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開始日時 | 2018/01/21 07:07:02 | 終了日時 | 2018/01/21 12:11:05 |
水平距離 | 72.95km | 沿面距離 | 73.24km |
経過時間 | 5時間04分03秒 | 移動時間 | 4時間36分23秒 |
全体平均速度 | 14.45km/h | 移動平均速度 | 15.78km/h |
最高速度 | 38.21km/h | 昇降量合計 | 1046m |
総上昇量 | 528m | 総下降量 | 518m |
最高高度 | 100m | 最低高度 | 3m |
2018/01/21 07:14:55
2018/01/21 07:23:36
2018/01/21 07:50:15
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。
2018/01/21 08:13:46
亀岡街道沿いをしばらく歩くとまた道標が現れます。
「(指差し右)厄除安産正観世音 瑞光寺道 同江口道」「(指差し左)吹田富田茨木道」「すぐ大坂道」と刻む。
土塀は北中島三庄屋の一柳家(リンク参照)
2018/01/21 08:24:49
かつてはこの辺りに吹田の渡しがあった。
ここでは、神崎川と安威川の合流地点に当たる。
江戸時代、橋の設置前は、吹田の渡しが人・物の運搬を行っていた。
また、この付近では、回漕業を営む家が軒を連ねていたと言う。
2018/01/21 08:27:55
吹田の高浜に古くからある大社。天平七年(735)にその始まりがあるそうです。昔から吹田大宮、高浜大社とも呼ばれる吹田総社です。
通称は「大宮さん」。
2018/01/21 08:48:26
右 亀岡街道 亀岡 高槻 京都
左 小野原街道 山田 小野原 勝尾寺
明治期のもの
2018/01/21 09:22:01
磯良(いそら)神社は、疣水神社とも疣水磯良神社とも言われ、古くから「疣水(いぼみず)さん」と呼ばれ親しまれています。神社御神頭の霊泉「玉の井」は、疣はもちろんのこと、諸病平癒に霊験あらたかな御神水として知られています。この「玉の井」の水を汲んで神前に供え、礼拝の後これをうけて帰る崇敬者はい今も絶えません。神功皇后が戦に行く時、敵になめられないよう男の格好をし、更に顔をいかめしくするため疣を身につけようと思い、通りかかったこの神社に寄り、祈願して社前から湧き出ていた清水で顔を洗いました。すると、美しかった顔が大きな疣だらけの黒い顔となり、戦いが終わると、磯良神社に戦勝の報告をし、再び清水で顔を洗うと、今までのいかめしい顔が消え去り、もとの美しい姿に戻ったので喜び勇んで大和の王城に帰ったと言われています。
2018/01/21 09:27:09
御神水「疣水」の受け方
1.先に手水所(建物右端)で手水をすませる。
1.御神水口より持参の容器又は備付の紙コップに御神水を受ける。(紙コップの料金として
5円程度近くのお賽銭箱に寄付すること)
(御神水で容器・コップを洗わぬこと、コップの洗浄は手水鉢左横の水栓を利用のこと。)
1.受けた御神水はすべて本殿前の御神水台にふたをあけ供える。
(初めての祈願の方は受付でご祈祷をお申し込み下さい。
1.参拝後、御神水を持ち帰る。(いただく。)
2018/01/21 09:31:18
御神水の疣水拝受所には「御神水の拝受は家族・グループで10L(5升)を限度とします。限度を超え容器を持込む方は拝受をご遠慮いただきますのでご注意下さい。」
また紙コップがあり稲穂料5円で、一旦汲んでから拝殿に備えてから飲むと良いらしい。
2018/01/21 09:45:03
枝切街道は茨木市大手町で高槻街道・茨木街道から分かれ摂津市鳥飼下の淀川堤の高槻街道支線に合流する
また、さらに淀川を鳥飼の渡しで渡ると小阪街道の起点となり、小阪街道を南下すると八尾に到る
枝切街道と小阪街道を併せると概ね現在の大阪府道15号八尾茨木線に当たる
2018/01/21 10:23:40
小泉弥治衛門(やじえもん)は、江戸時代初期の人です。守口市教育委員会が設置した説明文には、おおよそ次のように書かれています。
この辺りは水はけが悪く、毎年のように農作物に被害を及ぼしていました。慶安元年(1648年)7月、藤田村の小泉弥治右衛門は、村民の苦しみを取り除こうと、幕府の許可なしに古川筋に排水樋を設け水はけをよくしました。しかし、上下流地域から苦情が出て、幕府の命令を無視したとして、翌年、樋の存続と引き換えに家族ともども処刑され、家財・田畑は没収されました。
村民は、村のために犠牲になった弥治右衛門の名を後世に伝えるため、道標に名前を刻んで墓碑の代わりとしたということです。
2018/01/21 10:37:15
稗島あたりは街道風情が色濃く残る。
2018/01/21 10:38:18
古川沿いの長谷川氏邸内にあるこの大樟は、約高さ10m、目通(目の高さ)にて幹が三つに分かれ、幹周り7mあり、「三島神社みつしまじんじゃ」の大樟に次ぐもので、民家の内にある巨樹としては珍しく、昭和四十年一月二十五日府古文化記念物保存顕彰規定により、天然記念物に指定を受けた。
2018/01/21 10:43:06
浄教寺前に建立されている。施主は焼野村若中で元治元年(1864)謹製。
正(南)面「右 京 守口八は田、左 のミち」
右(東)面「左 大坂 従・・・」
左(西)面「元治元甲子年 ・・・」
2018/01/21 11:30:29
俊徳道沿にある地蔵尊。
「此の地蔵尊は宝暦時代(1750年頃)、約230年前より祀られていたと思われます。石仏で等身大で蓮華上の座像でございます。御堂の前の道は俊徳街道で、平野川に架けられた石橋の傍らにありましたので、清い流れと共に景色も良かったので、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺へお参りの際には休憩されたものと、古老より言い伝へられております。東地蔵尊と共に当地の西の守り仏として、昔より住民の皆様より大変親しまれて、朝夕はお線香の断へたことがない有難いお地蔵尊でご座います。
2018/01/21 11:43:05
日本最古の官寺で、南大門の前には「日本佛法最初四天王寺」と彫り込んだ石柱が立っています。
俊徳街道の基点はここ
2018/01/21 12:04:46
最後は紀州街道を南下して住吉大社西門で終了。