紀州街道の町家をたずねる。

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2018-04-29 07-03

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/04/29 07:13:27終了日時2018/04/29 11:35:19
水平距離68.26km沿面距離68.36km
経過時間4時間21分52秒移動時間3時間53分07秒
全体平均速度15.66km/h移動平均速度17.48km/h
最高速度31.99km/h昇降量合計622m
総上昇量309m総下降量313m
最高高度92m最低高度0m

写真レポート

榎並屋勘左衛門と芝辻理右衛門屋敷跡

2018/04/29 07:19:57

榎並屋勘左衛門と芝辻理右衛門屋敷跡

榎並屋勘左衛門と芝辻理右衛門は、ともに堺を代表する鉄砲鍛冶。
榎並屋勘左衛門は幕府御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門は日本で初めて大筒を作ったほか、大阪冬の陣でも徳川方から大量の鉄砲の発注をこなしたとされている。

現在芝辻家の跡地には水野鍛錬所があり現在は包丁を製作している。

堺紀州街道沿いの町家

2018/04/29 07:22:52

堺紀州街道沿いの町家

堺の紀州街道(大道筋)沿いには古い雰囲気のある古民家がある。

旧堺湊郵便局

2018/04/29 07:32:04

旧堺湊郵便局

旧郵便局舎。昭和50(1975)年ごろ新局舎の完成に伴い 郵便局舎としての役割を終えた。一時、数学教室として使用されていたが、現在は無人となって いる。下見板張りの外壁はかなり傷んでいる。

司馬遼太郎氏が訪れて(街道をゆく  堺・紀州街道ほか)に記述されている、昭和8年に建てられたもの。

堺の風車

2018/04/29 07:33:51

堺の風車

僕は堺市生まれですが子供のころの記憶風景には必ず風車があります。

風のある日は風車が回って地下から水を活きよいよく汲み上げて風車の横にある小さな池へ水を貯めていました。

あんなにたくさんあったのに今では此処と服部緑地にしか在りません。

田中陣屋

2018/04/29 07:53:14

田中陣屋

田中陣屋は、元亀年間に田中遠江守重景によって築かれた。 重景は、天正4年の織田信長による石山本願寺攻めにも参陣している。 田中氏は、その後帰農し江戸時代には大庄屋となり、和歌山紀州家参勤時の本陣としても利用された。

江戸中期ころから和歌山の参勤交代路が大和路(紀ノ川沿い)から紀州街道へ変遷していった。
紀州の殿様は此処で一泊目をすごしたわけだ。

助松村境石造物群

2018/04/29 07:55:12

助松村境石造物群

関連リンク

泉大津ふるさと文化遺産 助松村境石造物郡を認定市内の歴史遺産などを顕彰する「泉大津市ふるさと文化遺産認定制度」にもとづき、市文化財保護委員会は平成27年2月5日付けで、「助松村境
石造物群」(助松町三丁目)を認定しました。石造物群は地蔵堂・宝篋印塔・徳本上人碑などの石造
物で構成され地域では「ホウケント」と呼ばれ大切にされてきました。江戸時代に紀州街道が巡礼道でもあったことをしめし、また助松村境における境神信仰の残る事例として貴重です。

徳本上人碑があった。

蛸地蔵あたりの町家

2018/04/29 08:18:44

蛸地蔵あたりの町家

古いタイプの郵便ポストがあって雰囲気の残る町並

貝塚願泉寺

2018/04/29 08:24:06

貝塚願泉寺

寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落。願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍が今も残っている。南海本線貝塚駅に近い貝塚寺内町の一角は、土蔵や格子戸などが小路のところどころにあり、かつての街の繁栄ぶりを物語る姿も数多く残っいる。

水間街道沿いの町家

2018/04/29 08:37:18

水間街道沿いの町家

紀州街道から分かれて本市をほぼ東西に縦断する道路であり、近世に水間寺への参詣道として、また木島地域と貝塚寺内町を結ぶ物資を運ぶための経済の要路でもありました。岸和田城下と貝塚寺内からの2つのルートがあり麻生中で合流しています。石才を過ぎると道幅が狭くなり、街道沿いには古い町並みが点在しています。中でも清児の家並みは、1904(明治37)年に街道の幅が広げられたあとも古い景観が残されています。
 水間街道には、今なお多くの道標や町石が残されており、かつてのにぎやかな往来の様子をしのばせています。 貝塚市HP転記

