今にある時代劇の町 篠山 をポタル。

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現在の軌跡: 03 05 2018 06:04 001

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/05/05 09:42:09終了日時2018/05/05 11:52:16
水平距離5.75km沿面距離5.78km
経過時間2時間10分07秒移動時間0時間40分03秒
全体平均速度2.66km/h移動平均速度7.39km/h
最高速度50.72km/h昇降量合計49m
総上昇量39m総下降量10m
最高高度226m最低高度158m

写真レポート

御徒士町武家屋敷群

2018/05/05 09:53:35

御徒士町武家屋敷群

御徒士町は1610年に篠山城が築城された際に、城の西側の外堀の堀端道に平行して南北の通りが設けられ、その両側に従士が住んだのが始まりとされている。江戸時代(1603?1868)後期に一度焼失しているが、1830年に復興、御徒士町武家屋敷群は今でもその時代に建てられた10数戸の武家屋敷が現存している。現存している武家屋敷住宅の特徴は、まず間口が平均8間(約16m)で商家に比べて間口が広いことが挙げられる。また、「右ずまい」という、ドアが左側で部屋が右側になっている屋敷が多い。 御徒士町武家屋敷群には、安間家史料館という史料館が設けられている。当時の標準的な従士であった安間家の武家屋敷に全面改修をおこなって史料館にしたもので、茅葺で曲屋形式(母屋に直角に馬小屋が付いたL字形の平面を持つ家屋の一種)の母屋と瓦葺の土蔵が残っている。内部では安間家に伝来した古文書や食器類、家具、篠山藩ゆかりの武具や史料を展示している。なお、史料館である旧安間家住宅は篠山市の指定文化財となっている。

御徒士町武家屋敷群 鈴木家

2018/05/05 09:54:15

御徒士町武家屋敷群 鈴木家

慶長15年(1610)篠山城が完成と同時に、この武家屋敷群「御徒士町(おかちまち)」が形成され、その後江戸時代後期の天保元年(1830)の大火災により大部分が焼失、現在残って居るのはその後の建物だと言われています。

安間家歴史史料館

2018/05/05 09:56:53

安間家歴史史料館

安間家史料館は天保元年(1830)以降に建てられた武家屋敷で、 平成6年(1994)10月から翌年3月にかけて全面的な改修を行い、史料館として一般に公開したものです。
江戸時代、篠山城の外堀の周縁には、その身分によって武家屋敷が配置されていました。安間家は篠山藩主青山家の家臣で、「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士の一家でした。その住宅は通称「御徒士町」と呼ばれる武家屋敷群の一角にある標準的な徒士住宅で、 茅葺で曲屋形式の母屋と瓦葺の土蔵が残っており、当時の武家の暮らしを伝えています。
内部には、安間家に伝来した古文書や日常に用いられた食器類や家具をはじめ、 のちに寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や史料を展示しています。 旧安間家住宅は、平成6年5月20日に篠山市指定文化財となっています。

青山家の家臣 安間家 俸禄 12石3人扶持

2018/05/05 09:58:36

青山家の家臣 安間家 俸禄 12石3人扶持

明治の廃藩置県によって、江戸詰の家臣を中心として多くの家臣が篠山から転出していきましたが、御徒士町に住む人々は転出する者が少なく、以後も手入れを怠らなかったことが、かつての武家屋敷の面影をよく今に伝えることになったのです。

小林家長屋門

2018/05/05 09:59:46

小林家長屋門

茅葺入母屋造りで文化年間(1805年)頃、篠山藩主青山忠祐(ただやす)が老女小林千衛のために改築した長屋門である。城の西堀に面して風光と展望し得る物見の間に、見晴らし窓を設け南に曲り家を取りつけた住宅兼用の独特な長屋門形式が創建当初の姿を残しています。 木造間口17.3メートル 奥行3.6メートル 」とあります。小林家長屋門は江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築の1つとして貴重なことから兵庫県指定文化財に指定されています。

南の馬出

2018/05/05 10:00:31

南の馬出

篠山城には「馬出」が北(大手)、東、南の三ヶ所にあって、北を除いて残存している。
 城門から外堀を渡るのは、普通の道路の感じだが、堀の水位を調節する役目とともに、敵に破壊されないようにと基礎から積み上げた「土橋」なのである。その前方に設けられ、堀に囲まれ石垣や土塁の上に塀をめぐらした比較的小さな区画(曲輪)が馬出で、この城は3つとも角馬出であった。
 馬出は城門のさらに外を守る施設で、場内への出入りを複雑にするため、必ずこの入口で確認をうけてから、土橋を経て城門に向う仕組みになっているわけで、最初と最後のチェックポイントなのである。戦いが始まると、武将が敵状偵察をしたり、兵馬をここに集合させて、出撃する拠点にするのである。
 「南の馬出」は一番規模が大きく、搦手(裏門)の防衛を重視したと思われる。幅約30メートルの堀に囲まれ、高さ約4メートルの土塁が残存し、水面下まで石垣を用いずに築かれた「土塁の馬出」であって、わが国で現存する唯一の貴重な遺構である。なお、ここの堀を薬研堀と呼ぶのは誤りである。

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:06:08

河原町妻入商家群

篠山城築城の際に、城下町の整備がなされ、京への玄関口である河原町が最も早く着手されました。

当時から代を重ねて住み続けている人も多く、5メートルから8メートルほどの狭い間口と、奥行きが非常に深い妻入りの商家が軒を連ねます。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、千本格子や荒格子、袖壁、うだつなどが往時の城下町の姿を今に伝えています。

また、城下町形成時に防御施設として建てられた真福寺や観音寺、藩主の菩提寺であった本経寺が町並みのポイントとなっています。

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:07:48

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:08:38

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:20:45

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:20:45

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:20:45

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:23:44

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:24:08

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:25:23

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:28:06

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:29:55

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:30:42

河原町妻入商家群

河原町妻入商家群

2018/05/05 10:31:11

河原町妻入商家群

篠山城の石垣

2018/05/05 10:40:27

篠山城の石垣

関連リンク

徳川家康の命を受けた庶子で後に篠山城初代城主となる松平康重が築城したことに始まる。建設にあたり,この地にもともとあった 50 戸あまりの黒岡村を強制移転して篠山城を建設したといわれる。

篠山城の石垣は近江国(滋賀県)の穴太から招かれた築城専門の石工 の指導によって積み上げられました


篠山城下町の都市史的考察と建築史的考察

篠山城の石垣

2018/05/05 10:41:56

篠山城の石垣

篠山は石高でいえば当初5万石,江戸末期には6万石という規模である。藩石篠山城下町は 6 万石,城下町人口で 5,435 人となっており,城下町としての規模は,全国的にみて概ね中間的な位置にある。なお篠山と同規模のものでは愛知県の西尾(6 万石,5,580 人)があり,規模が近いものでは滋賀県の膳所(6 万石,7,272 人),山口県の岩国(6 万石,3,406 人),兵庫県の竜野(5.1 万石,6,065 人)などがある。

画像22

2018/05/05 10:43:22

画像22

篠山城の石垣

2018/05/05 11:16:52

篠山城の石垣

篠山城の築城工事は,縄張奉行藤堂高虎によるもので,いわゆる天下普請により,1609 年(慶長
14)3月に着工,9 月にはほぼ完成し,12 月には城主が入城する異例の建設スピードであったという。
篠山城の城郭の大きさは約400m余の方形で約17万㎡,城下町は,東西には河原町から御徒士町までが約1500m,南北には約 800mに収まるコンパクトな大きさである。これは現代でいえばほぼ1近隣住区の規模に相当し,自己完結的な日常生活圏をつくっていたと考えられる。

篠山城の石垣

2018/05/05 11:16:52

篠山城の石垣

篠山城跡を入口である北廊下門跡から上って行くと、石垣のあちこちに(○に小の文字)とか(□にぺけの文字)の印を見かけることがあります。
これは符号と呼ばれるもので、約二百五十種類あるといわれています。
 この符号は、石を切り出した工事の受け持ち区域を示した印か、担当した石工の銘か、監督の大名や侍のサインか明らかではありませんが、既に石切り場で付けられていたようです。
 一つの例では天正十一年(一五八三)の大阪城築城には、各大名は部署の石垣に自家の紋印を付けて、名前と責任を明らかにしました。
 篠山城にはこれらの符号のほかに、南側埋門を出た右側の石垣に「三左之内」と刻まれたものがあります。これは、築城総奉行を務めた池田三左衛門輝政の持ち場でなかったかといわれています。
 篠山城は短期間で築城されましたが、賦役に携わった人たちが、石垣を積む際に与えられた持ち場を間違わないようにするために、石に印を付けたのかもしれません。

丹波杜氏酒造記念館

2018/05/05 11:21:56

丹波杜氏酒造記念館

酒造りの名匠・丹波杜氏の酒造記念館。酒造技術の近代化によって失われつつある各種の酒造用具類や資料をはじめ、酒造りの工程をいくつかの過程ごと に分けて展示しています。

日本唯一の貴重な馬出

2018/05/05 11:29:35

日本唯一の貴重な馬出

篠山城には北(大手)東南の3カ所に角形の馬出があり外濠から突き出る形で凹字形の濠と土塁で囲まれていました。
 北の馬出(大手馬出)は大正12年(1923)に道路を直通するため埋め立てられましたただ現在たんば田園交響ホール両側道路に面したところにその土塁の一部が残っています。
 東馬出はかつて建物があった関係で現状は損なわれていますが濠は昔の姿をとどめています。ところが南馬出だけは土塁と濠がほとんど完全に残っていて往時をしのぶことができます。

日本唯一の貴重な馬出

2018/05/05 11:29:35

日本唯一の貴重な馬出

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

2018/05/05 11:32:36

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

清酒「鳳鳴」醸造元の鳳鳴酒造が、築210余年の本社蔵と蔵元の西尾邸を 改装、整備して江戸時代のたたずまいや丹波杜氏の伝統、日本酒の昔ながらの製造方法を知ってもらおうと2001年に酒蔵見学施設「ほろ酔い城下蔵」をオープン。 酒蔵と住居は、創業した江戸時代後期の寛政9年(1797年)に建築されたもので、昭和50年(1975年)に清酒製造を味間蔵に集約するまでは実際にこの場所で酒造りをしていました。 洗米場や釜場、麹室など...当時の酒造りの現場と古い道具類を無料で見学することができ、見学後は直営店で清酒「鳳鳴」のほとんどの酒類のお酒の試飲ができ、気に入ったお酒の購入もできます。 丹波黒大豆から出来上がった和リキュール「楼蘭(ローラン)」や、丹波栗の和リキュール「マロンデキッス」、日本酒仕込みの「梅酒」、水のかわりに日本酒で仕込んだ日本酒「貴醸酒」など、珍しい品揃えも数多くあります。

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

2018/05/05 11:32:36

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

関連リンク

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

2018/05/05 11:35:47

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2018/05/05 11:36:27

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懐かしい町 篠山

2018/05/05 11:45:46

懐かしい町 篠山

篠山の二階町通りにある駄菓子屋さん、お店に入ると、まるでタイムスリップしたような気持ちにさせてくれる駄菓子やおもちゃがおかれている。