摂津・河内、国分寺をポタって見る。(大阪南郊60Kmコース)

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2018-02-11 07-36

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/02/11 07:43:56終了日時2018/02/11 12:22:01
水平距離61.77km沿面距離61.95km
経過時間4時間38分05秒移動時間4時間07分00秒
全体平均速度13.37km/h移動平均速度14.93km/h
最高速度33.19km/h昇降量合計961m
総上昇量477m総下降量484m
最高高度101m最低高度-3m

写真レポート

津守寺跡

2018/02/11 07:53:07

津守寺跡

関連リンク

住吉大社歴代の宮司であった津守氏の氏寺で、延喜元年(901)に創建されて、瑠璃寺とも称しました。神宮寺・荘厳浄土寺とともに住吉三大寺の一つに数えられていましたが、明治初年廃寺とな
り、今は墨江小学校に碑が残るのみです。熊野街道の津守王子が祀られていたのもこの付近と伝えられています。また、発掘調査の結果では、白鳳時代(7世紀後半)の瓦や土器が発見され、津守寺以前にも古代の寺の存在があったと推定されています。



経塚

2018/02/11 08:03:20

経塚

晴明丘公園にある経塚。この石碑は元は、現在北畠顕家の墓となっている「将軍塚」の近くの塚に建てられていたが、道路工事などで転々とし、昭和の初期ごろから北畠公園の北の民家の前庭に移されていた。1995年(平成7年)に、現在地に移転した。

上の町台地にはかつて多くの古墳が存在したようで、その跡ではないかとの説が有力。



阿倍野王子神社

2018/02/11 08:06:33

阿倍野王子神社

「阿倍権現縁記(あべごんげんえんぎ)」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には、古代この地を本拠とした阿倍氏の創建ともいわれています。平安朝の時代に熊野詣が盛んになると、熊野九十九王子第二王子社として、にぎわっていました。

現在唯一残る熊野九十九王子。



あべのハルカス

2018/02/11 08:12:00

あべのハルカス



四天王寺南門

2018/02/11 08:19:14

四天王寺南門



難波京南十二条朱雀大路跡

2018/02/11 08:27:39

難波京南十二条朱雀大路跡

関連リンク



摂津国分寺跡

2018/02/11 08:29:32

摂津国分寺跡

奈良時代の国家は、災害や外敵からの保護をはじめ五穀豊穣などの利益を仏教によって祈るため、各国ごとに官営の寺院である国分寺(国分僧寺)と国分尼寺を建立した。
地名などによる研究のほか、近年の発掘調査により国分寺と国分尼寺の所在地や伽藍配置がはっきりと確認されていいるところもある。
しかし、摂津国については国分寺と国分尼寺の所在地や建立後の変遷について具体的にはわからない。
国分寺については天王寺区国分町のほかに、北区長柄と中央区森ノ宮中央に「国分」もしくは、「国分寺」の名が残り、そのいずれを奈良時代の国分寺所在地に当てるかについて諸説がある。
この天王寺区国分町の国分町公園とその周辺からは奈良時代の古瓦が出土しており、この地を奈良時代の国分寺と考える説が有力である。   掲示板 平成七年三月 大阪市教育委員会



奈良街道龍田越 杭全神社前道標

2018/02/11 08:50:30

奈良街道龍田越 杭全神社前道標

平野の杭全神社前の旧道(奈良街道龍田越)に道標があります。この道標は、寛政十二年(1800)三月建立されたもので、かつてはここからが参道入口でした。

当社 熊野権現 祇園宮   右 ふちゐ寺(藤井寺) 大峯山上 かうや山(高野山)

右 大坂(大阪)     すぐ 天王寺 大さか(大阪)

と刻まれる。



大勝軍寺

2018/02/11 09:02:20

大勝軍寺

聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさに勝つたので、この寺を建てたという。  明治二十一年(一八八八)の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和四十六年復興が計画、旧太子殿の背後に新太子殿が建った。  本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い。門前に守屋池、付近には鎬矢塚、弓代塚、龍華出張所前には物部守屋大連墳がある。

【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】



八尾の古い家並

2018/02/11 09:05:58

八尾の古い家並

奈良街道龍田越 は八尾の植松町辺りの古い家並を縫うように通る。
古い家並が続くまち。



柏原三田家住宅

2018/02/11 09:18:10

柏原三田家住宅

関連リンク

三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。



奈良街道(龍田越)と長尾街道の分枝点道標

2018/02/11 09:29:25

奈良街道(龍田越)と長尾街道の分枝点道標

かつて此処には、奈良街道(龍田越)と長尾街道の分枝点があった。
現在では生活道路(軽自動車しか通れないけど)になっている、路は高い場所を選んで通してあって
かつて付け替え前の大和川が暴れ川であったことが伺える。



国分神社

2018/02/11 09:32:10

国分神社

当社は字美山にあり、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼すなわち有職、接待、技術等かつて見たこともないものを伝え、その才の勲功があったと大仁後の正二位の官位を賜ったが舒明天皇の十三年(六四一年)に没した。二十七年後の天智天皇の七年(六六八年)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳山の上に葬った。その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有している。  



青谷つり橋 川端橋

2018/02/11 09:37:20

青谷つり橋 川端橋

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かつては此処に夏目茶屋の渡しと呼ばれた舟運があったそうです。

大阪府下で旧街道に架かるつり橋では唯一言っていい、「人員厳守15人まで」と書かれています。

現在2018/2/11台風21号の影響で通行止めになっている。



河内国分寺跡

2018/02/11 09:40:54

河内国分寺跡

柏原市東条には、古代のお寺跡があって、東条廃寺とか、塔本廃寺と呼ばれていました。
この寺跡が、聖武天皇が全国に命じてつくられた国分寺の一つ、河内国の国分寺の跡と考えられています。
この周辺は、山が大和川に迫っていて、とてもお寺を建てるような場所とは思えません。
それでも、このような土地に建てられたのは、大和(奈良)から難波(大阪)への交通の要所であったことや、目の前に大和川を望むすばらしい景観であったことなどの理由によるものと考えられます。
(柏原市文化財ガイドシリーズ「河内国分寺」より)



河内国分寺跡

2018/02/11 09:40:54

河内国分寺跡

国分寺跡では、昭和45年(1970)に塔跡の調査が実施されており、一辺約19mの基壇が良好に残っていました。凝灰岩切石による基壇や階段、礎石が残り、基壇上面には凝灰岩の切石が敷き詰められていました。塔一辺の長さは10.36mあり、七重塔でまちがいないでしょう。現在は基壇が復元され、いつでも見学できます。



叡福寺

2018/02/11 10:30:58

叡福寺

叡福寺は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られる。山号は磯長山、本尊は如意輪観音である。開基は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。



磯長墓

2018/02/11 10:34:19

磯長墓

推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られました。太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室です。太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれています。



和泉街道 平尾あたりの道標

2018/02/11 11:10:59

和泉街道 平尾あたりの道標

富田林街道と和泉街道との辻に立つ道標。

「右さかい 左ふく町?」
「南 金剛山 東いせ 道」

と刻む。



堺北之橋

2018/02/11 12:11:09

堺北之橋

中世・堺は環濠自治都市でした。環濠は秀吉によって埋められましたが江戸初期に復活。その環濠の紀州街道出入口に架けられたのが北之橋です。長さ7間(約12.7メートル)、幅2間半(約4.5メートル)の幕府管理の公儀橋で、大門と高札場がありました。堺市史によれば北之橋から南之橋(現在の少林寺橋)まで長さ24町37間(約2.7キロメートル)と記されています。  掲示板