水間寺

2018/04/29 08:48:29

水間寺

水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基(ぎょうき)の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。15世紀末に紀州根来寺の支配下となったことで、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀州攻め時にはその伽藍(がらん)はことごとく焼失し、元禄年間(1688年~1704年)には歴代岸和田城(藩)主の保護を受け、本堂以下おもな諸堂が再建されました。しかし、天明4年(1784年)の火災によって本堂や三重塔などは焼失しました。その後、本堂は文化8年(1811年)、三重塔は天保年間(1830年~44年)に再建され、現在にいたります。貝塚市HP転記

熊取交流センター 煉瓦館

2018/04/29 09:13:59

熊取交流センター 煉瓦館

中林綿布工場(五門)は、昭和3年頃に建設された煉瓦造の綿布工場で、当時最先端の自動織機を導入し、泉州地域でも大規模工場のひとつでした。現在は熊取交流センター煉瓦館として、生涯学習などの拠点施設として活用されています。

住吉川の北側に独立して建っている建物は、工場の受電室(電気室、変電室とも呼ばれる)であったもので、旧工場(紺屋工場)に併設されていました。煉瓦造(オランダ積み)平屋建で、屋根は切妻造、桟瓦葺の建物で、この煉瓦館で一番古いものです。

中家住宅

2018/04/29 09:18:48

中家住宅

中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まり、盛晴の嫡男盛秀は左近将監に任じられ、中家は代々「左近」を名乗りました。
室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、根来寺の一子院であった成真院に子弟を送るなど深いつながりをもちました。そして、その勢力を背景に広く和泉国や紀伊国北部に及ぶ田畠を買い集め、また麹販売の権利を持つなど、この地方における政治・経済の担い手として活躍しました。なお、成真院院主であった根来盛重は徳川家直臣として、関ヶ原の合戦や大坂の陣で奮戦し、のち徳川家の旗本になりました。熊取町HP転記

大将軍湯

2018/04/29 09:33:03

大将軍湯

関連リンク

もう廃業されているのでは無いかな?しかし裏には廃材があったな?

知る人ぞ知る。関西激渋銭湯です。

泉佐野のラビリンス

2018/04/29 09:34:09

泉佐野のラビリンス

泉佐野は元々漁師町から始まった。見事なまでに道はぐちゃぐちゃであり、不整形な敷地に店が表に面していない大型の民家が集積している。

不整形なのは自然発生的な漁村町の特徴で(城下町・商業町・寺内町、では、権力が明解な都市計画を行い商人を配置する)、民家もその起源が商家ではなく漁師なのだろう。

どの都市にも典型のない独特な町割りで(勝手に増殖した感じですが)すごい迷路になっている。
全国的にも珍しいのでは無いでしょうか?

食野宅跡

2018/04/29 09:36:22

食野宅跡

江戸時代の佐野は、廻船業や漁業の発展が著しく、和泉国の内でも一番の活況をみせていました。1699年(元禄12)300石以上の船が 88隻もあったと言います。

食野家は佐野を本拠地に大富豪となった廻船問屋の一族です。本家の幼名は佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は、吉左衛門を名乗る。室町時代中頃には、すでに佐野に住んでいたと言い、楠木氏の子孫だと「食野家系譜」に書かれている。

和船のみおし

2018/04/29 09:37:58

和船のみおし

船首先端の水を切る部材で,船体構成上の主要材。近世以来,水切りのよい一本水押が主用されて和船の特徴の一つとなった。

泉佐野の駐車場の脇に置いてあった。何か思い入れがあるのだろう。

いろは蔵

2018/04/29 09:40:25

いろは蔵

食野の倉庫の「蔵」は、「いろは蔵」と言われて、48蔵もあった。食野の廻船は、西回りの航路が開かれて「北前船」をあやつり、天下の台所「大坂」と奥羽地方と結びます。大坂からは、木綿、綿実、や菜種油。北国からは、米、ニシン、ほしか(干鰯)などを商い、往復で巨財を築いていきます。

1761年(宝暦11)江戸の中期には、鴻池、三井、加島屋などの大富豪と並んで同額の御用金を受け、1806年(文化3)には、三井と共に本家が3万石。分家が、1万石の買米を命じられています。

泉佐野の街並

2018/04/29 09:42:48

泉佐野の街並

佐野の豪商「食野家」「唐金家」「矢倉家」を、はじめ佐野の商人は瀬戸内沿岸や、遠くは東北地方との交易をしていました。

 江戸時代の佐野浦は、廻船業や漁業の発展が著しく、和泉国の内でも一番の活況をみせていました。1699年(元禄12)300石以上の船が 88隻もあったと言います。

 漁業でも、西は、対馬、五島列島に、東は、関東沖まで進出し佐野網といわれる、すぐれた漁法を伝えました。

廻船業の富はと一般の商家とは桁違いにありましたので此処佐野では贅沢な町家がラビリンスのように増殖した。

泉佐野ふるさと町屋館

2018/04/29 09:44:06

泉佐野ふるさと町屋館

「ふるさと町屋館」は、江戸時代中期の町屋、旧新川邸です。
泉佐野市の文化財に指定され、当時の建築様式を伝える貴重な文化財で、商いや生活の様子を伝え、町屋の暮し振りがしのばれます。

