泉州・河内の道標を訪ねる。その①

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の幅: px      地図の高さ: px

タグ:

現在の軌跡: 20 05 2018 06:25

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/05/20 06:25:37終了日時2018/05/20 11:02:13
水平距離62.61km沿面距離62.67km
経過時間4時間36分36秒移動時間3時間32分35秒
全体平均速度13.59km/h移動平均速度17.51km/h
最高速度66.66km/h昇降量合計614m
総上昇量317m総下降量297m
最高高度139m最低高度-32m

レポート概要

石碑など石に刻むことを総称してなんと言うのか? 

1.『大漢和辞典』で「刻」の部分を見る。「刻字」文字をほりきざむ。「刻石」石に刻む。又、石に刻んだ文字。
2.『大漢和辞典』で「碑」を見る。(巻8-p373)「碑刻」石に刻んだ文。碑文。「碑文」石碑に刻む文。「勒碑(ヒニロクス)」碑文を刻む。
 となるらしい。

石に刻む の意味は?  「かけた情は水に流し、受けた恩は石に刻め」という言葉があり要約すると 忘れてはいけない事石に刻むように記憶と記録しろ。 って事でしょう。

昔の人は徒歩で旅をしました、今のようにカーナビやスマホなんて無かったし、地図も大変に貴重なもので簡単に持ち歩けなかったようだ。
それでは、昔の人は旅をする時どうしたのでしょうか?巡礼や商売で多くの人々が街道を往来し始めたのは室町期あたりでは無いかと思われます。
初めはプロの巡礼者(廻国行者や六十六部)や商人は仲間や商隊を組んで往来していたはずで、その頃は芥川龍之介の羅城門のような世界であり、油断をすると盗賊にすぐに殺されるような時代であったでしょう。(北斗神拳の世界)
旅をするほうもそこいらは解かっていて武装していただろうし道にも慣れていて道標なんぞは必要なかったでしょう。
しかし江戸時代が始まり治安が安定すると娯楽(寺社参りだけは幕府もお目こぼしした様子ですな)としての(当時の人は娯楽なんて言うと怒りますな?信心って言うてえなぁ。って言いますな。)旅が始まります。
土地に不慣れな御仁が(たいがいが商家の隠居した旦那やお上さん連中か隠居した石取(100石以上の裕福な)武家階級の爺さん婆さん)うろうろしたはずで道迷いも多かったでしょう。

江戸時時代が始まると寺社や町を示す道標が大量に作られるようになります。
たいがいが町の入り口・出口付近にあって、道標を見た旅人が(ああもう飯喰うとかんとあかんな?とかわらじ買わんとあかんな)とか解かるようになってます。

道標はみんなの為になる大事な物なので、一般人からも道標をあちらこちらの街道沿いに建てる有徳な人が現れます。
その代表が神南辺道心で、彼は江戸時代の人物で俗名を弥兵衛といい、大和国生駒郡神南村の出身であるとされています。
幼少の頃は、殺傷を好み、鋳物師としての技量は良いが素行は悪く無頼漢であった、ある時、夢の中に地蔵菩薩が現れ、今後善行を積めば地獄域から救うとのお告げを聞き、弥兵衛は仏門に入った。諸国を行脚し各地に道標を建て、橋を架け、また多くの地蔵を建立したとされています。

街道をポタッていると、多くの神南辺道心が発起人となった道標が見ることがあります。神南辺道心だけではなく町中や講中などいろんな形で生活者が道標を建てた事がわかります。

政府(当時は幕府や藩)が建てた物はあまり目にしませんが、生活者達が建てた道標は非常に多く目にします、当時の日本人は公共心があり世の中の為になる事が大事な事だと認識していたのでしょう。
そんな日本人の原点を見つける道標をたずねてみた。

写真レポート

堺大道筋の道標(材木町の道標)

2018/05/20 06:37:15

堺大道筋の道標(材木町の道標)

左妙国時、右住よし大さか


安永六年丁酉四月(1777年)



土佐十一烈士墓を示す道標

2018/05/20 06:39:34

土佐十一烈士墓を示す道標

堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓が宝珠院(ほうじゅいん)境内にあります。

それを示すための道標、宝珠院にある土佐十一烈士墓には幕末参拝客が絶えなかった程人気が高く在ったのです。



旧榎村宝経印塔

2018/05/20 06:51:17

旧榎村宝経印塔

このあたりから堺の町の外との境界にあたる、慶安元年(1648)の宝経印塔がある。(現地掲示板)



