江戸時代の航海者達を訪ねて。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の幅: px      地図の高さ: px

タグ:

2018-04-21 07-18

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/04/21 07:18:47終了日時2018/04/21 15:27:21
水平距離112.99km沿面距離113.23km
経過時間8時間08分34秒移動時間6時間22分51秒
全体平均速度13.91km/h移動平均速度17.51km/h
最高速度41.53km/h昇降量合計1428m
総上昇量700m総下降量728m
最高高度44m最低高度-13m

レポート概要

江戸時代の航海者達を訪ねて。(山片蟠桃・工楽松右衛門・高田屋嘉兵衛)

江戸時代はご存知のように徳川家康か開幕しましたが、3代目の家光あたりから米本位制が崩れ初めてきて、政治は武士階級が握ってはいましたが商人が台頭する所謂ゼニの社会に移行して行った様子です。

江戸の後期にもなると、今日の信用取引に近い取引も機能していましたし日本全国で物量が活発になって北は蝦夷地のニシンや昆布・南は阿波徳島の藍球が全国を駆け巡っていました。

当時の全国の人工は3000万人程度で京阪神(奈良含む)の人工が大雑把に100万人くらい、江戸の人工は約100万人以上が居住していたと想定され戸は当時の地球規模でも最大の都市であったと言えるでしょうし、その都市(江戸)は政治的理由で形成され生産者が居住しない不思議な都市で有りました。
このために江戸に向けて大変な量の物資が必要でありましたし、それらが常に移動しないと都市は呼吸すら出来なかったことでしょう。


大変な量の物資が滞りなく移動して行くには、今の資本主義と遜色のない経済社会が形成されていた様子で、約束を守る・嘘をつかない・勤勉である・
と言ったモラルが高い水準で守られていました。

またこの資本主義にも近い(と言うか資本主義そのもの)システムの発展の背景には人々が 合理的に現実的に実証主義的に行動していた事が伺えます。

当時の代表的人物として山片蟠桃・工楽松右衛門・高田屋嘉兵衛の三名を挙げることが妥当では無いかと私は思っています。

山片蟠桃 は辞世の句を 

神 仏 化物もなし、世の中に奇妙ふしぎのことは猶なし

と詠みましたし。

工楽松右衛門は

人として天下に益することを考えずに、為すことなしに一生をすごすのは禽獣よりも劣る

と語っている。

高田屋嘉兵衛は

高田屋が扱う商品は量が正確で品質も確かであったので、高田屋の屋号の入った品は買う人が中身を確認することが
無かった程信用されていました。

この人達はほぼ同時代生きた人々で奇しくも兵庫県人して生を受けた人々であり、また超がつく程のリアリストでも有るのですが、人に対する(人類と言っても良いか)深い愛がある人々です。

高田屋嘉兵衛と工楽松右衛門はがちの航海者でエトロフ等まで航海をしていました、山片蟠桃は枡屋の番頭でまあ銭の海の航海者で在った言えるでしょう。
そんな江戸期の偉人たちの遺跡を訪ねた。

写真レポート

山片蟠桃 

2018/04/21 07:51:59

山片蟠桃 

関連リンク

優れた経済人にして独創的な思想家、山片蟠桃は、大坂の蔵元として仙台藩の財政を支える一方、懐徳堂に学び、百科全書ともいうべき大著『夢の代』を著しました。
蟠桃は生涯一商人として生き、独自の財政観で傾いた主家を立て直し、大名だけでなく幕府の重臣からも一目置かれました。(侍が蟠桃を上座にすえて話を聞いた)
後述する工楽松右衛門・高田屋嘉兵衛は船乗りで田畑を持つ農民にありがちなせせこましい感覚が無くて山片蟠桃にも同じような縛られた感が在りません。

船乗りは己の才覚一つで船板一枚下は地獄の世界に生き・商人は算盤一つ下は破産の世界に生きていた事でしょう、したがって非常に合理的な考え方を実践する人達で競争原理に打ち勝った人々であったようです。



山片蟠桃 生石神社一の鳥居

2018/04/21 07:53:52

山片蟠桃 生石神社一の鳥居

高砂市神爪に参道のない鳥居があります。これは生石神社の「一の鳥居」と呼ばれています。この一の鳥居は延宝8年(1680)に庄屋神吉久太夫が奉納したものです。鳥居を奉納した由来は、ある時、久太夫が城崎温泉で姫路藩主に会ったとき、酒に酔って無礼な口をきいたことから殿様の怒りをかい、一家断絶の危機に陥りました。酔いのさめた久太夫はすぐに村へ帰り、氏神の生石神社に参詣してこの難を免れたそうです。そこで感謝の意を表すため、神爪の地に鳥居を建てたといわれています。
 また、この鳥居の隣には、山片蟠桃が結婚を記念して贈ったものといわれている燈篭があります。高砂市HP転記
左側の灯篭が山片蟠桃が奉納した灯篭 なkなか、かみさん思いだったんですね。



生石神社

2018/04/21 08:08:16

生石神社

生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。 ウィキペディアより

岩山をくりぬいて約500トンの石を加工して鎮座してある、1500年以上前から存在しているようで、ここで(竜山)で切り出された石は遠く大和の大王たちの古墳の石棺として使用されている。
鉄器の無い時代に石を切り出してそれを奈良まで運搬するのは大変な技術集団が住んでいた事の証左であり技術集団は合理的な考えが無ければ成立しないので、合理性と技術的工夫が培われて行ったのだろう。



石の宝殿

2018/04/21 08:08:16

石の宝殿

中に入ると6M四方の巨大な石の宝殿が現れる。
24mmの広角レンズ付のカメラに入らない。

此の宝殿がある地方(播州)は和算が盛んな土地柄であることと此の構造物には関連があるだろう。



石の宝殿

2018/04/21 08:11:57

石の宝殿

上からの画像・岩山をくりぬいて宝殿を削り出した事がわかる。1500年前に作られたとされているが大変な集団が此のあたりに居住して石の加工をしていたわけだ、
生石神社周辺の竜山地区は今も現役の採石場だ。ここで産する竜山石は古来、石棺以外に礎石や石垣、石仏や石塔など建築や造園に幅広く使われてきた。

此の遺跡と近年でも石材の産出が続けられていることは、意味があって1500年前にはここに最先端技術集団がいて日々その技術を磨き切磋琢磨してきたと云う事実がある、技術で飯を食う人々は政治や権力や土地への執着など考えている暇は無くて現実のみを観察してその結果からしか物事の判断をしないと生きては行けなかったはずなので、そういう人々が多く住んでいたはずである。
そういう(理系)の人々の末裔として山片蟠桃や工楽松右衛門が在ったのではなかろうか?



工楽松右衛門旧宅

2018/04/21 08:35:38

工楽松右衛門旧宅

関連リンク

わが国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門は、寛保3年(1743年)高砂町東宮町に生まれました。従来の帆布に改良を加え、厚地大幅物の帆布の織り上げに成功、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになりました。また、幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築くなど優れた築港技術者として活躍しました。彼の功績を称え、高砂神社の境内には銅像が建てられています。高砂市HP転記

後述する高田屋嘉兵衛の先輩格にあたる人ですが、嘉兵衛にはかなり手を貸した感じがする。嘉兵衛の親父くらいの年なので息子に伝授するようにすべての知識を惜しみなく伝えたのでではないかと思う。



工楽松右衛門旧宅前の雁木

2018/04/21 08:35:38

工楽松右衛門旧宅前の雁木

松右衛門は高砂湊の改修に私財を投じて尽力する、彼の家のすぐ前に雁木があり小船がつけられる用になってたようだ。

工楽松右衛門は偉い人で
人として天下の益ならん事を計らず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にも劣るべし。
人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る)
と言っていたしそれを実践した生涯だったようですが、この時代に日本人の美質である公共心への傾倒がすでにあった事に驚く。



高砂の町並

2018/04/21 08:39:57

高砂の町並

高砂は古くから内海の寄港地として交通・軍事上の要地であり、加古川上流の城下町にとっても重要な外港でした。戦国時代には三木城の外港の守りとして高砂城が築かれました。

加古川流域の諸藩・幕府天領の年貢米収納蔵が設置され、商品流通の統制の為に藩の役所や町方の会所が置かれます。高砂川、南堀川に沿う東浜・南浜・材木・今津の各町には船着場や荷揚場があり、問屋の蔵が建ち並び、高砂港は加古川舟運と瀬戸内海航路の港町として急速に発展しました。

富の集積があり戦災も受けていないのでいい感じの家並が残る。



高砂の湊

2018/04/21 08:43:01

高砂の湊

工楽松右衛門は高砂港の改修工事を自費で行った。
箱館港づくりでも使った彼自身の開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などを使い港全域の土砂をさらい、風や波よけの堤を造ったのである。

松右衛門の死後、二代目・三代目松右衛門が引きつがれた。文久三年(1863)に高砂港の改修を藩に願い出て湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設を築いたのは、三代目の時である。



高砂神社

2018/04/21 08:44:42

高砂神社



工楽松右衛門像

2018/04/21 08:46:44

工楽松右衛門像

播州高砂(兵庫県高砂市東宮町)の漁師の長男として生れ、幼少から創意工夫が得意であった。
1758年(宝暦8年)、この頃、兵庫に出て佐比絵町にある御影屋という船主のもと船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に智恵を得て、帆布(松右衛門帆)などの多くの発明した。松右衛門帆の利益により船持ち船頭になる。その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持船頭として独立。

相撲取りのような大きな体をした人であったようです。度量の大きな私心のない人でもあったようで中年期に出会った高田屋嘉兵衛には息子に伝承するように自分の持っている経験と思考法と手柄(松右衛門は手柄と思ってはいないだろう)を伝えたように思う。



申義堂(高砂市指定文化財)

2018/04/21 08:50:26

申義堂(高砂市指定文化財)

江戸時代の文化年間(1804-1818)に、高砂町北本町に創立された学問所です。姫路藩家老河合寸翁(1767-1841)の命により、当時、高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供した、町民による町民のための教育機関でした。 高砂市HP転記



十輪寺

2018/04/21 08:51:56

十輪寺

十輪寺は寺伝によれば弘仁6年(815)に弘法大師が勅命により創建。後に讃岐へ流される途中、立ち寄った法然上人が寺を復興、浄土宗に転宗したと伝えられ、絹本着色五仏尊像(国重文)など貴重な仏画が残る名刹です。

境内には高麗仏と呼ばれる宝篋印塔があり、これは文禄元年(1592)に豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際、徴発された高砂の水主100人のうち96人が死亡し、その供養のために建てられたものです。
高砂市HP転記



工楽松右衛門墓所

2018/04/21 08:52:43

工楽松右衛門墓所

工楽松右衛門の事績は、松右衛門帆の開発だけにとどまらない。現在の北方領土、択捉島中央部に有萌(ありもい)湾がある。ここに港を築いた功績を幕府から賞され、享和二年(1802)に名字帯刀が許された。「工楽(くらく)」という姓はこの時賜ったものである。

高砂市高砂町横町の十輪寺の墓地に「工楽松右衛門(くらくまつえもん)之墓」がある。珍しい形の墓碑には「工楽松翁塚」と刻まれている。

松右衛門帆は明石の二見あたりで大量生産された。



松右衛門帆の生産地

2018/04/21 09:29:10

松右衛門帆の生産地

もともと綿の栽培が盛んで在った二見あたりで松右衛門帆大量生産された。

松右衛門の偉さはこの製法を誰にでも教えたことであろう。
以後二見では帆布の製造から発展したタイヤコードや重布の生産が盛んになっていた。



明石の清酒業

2018/04/21 09:34:50

明石の清酒業

昔から良質の水が湧いたということから酒造業が発展し「灘の酒」に対して「西灘の酒」と呼ばれました。明治に入るとさらに造り酒屋が増えます。



乾杯は清酒で

2018/04/21 09:42:38

乾杯は清酒で

明石市の伝統産業である清酒による乾杯の普及の促進に関する条例」が平成25年11月1日より施行されました。



播磨灘を望んで。

2018/04/21 09:49:42

播磨灘を望んで。

日本最古の原人かという論争が行われた「明石原人」の腰骨発見地の近辺の公園から。



旧波門崎燈籠堂

2018/04/21 10:13:16

旧波門崎燈籠堂

1657年に当時の明石藩主 松平忠国によって作られたと伝えられている。 古代明石港は明石川河口にあったと推測されている[2]が、1621年 当時の明石藩主 小笠原忠真によって城造り、町造りの一環として砂浜に掘り込みを行い新たに明石港が作られた。ウィキペディア転記

江戸期の船乗りたちは基本的には夜間航行はやらないはずですけど、日の早い時期の夕暮れ時など此の灯台の火が頼りであったことでしょうし、松右衛門や高田屋嘉兵衛達はこの灯台を見ると兵庫の津が近いと安心していたでしよう。



明石砲台跡

2018/04/21 10:35:48

明石砲台跡

松右衛門や高田屋嘉兵衛達の時代から50年後日本はペリーにより開国させられる。
外国の艦隊の武力に驚いた幕府は各地に砲台を作った、幕末の1863年(文久3年)に将軍の徳川家茂が大阪湾の海防状況を視察し、砲台を拡充するように明石藩に命じ、築造されました。
明石藩へは一万両が貸与され、工事は勝海舟により指導されます。工事は2年かかったようです。



大和田の泊

2018/04/21 11:38:25

大和田の泊

関連リンク

兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。



古代大輪田泊の石椋

2018/04/21 11:46:58

古代大輪田泊の石椋

この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます、掲示板転記

太古から船乗りたちの寄港地であったのです。



北風正造顕彰碑

2018/04/21 11:42:05

北風正造顕彰碑

北前船交易により繁盛し、当時、日本の海運のうえに大きな地位を占めていたのが兵庫津の北風家である。北風家は代々、 荘右衛門を名乗った。特に荘右衛門貞幹(1736~1802)は蝦夷地交易の利に目をつけ、淡路出身の高田屋嘉兵衛を後援して、 鰊〆粕の大量移入をはかった。この肥料によって西日本の農業生産は急速に増大した。また、石川などの北前船主たちは、 上方の米相場表を北風家から送ってもらっていた。

北風家は工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛の後援者でもあった。



北風の湯跡地

2018/04/21 11:51:21

北風の湯跡地

北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものであった。
「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていた。
老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談は、後進にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報になった。
兵庫の湊では船乗りであればだれでもよかった。
湯殿は、蒸し風呂と湯槽(ゆぶね)の両方があった。
洗場では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流し会ったりしながら情報を交換していた。 司馬遼太郎菜の花の沖転記

湯あがりの後、時には酒もでた。

北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんであった。



高田屋嘉兵衛本店の地

2018/04/21 11:55:37

高田屋嘉兵衛本店の地

寛政二年(1790)、淡路島から来住した嘉兵衛は、 当地で船乗りとしての頭角をあらわし、嘉兵衛が引退する文政五年(1822)まで、高田屋の本店は西出町に置かれていました。



西出鎮守稲荷神社

2018/04/21 12:00:35

西出鎮守稲荷神社

高田屋嘉兵衛が海上交通安全を祈って奉納した、一対の石灯篭が境内にある。

この石灯篭は文政7年、海の豪商として活躍した高田屋嘉兵衛が、海上安全を願って鎮守稲荷神社に献上したものです。
文政7年というと、嘉兵衛はすでに淡路に引退しているのですが、育ててくれた兵庫を忘れることはなかったのでしょう。
嘉兵衛の西出町を思いやるこころが感じられます(西出町自治協議会)



佐比江の入り江

2018/04/21 12:05:05

佐比江の入り江

「佐比江の入り江」は船入り江(北舩入)として整備され、西出町は東出町とともに問屋・船大工などの町として活況を呈すようになりました。

松右衛門は40才の頃、主家を退いて兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門廻船商売を始めたという。



西宮蛭子

2018/04/21 12:51:23

西宮蛭子

西宮のえびす様は、古くは茅渟(ちぬの)海(うみ)と云われた大阪湾の、神戸・和田岬の沖より出現された御神像を、西宮・鳴尾の漁師がお祀りしていましたが、御神託によりそこから西の方、この西宮にお遷し、祭られたのが起源と伝えられております。

開門神事(かいもんしんじ)福男(ふくおとこ)選び 十日 午前六時
十日えびす大祭が終了すると、午前六時を期して表大門(おもてだいもん)が開かれ、外で待っていた参拝者は、一番福を目指して二百三十m離れた本殿へ「走り参り」をします。これを「開門神事」といい、西宮えびす独特の行事として、江戸時代頃から自然発生的に起こってきたといわれています。

これは江戸時代に江戸で関西の初酒(新酒で春一番に江戸入りした酒蔵の酒を高値で買い続けた)を配達した樽廻船の競争が起源で在ろう。



西宮宮水

2018/04/21 13:06:02

西宮宮水

宮水は、今の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出しており、江戸時代後期から日本酒造りに使用されていることで有名です。酒造会社が、西宮市南部の久保町、鞍掛町、石在町そして東町にわたる約500メートル四方の地域にある浅井戸から汲み上げて酒造用水に使用しており、生活用水としての一般利用はされていません。

宮水は、幕末以後、昭和時代初期まで「播州米に宮水、丹波杜氏に六甲颪(ろっこうおろし)、男酒の灘の生一本」の名声をほしいままにするのに欠かせない原料とされていました。

しかし、昭和になって高度経済成長の時代を迎え、西宮は阪神工業地帯の真っただ中に置かれることとなり、宮水への汚染が危惧されるようになりました。水質の悪化が、この時期の調査でわかってから現在まで、酒郷組合による宮水保全のための努力は続けられています。その結果、阪神工業地帯の真ん中に位置するにもかかわらず保全状態としては奇跡的な状態が保たれ、昭和60年(1985年)には環境省の名水百選に選ばれました。



今津灯台

2018/04/21 13:17:51

今津灯台

この灯台は、かつて江戸時代に、西宮で造られたお酒を東へ運ぶ樽廻船などが?出入りし賑わっていた今津の港の一角に建てられていた木造灯台です。

元々今津の酒造家「大関」の醸造元、長部家五代目の長兵衛によって1810年(文化7年)に建てられたものが起源で、「今津港に出入りする樽廻船や漁船の安全への願い」が込められていました。
その後、六代文次郎によって再建されたものが、現在の今津灯台の原型となっています。



鴉宮

2018/04/21 14:01:00

鴉宮

関連リンク

鎌倉時代前期、第84代順徳天皇の建保3年(1215年)4月、村と港の繁栄を祈念し、伝法村の中心に傳母頭神社(もりすじんじゃ)として鎮座した。

御祭神は、天照皇大神・住吉大神・神使霊鳥八咫烏・恵比須大神・市杵島比売大神。住吉大神は四神とされているので、住吉三神と神功皇后のことだろう。

安土桃山時代の文禄元年2月(1592年)、豊臣秀吉は瀬戸内より日本海への渡航に際し、神前に祈願したところ、当社殿奥の森から三足の鴉が出現。

航海の安全守護の他、瑞祥を示さんとの神告があり、お告げの通り無事平安に帰国を果たした。秀吉は大いに感激し、「鴉宮」と命名、現在地に遷宮したという。



鴉宮

2018/04/21 14:01:00

鴉宮

鴉宮のある伝法は江戸時代造船の一大拠点であつた。



初代大坂船奉行所跡

2018/04/21 14:11:34

初代大坂船奉行所跡

元和6(1620)年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けた。西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向をここで監視した。平成23(2011)年に、六軒家川に架かる朝日橋のたもとに、「初代大坂船奉行所跡」の碑が建立された。



安治川に今もある造船所

2018/04/21 14:39:04

安治川に今もある造船所

関連リンク

創業400年にもなる造船所がいまだにある。



安治川

2018/04/21 14:54:29

安治川

かつて此処安治川には冬季に千石舟(弁材舟)が修理の為に係留された。その残滓が現在の造船企業の前衛になった。



住吉大社

2018/04/21 15:10:04

住吉大社

日本を代表する海神を祀る神社。
日本に存在する船名の最大のものは{住吉丸)で在るらしい。
工楽松右衛門・高田屋嘉兵衛は船乗だから絶対にここに参拝したはずだ、山片蟠桃は大坂の枡屋の番頭であったので参拝しただろう。



住吉大社 奉納灯篭

2018/04/21 15:12:09

住吉大社 奉納灯篭

関連リンク

住吉大社で最大の灯篭はこの「うつぼ」のもの(11.5m)。大鳥居の左にあります。今の西区靭(うつぼ)公園に江戸時代の塩干物市場があり、「干鰯(ほしか)仲間」は、北前船で運んできた鰊肥料を扱った商人達です。

当時は綿の栽培が盛んで此の作物は大量の金肥を必要としました、高田屋嘉兵衛と工楽松右衛門はそれを大量に運んで財を成していったのです。