旧新川家住宅

2018/04/29 09:44:06

旧新川家住宅

旧新川家住宅(きゅうにいがわけじゅうたく)は、大阪府泉佐野市にある伝統的建造物(町家)。もとは18世紀末から同地で醤油業を営んでいた新川家(にいがわけ)の住宅であり、泉佐野市の指定文化財となっている。

入母屋造本瓦葺の町家建築であるが、木割が太く豪壮な農家風の部分もある。現在は泉佐野の町場活性化の拠点施設「泉佐野ふるさと町屋館」として、各種地域イベントに活用されている。邸内には江戸・明治期の商いや生活の様子を伝える展示がされ、町屋の暮しぶりを間近に見ることができる。

泉陽銀行跡

2018/04/29 09:47:10

泉陽銀行跡

1895(明治28)年に佐野村の人々によって作られた泉陽銀行が、設立当初にあった場所です。 名残をしめす銀行の蔵が残り、その石積みにお多福亀甲の彫刻があります。

おたふく石

2018/04/29 09:48:18

おたふく石

1895(明治28)年に佐野村の人々によって作られた泉陽銀行が、設立当初にあった場所です。 名残をしめす銀行の蔵が残り、その石積みにお多福亀甲の彫刻があります。

孝子越街道起点

2018/04/29 09:59:35

孝子越街道起点

大阪から来た紀州街道は鶴原(泉佐野市)で左へ進み下瓦屋で熊野街道と合流、山中越で和歌山へ向かうが、孝子越はここから右の道を泉佐野、田尻、樽井、尾崎、淡輪と浜沿いを進み深日で大川越道を分岐し孝子峠を越えて和歌山に至る。

ここにも徳本碑があった世話人は神辺

徳本碑

2018/04/29 09:59:35

徳本碑

分岐に建つ道標を何気に眺めていましたら、見覚えの有る丸みの有る 間無阿弥陀仏 の書体・・徳本の花押がありましたので道標を兼ねた徳本碑でした。
左 紀州わか山 右大川あわしま 
裏面には 大坂万人講  ○○判別不可 と刻まれていました。大きくて立派な物ですのでこの分岐が重要で在った事が伺えます。

岸和田城かむろ坂

2018/04/29 10:19:17

岸和田城かむろ坂

関連リンク

趣のある土塀が残る。

岸和田城

2018/04/29 10:21:39

岸和田城

伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。天正13(1585)年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、伯父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。

 小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17(1640)年、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。

泉大津の街並

2018/04/29 10:40:45

泉大津の街並

旧紀州街道の海側を平行して走る浜街道には、いろいろな時代の町屋建築が多数残され、泉大津市の貴重な文化資産となっている。毛布発祥の地、泉大津を象徴する毛布工場ののこぎり屋根や、歴史を感じさせる虫籠窓、黒い漆喰の壁、鐘馗様の屋根飾りなど珍しい建築様式があちこちに見られ、新旧の時代が混在するばかりでなく、住工の用途が混在する一種独特な歴史的景観をかもし出すまちなみとなっている。

南海浜寺公園駅舎

2018/04/29 10:58:50

南海浜寺公園駅舎

明治30年(1897)10月に開業した後、明治40年(1907)6月に建て替えられた駅舎は、東京駅などの設計で知られる辰野金吾博士が所属した辰野・片岡建築事務所の設計によるものです。 平成10年(1998)9月に諏訪ノ森駅とともに大手私鉄で初めて国の登録文化財となったほか、平成12年(2000)には第1回「近畿の駅百選」に選ばれ、平成14年(2002)には第9回「堺市景観賞(まち部門)」を受賞しています。

北畠顕家戦死の地

2018/04/29 11:06:04

北畠顕家戦死の地

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代 末期から南北朝時代 の公卿 ・武将 。


准三后 北畠親房 の長男 。義良親王 を奉じ、陸奥国 に下向したが、足利尊氏 が建武政権 に叛したため、西上してこれを九州 に追った。


やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、和泉 で戦死した。

千利休邸宅跡

2018/04/29 11:17:03

千利休邸宅跡

千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹?に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
屋敷跡には椿の井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。