西高野街道女人堂十三里石

2018/05/20 06:54:45

西高野街道女人堂十三里石

地蔵堂とともに「十三里石」があります。ここから高野山不動坂口の女人堂まで単純に一里(約4km)1時間として13時間歩くことになります。

一里毎に里石が置かれてあります。



西高野街道女人堂十二里石

2018/05/20 07:13:43

西高野街道女人堂十二里石

ここ新家あたりは街道風情が色濃くの残っている。



地蔵形道標

2018/05/20 07:15:47

地蔵形道標

関茶屋あたりの富田林街道の脇街道との交差部に地蔵形の道標がある。

東 なら ふじいてら と刻む。



福町の大神宮戸灯篭

2018/05/20 07:24:36

福町の大神宮戸灯篭

西高野街道は伊勢街道としての利用も盛んであったことの証左。



西高野街道女人堂十一里石

2018/05/20 07:31:41

西高野街道女人堂十一里石

岩室にある西高野街道女人堂十一里石



天野街道との分枝

2018/05/20 07:34:40

天野街道との分枝

岩室を過ぎると天野街道との分枝にいたる。
ここにも古い道標がある。

左かうや山十里 右 あまの山二里



中高野街道との合流部

2018/05/20 07:52:40

中高野街道との合流部

千代田あたりで、平野を基点とする(守口・または四天王寺との説もある)中高野街道と合流する。
地蔵堂の中の地蔵は道標形で光背に行き先を刻む。



中高野街道との合流部の地蔵形道標

2018/05/20 07:52:40

中高野街道との合流部の地蔵形道標

地蔵堂の中にある地蔵の光背には堺大坂と刻まれていた。

「右ハ平野道」、「堺大坂道」



清明塚

2018/05/20 07:57:59

清明塚

平安時代に活躍した陰陽師の安倍晴明が所蔵していた天文学の書物を埋めたので「晴明塚」と言われています。安部晴明は、和泉国信太の森の白狐「葛の葉」を母にして生まれたという伝承があって、安部晴明の父・安部保名と母・葛の葉の悲恋物語は、講談や芝居となって大坂庶民のあいだで大いに流行しました。高野街道沿いに、晴明ゆかりの土地や伝説、物語が見られるのも、こうした庶民信仰の表れといえます。河内長野市観光協会 パンフより転記



原町の道標

2018/05/20 08:01:10

原町の道標

「右さかい大坂」、「左まきのを」
(嘉永元年)(1848年)



原町の道標

2018/05/20 08:03:02

原町の道標

「右かうや」、「左ふじゐ寺」

このあたりは高野街道と巡礼道が交錯している。



原町の旧阿弥陀寺石造物群

2018/05/20 08:03:13

原町の旧阿弥陀寺石造物群

十三仏板碑2基、地蔵菩薩像、観音菩薩像で構成されています。かつてこの地の南側に位置していた、阿弥陀寺(20世紀初めに廃寺)の境内にあったものと伝えられています。十三仏板碑には、寛永11年(1634年)に原町の庄屋・俵屋が施主となって、両親、隣組の住人らの供養のために建立したことが記されていますが、とくに右奥の板碑は、像高228センチと河内長野市最大級の規模で、河内長野市の有形民俗文化財に指定されています。
河内長野市観光協会 パンフ転記



原町の旧阿弥陀寺石造物群

2018/05/20 08:04:47

原町の旧阿弥陀寺石造物群

ここの観音さんはすごくいい顔をなさっている。

人間はこういう顔で生活せなあかん。



東高野街道と西国三十三箇所の巡礼街道

2018/05/20 08:08:52

東高野街道と西国三十三箇所の巡礼街道

東高野街道と西国三十三箇所の巡礼街道が交差する河内長野向野にある自然石の道標

「左かうや 祖神寺護 右まきのふ」



孝子地蔵

2018/05/20 08:14:10

孝子地蔵

昔、東国から西国巡礼に出た親娘が第四番槙尾山施福寺から第五番紫雲山葛井寺に行く途中、ここにさしかかったとき、母親は長旅の疲れが出て倒れてしまった。
娘は村人の助けをかりて、一心に看病したがそのかいなく母親は亡くなってしまった。
仕方なく娘は母親の遺体を荼毘に付し遺骨をだいて国へ帰っていった。
その後、娘は母親の死が忘れられず、再びこの地にきて地蔵尊を造立、母親の菩提を葬った。

掲示板要約

元文二丁巳十一月廿四日(1737) 左まきのを道と刻む  



東高野街道錦織一里塚

2018/05/20 08:16:01

東高野街道錦織一里塚

街道沿いに距離を測る目印であったという一里塚が、河内長野市との境界近くに残っています。  錦織一里塚は、一辺が約9メートルの正方形で、高野山に通じる東高野街道に接して造られています。現在、ここには宝篋印塔と石碑が残され、そのひとつには「承応二年」(1653年)の年号が刻まれているため、この一里塚はこれより以前に造られたと考えられます。
富田林HP転記


