2018/01/14 11:12:38
、大阪府藤井寺市国府に所在した前方後円墳。市ノ山古墳の周濠外にあったが1955年(昭和30年)に道路工事により墳丘の過半が消滅した(墳丘の北側の1部が個人の居宅の庭園として残存している)。緊急の発掘調査により、石棺や遺物が出土している。古市古墳群に属する古墳である。
2018/01/14 11:20:50
古市エリアの北東部、台地のはり出した部分に位置する前方後円墳。墳丘長は230m、前方部の高さは23.3mである。
築造時は二重の周濠をもつ古墳であった。濠からは円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
築造時期は5世紀後半である。
2018/01/14 11:28:52
国府遺跡は、旧石器時代から中世に至る集落遺跡です。大正6年に日本で初めての本格的な発掘調査が実施されて以来、縄文時代から弥生時代の人骨が計90体検出されています。また、飛鳥時代には衣縫廃寺(いぬいはいじ)が創建され、塔心礎(とうしんそ)は現在でも史跡内に残っており、国の史跡に指定されています。その名からも連想されるように奈良・平安時代には河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられています。