葛城古道を往く。 (葛城王朝の謎をポタる)

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2018-02-17 07-15

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/02/17 07:15:49終了日時2018/02/17 12:18:18
水平距離48.22km沿面距離48.64km
経過時間5時間02分29秒移動時間4時間00分53秒
全体平均速度9.65km/h移動平均速度11.88km/h
最高速度57.71km/h昇降量合計1221m
総上昇量614m総下降量607m
最高高度447m最低高度65m

レポート概要

ハイキングコースとして人気のある 葛城古道 をポタリングしてみた。

路の駅 ふたかみ に自動車でデポして 長尾街道 竹之内街道 横大路 で大和高田まで東進して下街道で風の森まで南下した。
風の森からは 近鉄が発行している てくてくマップ に沿って葛城古道を走る。
葛城から當麻へ抜けて当麻寺周辺を走り、路の駅 ふかかみ へと帰る、50kmのコース。
風の森までの分水嶺越えと高天彦神社(標高450m程度)までがややヒルクライム的でバクバクするが、全体的な距離も短く見所が多い楽しいコース。
ただし近鉄 てくてくマップはウオーキングが対象なので自転車では難しい場所もある

(高天彦神社から橋本院経由 極楽寺への下り道)※この間のルートは杣道でシクロクロスかアドベンチャーレースクラス。
(葛城一言主神社から九品寺への道)※平坦なハイキング道イノシシよけの柵を自分で開け閉めする。

走行距離は短かいが見所満載・・歴史の重層する古の古代王国跡をめぐる。

写真レポート

腰折田伝承地 香芝市磯壁・良福寺付近

2018/02/17 07:26:03

腰折田伝承地 香芝市磯壁・良福寺付近

『日本書記』垂仁天皇七年七月七日の条に、「當麻郷には當麻蹶速という勇敢剛力がいて、天下に敵なしと豪語していた。天皇が郡臣に力くらべ(角力)をするものを求められた。そこで、出雲の野見宿禰が召され、両人に力くらべをおさせになった。たちどころに蹶速は腰の骨を折られて死んだ。これにより、蹶速の領地が没収され野見宿禰に賜った。」とあります。江戸時代に編纂された地誌『大和誌』には、「腰折田は良福寺にあり」とみえ、両人の決闘の地として今に伝えられています。この伝承は、奈良時代に宮中で始まる相撲節会(七月七日)の起源とされています。なお葛城市當麻には、伝當麻蹶速塚とされる五輪塔が祀られています。
また野見宿禰については、同三十二年七月条に、殉死の悪習にかえ陵墓に埴輪を立てることを進言し、日葉酢媛命墓に埴輪を立てたことから土師職に任じられ、天皇の喪葬を司ったとする伝承があります。
なお、

奈良側から眺める ふたかみやま 

2018/02/17 07:28:11

奈良側から眺める ふたかみやま 

ふたつの美しい山容へ日が沈んでいく様子から神聖な山として崇められてきた二上山。
悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。

万葉人は多くの歌を詠んだ。

當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)

2018/02/17 07:34:34

當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)

相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔です。垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)とが力比べをし、これが日本で最初の天覧相撲と伝えられています。葛城市HP転記

いい形の五輪塔です。

竹ノ内街道

2018/02/17 07:39:31

竹ノ内街道

竹ノ内街道を長尾神社へすすむ。

孝女伊麻旧跡(こうじょいまきゅうせき)

2018/02/17 07:43:56

孝女伊麻旧跡(こうじょいまきゅうせき)

旧下市街道(きゅうしもいちかいどう)より、伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)に向かう道を少し入ったところにある石碑です。その昔病弱な父親への孝行に生涯を尽くした孝女伊麻をたたえたものです。
伊麻は父が病に伏せた時、鰻を食べさせればよいと人に教えられましたが、山里ではどうしようもありませんでした。しかし、あきらめることができず、何とかして鰻を食べさせてやりたい―そんな伊麻の願いが天に通じたのでしょう。夜がふけて大分遅くなったころ水がめの中で音がしました。何だろうと思ってのぞいてみると、何とそこには鰻がいたのでした。喜んだ伊麻はさっそく料理をして父に食べさせると、病いはたちまちのうちに治り、もとの元気な体になりました。
 この話にちなみ、磐城小学校の校章は水がめの形をかたどって作られて います。伊麻の命日である2月27日には、毎年追善法要が営まれ、小学生たちもお参りします。 

大磯虎女旧跡地

2018/02/17 07:47:28

大磯虎女旧跡地

昔、曽我十郎祐也<すけなり>と同五郎時致<ときむね>の兄弟が、苦節十八年、父のかたきを討ったが、その妻の大磯の虎女と化合坂<けわいざか>の少将は、共に夫の霊をなぐさめるために、この地蔵堂にわび住いをしていたと伝える。堂前に、「虎石」というのがある。

長尾神社

2018/02/17 07:50:43

長尾神社

葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。

 当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜式(えんぎしき)」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神社です。

 また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に天武天皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定められたと記されています。

 古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所であり、重要な場所に社地を構えていました。

 そして現代に至っても、この長尾の地は竹内街道や長尾街道な

大和高田城址

2018/02/17 08:05:27

大和高田城址

永享4年、足利義教の命により、有井城主當麻為貞によって築かれた。 當麻氏は、大和西部に大きな勢力を持ち、越智氏と勢力を競ったが、戦国時代になると織田信長に従った筒井順慶によって所領没収となり、城も廃城となった。

現地の掲示板には織田信長の検地に逆らい滅亡させられた旨説明があった。

横大路 大神宮の高灯篭

2018/02/17 08:07:40

横大路 大神宮の高灯篭

横大路は伊勢街道として通行人も多かった事から伊勢詣りの灯篭がたくさんある。

下街道 御所の路傍地蔵

2018/02/17 08:29:33

下街道 御所の路傍地蔵

下街道を南下して御所に入る。
御所の街中には路傍には古い地蔵が祭られていた。

下街道(しもかいどう)は、大和国(奈良県)の郡山(大和郡山市)から高田(大和高田市)を経て五條(五條市)に至る街道。

野口神社

2018/02/17 08:38:28

野口神社

蛇穴(さらぎ)集落にある古社

彦八井命の後胤・茨田の長者が河内の国よりこの地に住んでいた。そこに一人の娘がいた。その頃茅原郷から葛城山に修行に日参する役の行者小角という人が居たが修行の往復に村の筋街道を通るのが常であった。いつしかその娘の恋の的になったが、行者は、修行一途で応じることが無く娘は、女の一念から悪息をはきながら行者を呑み込もうと村の森の中にある「穴」にかくれた。五月五日の田植え時で村人が野良へ弁当をもって通りかかると、大蛇が火を吹いていた。驚いて持っていた味噌汁を大蛇にぶっかけて逃げ帰った。村人がきて見ると、大蛇が井戸の中に入ったので巨石で口をふさいだ。その後娘の供養にと汁掛祭と蛇綱ひきが行われている。~蛇穴区野口神社祭典委員会~

風の森からの眺め 金剛山方面 

2018/02/17 09:17:39

風の森からの眺め 金剛山方面 

大和と紀州の分水嶺となる 風の森峠へ向けて下街道を下る(南下する)御所から標高差160Mほどを上り詰めた峠が風の森峠になる。

ここより南に流れる川は紀ノ川へぞぞぎ、此処より北へ流れる川は大和川へとそそぐ。

風が吹き抜け・雄大な金剛山/葛城山の眺めがただならぬ雰囲気を醸しだしている。

高鴨神社

2018/02/17 09:24:12

高鴨神社

本社は大和の名門豪族である鴨族の守護神を祀った社です。
弥生中期、この地から鴨の一族はひろく全国に分布してゆき、各地で鴨族の神を祀りました。中でも京都の賀茂神社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。建国の歴史にも本社御祭神は大きく物語られ、高天原の天孫降臨の説話の中でも、国造りの大業をなされたとあります。葛城市HP

ここはただならない空気感が漂う 謂いる 精霊地 であろう。

高鴨神社 謎の灯篭 

2018/02/17 09:26:35

高鴨神社 謎の灯篭 

高鴨神社の本殿東側の石垣には灯篭が組み込まれている。

遊び心なのか?他に深い意味があるのかは?謎

高天彦神社

2018/02/17 09:53:18

高天彦神社

古代豪族、葛城氏の最高神で、記・紀神話の中で、出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊神を祀っています。
ほかに市杵島姫命(福岡県宗像郡宗像神社三宮に祀られています女神の一人)・菅原道真を祀っています。神社の形体は古く、桜井市の大三輪神社と同様にご神体は山(神社背後の白雲峰)であるので、本殿はありません。高天の広大な大地は、記紀に登場する天孫降臨神話の舞台となったところではないかと言い伝えられています。葛城市HP転記

ただならない空気感が漂う空間・精霊地である。

高天彦神社参道

2018/02/17 09:53:18

高天彦神社参道

樹齢数百年の杉の大木に挟まれ、葛城族の神々が 棲まう場所にふさわしい雰囲気が漂います。

天孫降臨の地とされるのも頷ける。

史跡 高天原碑

2018/02/17 10:01:11

史跡 高天原碑

このあたりが高天原であることを示す石碑が 建っています。

古来より神話の世界である高天原の伝承地として伝えられる 場所のひとつでこの場所は金剛山の中腹にぽっかりと広がる高原台地で ここからは大和盆地を一望できる眺めの良い場所である。

橋本院から極楽寺への杣道

2018/02/17 10:15:12

橋本院から極楽寺への杣道

近鉄が発行している テクテクマップ の地図をトレースすると橋本院から極楽寺こんな道になる。
距離は1k程度だが、登山道路といえるので、シクロクロスかアドベンチャーバイクに近い覚悟が必要となる。

無難に高天彦神社から自動車道路を下った方が楽だが、高天彦神社から橋本院経由極楽寺のルートは趣があり捨てがたいルートとなる。

極楽寺

2018/02/17 10:20:27

極楽寺

関連リンク

集落の名前にもなっている浄土宗知恩院派の極楽寺は、天暦5年(951)に興福寺で名僧の誉れ高かった一和僧都(いちわそうず)が開いた寺と伝えられています。

この寺を国道を挟んだ場所に極楽寺ヒビキ遺跡があり、今は埋めもどされていますが、古代葛城氏があって雄略天皇に滅亡させられた痕が発掘された。

住吉神社

2018/02/17 10:24:49

住吉神社

極楽寺ヒビキ遺跡のちょうど横辺りに南郷住吉神社がある。
大阪住吉大社の分霊を勧請して白鳳年間に齋き奉った由緒ある古社である。

紀記に雄略天皇が、葛城山で天皇一行とそっくりな一言主神一行と出会った・という話がある一行とは軍列であったであろう。
これについて様々な解釈がなされているが、天皇族の現人神と葛城氏の神との対峙であり、時の葛城氏の威勢を物語るものだったのだろう、葛城氏はその力故、雄略天皇に屠られた。

葛城氏を屠ったあと大和朝廷が自らが奉祀する住吉三神を勧進したと想像するのは穿った見かたか?

葛城から三輪方面を眺める。

2018/02/17 10:26:20

葛城から三輪方面を眺める。

此処からは三輪山方面がよく見える。

6世紀ころは此葛城氏と三輪山周辺に広がる王族との緊張が高まっていたのでしょう。

名柄 中村家

2018/02/17 10:32:35

名柄 中村家

中村家は、慶長年間に造られ代官を務めた方の豪邸で,切妻造段違、本瓦葺、古風な開口装置や納戸構えのある「なんど」など御所市では現存するなかで最も古い重要な建築物で重要文化財に指定されています。

名柄は町家の眺めが良い。

名柄 郵便局

2018/02/17 10:33:48

名柄 郵便局

関連リンク

今から100年あまり前に登場した旧名柄郵便局は、疑洋風の外観と赤いポストや公衆電話など当時としてはモダンなものに囲まれた大正ロマン漂うおしゃれな空間でした。
 新局舎への移転(昭和50年)に伴い、役目を終えた局舎は2015年春、当時の郵便局がもっていた人と人との繋がりや出会いを大切に「郵便名柄館-郵便資料館&Tegami cafe-」として生まれ変わりました。

長柄神社

2018/02/17 10:35:50

長柄神社

『延喜式』神名帳に記載され、別名姫の宮とも呼ばれ、記・紀神話に登場する「下照姫命」が祀られています。この神は天孫降臨神話の国譲りの中で、天雅彦命が高天原から出雲国へ国譲りの使者として遣わされています。天雅彦命は高天原へ復命に帰らず、出雲国で妻にしたのが大国主命の娘の下照姫です。

葛城一言主神社

2018/02/17 10:47:05

葛城一言主神社

本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びと

葛城高丘宮址

2018/02/17 10:57:06

葛城高丘宮址

綏靖天皇は神武に次ぐ第二代の天皇で、その存在については疑問視されています。
しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。

 「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり」

 いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。御所市HP転記





当地には伝承だけがあって遺物も、遺跡も、発見されてい

九品寺

2018/02/17 11:03:07

九品寺

九品寺は奈良時代の僧、行基の開基と伝えられるお寺です。この寺は境内や本堂の裏山に数多くの石仏があることで有名です。千体石仏と呼ばれる石仏郡は南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したもので、そのことから、身代わり石仏とも呼ばれています。

番水の時計

2018/02/17 11:05:25

番水の時計

九品寺の手前あたりに田んぼの間を流れる用水路のそばに、小さな円筒状の塔が建てられています。これが、番水の時計といい、中には時計が置かれていてます。番水の時計により、当番の方が、一定の時刻になると、用水路の水門が開けられる方向を調整し、水の流れを変え、それぞれの田んぼに万遍なく、水が行き渡るように配水を調整をするための慣行を守っているものです。

駒形大重神社

2018/02/17 11:07:14

駒形大重神社

10世紀初頭に醍醐天皇の勅命により、藤原時平が編纂した『延喜式』神名帳に記載された神社です。
かつて駒形神社と大重神社は、別々に祀られていましたが、明治40年に合祀されて現在に至っています。
祭神は「葛城稚犬養連網田」で、645年6月12日に飛鳥板葺宮の大極殿で蘇我入鹿が暗殺されたとき、中大兄皇子から入鹿を暗殺せよと命じられた刺客です。また『延喜式』を編纂の時、犬養を大重と書き間違えたのではないかとも言われています。また他の説では楢原氏の祖先の滋野貞主がまつられているのではいかとも言われ、定かではありません。楢原氏は中世の豪族で、春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納するほどの南都の盟主でした。

六地蔵

2018/02/17 11:12:44

六地蔵

この地域は古代から中世にかけて、兄川の出水等により、度々災害が発生し、伝承によれば、六地蔵が彫られた大きな石も、室町時代に土石流が発生し、現在の場所に流れ着いたと言われ、その大災害に対し、村人は仏教の六道をもって衆生を救うという、仏法の精神に照らし極楽浄土を願い、その頃に彫ったと思われます。

葛木坐火雷神社

2018/02/17 11:18:29

葛木坐火雷神社

旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社。音楽の神様(天香具山彦尊)としても知られ、正月にはフルートや尺八など奉納演奏が行われます。周りは県天然記念物に指定されているイチイガシが群生し、奈良県指定史跡の笛吹神社古墳もあります。

 また拝殿下の境内には、日露戦争の記念のロシア製「加農攻守城砲」が置かれています。

路傍の地蔵

2018/02/17 11:23:07

路傍の地蔵

笛吹から當麻へ向かう古街道沿いの路傍に古い地蔵が祀られていた。

當麻寺東門前の旅籠址

2018/02/17 11:45:42

當麻寺東門前の旅籠址

関連リンク

當麻寺門前の角地に建つ嘉永6年に建てられた旧旅籠。

現在は釜飯屋として営業されています、かつての(江戸期)の旅籠を見れる貴重な建物。
二回の手摺からちょんまげを結った人が出てきそうな雰囲気がある。

国宝 当麻寺 本堂

2018/02/17 11:49:19

国宝 当麻寺 本堂

お堂の内陣(ないじん)は天平時代の様式をそのまま残し、そのお堂を取り込む形で永暦年間(平安の末)に外陣(げじん)等が拡張されました。
ご本尊として當麻曼荼羅が巨大な厨子(国宝・天平時代)の中に収められ、源頼朝寄進の須弥壇(国宝・鎌倉時代)上に安置されています。その他、十一面観音立像(弘仁時代)、来迎阿弥陀如来立像(県文)、弘法大師三尊張壁、役行者三尊坐像、中将姫坐像などが拝観できます。

中将姫の墓塔

2018/02/17 11:52:33

中将姫の墓塔

當麻寺の北側共同墓地内にあり、石造十三重塔花崗岩製、高さは285cmもある。
初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、鎌倉時代末期の様式である。
横に建つ石造三重塔は、平安時代後期の作と伝わる。

當麻北墓五輪塔 (重要文化財)

2018/02/17 11:53:20

當麻北墓五輪塔 (重要文化財)

奈良県最古と言われる五輪塔がある、
平安時代後期の石造五輪塔です。
当麻北墓の総供養塔として建てられたと云われ、非常に重厚な姿で、ダントツでの存在感があります。

石光寺

2018/02/17 12:00:29

石光寺

天智天皇の勅願によって創建された。この寺には信仰心の篤い中将姫の伝説が残っており、姫が蓮糸を五色に染めたとされる染の井と、染めた糸を枝にかけて乾かしたとされる糸かけ桜がある。このことにちなんで、別名染寺とも呼ばれる。日本最古の弥勒石仏が残る。春には400種余りのボタンが咲き、また寒ボタンもその見事な美しさで有名。

傘堂

2018/02/17 12:09:20

傘堂

一辺が約40cmの四角い真柱の上に、正方形の本瓦葺屋根が乗った唐傘のような高さ約5mの小さな建物です。その珍しい形から傘堂(唐傘堂)と呼ばれています。
江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、亡くなった郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、この地域の農民たちとともに、延宝2年(1674)に建立したものだそうです。

古道沿いのつくり酒屋

2018/02/17 12:14:12

古道沿いのつくり酒屋

傘堂から古道を下っていくと赴きのあるつくり酒屋があった。
秀泉と云う酒を造る中川酒造と事であった。

辻の地蔵堂

2018/02/17 12:15:58

辻の地蔵堂

新在家の字の辻には立派なお堂を持つ地蔵さんが祀られていた。