荒れてしまっていて、あまり大事にされていない。これではいけない



富田林寺内町の道標

2018/05/20 08:28:12

富田林寺内町の道標

富田林寺内町の南端にある道標は場所や方角のほかに寺内町の中での「くわえせる」「ひなわ火」を禁止する文言が刻まれています。

道標が立つ20年前の享保15年(1730)11月、寺内町は一里山町・富山町の全域と北会所町の西方が全焼する大火に見舞わたので火の元を用心せよとの事であろう。



富田林寺内町

2018/05/20 08:32:35

富田林寺内町

江戸時代が現在も続いています。



叡福寺の道標

2018/05/20 08:53:49

叡福寺の道標

叡福寺の大師堂の前にある道標

右 たいま たけのうち  道
  つぼさか よしの
  をかてら(岡寺) 者せ寺(長谷寺)

江戸期は巡礼なら通行手形がもらい易かったので、隠居した商家の旦那やお上さんなどはたいがい旅をした印象がある。



叡福寺多宝塔

2018/05/20 08:59:45

叡福寺多宝塔

すごく姿の優雅な多宝塔。

叡福寺多宝塔 承応元年 1652年 重文になっている。

昔は(江戸時代)は高い建物が無かったのでこの搭も遠くからよく見えた事でしょう。
ランドマークとしての役割も果たしたことでしょう。



竹之内街道の道標(太子町角屋前の道標)

2018/05/20 09:12:39

竹之内街道の道標(太子町角屋前の道標)

かつてここには旅籠 角屋があった。
ここは竹之内街道と喜志へ向かう いすみ道 の三叉路であった。

施主 堺神南辺 世話人町中 と刻む。

このあたりから頻繁に 堺神南辺 が登場する。



役行者錫杖水

2018/05/20 09:28:05

役行者錫杖水

竹之内街道の八丁地蔵尊にある道標施主は神南邊となっている。

神南邊大道心隆光は、江戸時代の人物で俗名を弥兵衛といい、大和国生駒郡神南村の出身である。
河内国布施村あるいは東足代村の鋳物師(いもじ)といわれている。
幼少の頃は、殺傷を好み、鋳物師としての技量は良いが素行は悪く無頼漢であった。
ある時、夢の中に地蔵菩薩が現れ、今後善行を積めば地獄域から救うとのお告げを聞き、弥兵衛は仏門に入った、諸国を行脚し各地に道標を建て、橋を架け、また多くの地蔵を建立した。
京都の大仏炎上の際には、全国を行脚して寄付を募り、天保7年(1836年)嵯峨御所より錫杖を下賜、また念珠を堺奉行から贈られている。
神南邊が世話人になった道標はあらゆる街道のあちらこちらに発見できる。



川向の道標(きれいになっていた)

2018/05/20 09:34:41

川向の道標(きれいになっていた)

其の壱
堺の神南辺隆光の発願にかかる道標で竹ノ内街道を通る旅人に「大黒の大黒寺」への道筋を案内するとともに、西面にはその由来を記す。
其の弐
「法華寺」(石川郡北加納村、現河南町加納)は安永四(一七七五年に再建された当時南河内で唯一の法華宗(日蓮宗)の寺である。
この道標は法華寺の案内のため安政六(一八五九)年七月に、大阪在住の法華宗の信者が浄財を集めて造立したものである。
                          大阪府 案内板より



蓑の辻の道標

2018/05/20 09:39:20

蓑の辻の道標

羽曳野市古市、蓑の辻に建つ嘉永元年[1848年]の道標。

写真左右が竹之内街道で前後は東高野街道になる。

左 大和路 右 大坂と刻む


かつては旧羽曳野市商工会館が趣のある建物でいい感じでマッチしていましたが、今は??



長尾街道(藤井寺市役所前の道標)

2018/05/20 09:54:10

長尾街道(藤井寺市役所前の道標)

元禄十四年の道標

大変古く貴重な道標ここより200m西にあった道標を移築したとのこと。


「右ハ ふじい寺 かうや よしの はせミち」「左ハ なら かふり山ミち」と刻む



古市街道と長尾街道の合流点の道標

2018/05/20 09:57:42

古市街道と長尾街道の合流点の道標

灯篭型(常夜灯)の道標で上の部分が無くなったものだろう。

正面 「右ハいせ 道(明寺) 葛(井寺)」
左面 「慶應三卯天十二月吉(日)」(1867)
右面 「村内安全」
裏面 「世話人 伊勢講 金毘羅講 中」



長尾街道と平野道との分枝地点の道標

2018/05/20 10:04:14

長尾街道と平野道との分枝地点の道標

民家の(酒屋さん)壁に沿って道標が立っている。浮彫の地蔵尊が彫られており、その下に「右 平野 大阪 左 さかい 道」 右に「すぐ ひらを」 左に「すぐ ふじい寺 なら」と刻む。

平野道との分枝地点。



日露戦役記念碑 松原村出征軍人記念碑

2018/05/20 10:10:00

日露戦役記念碑 松原村出征軍人記念碑

阿保茶屋交差点南西側…中高野街道と長尾街道が交わる広場に建っています。表面上部に「日露戦役紀念碑」「松原村出征軍人」と横書きしています。その下に、松原村(上田・阿保・田井城・高見・新堂・岡・立部・西大塚・西野々)の兵士を戦死者2名を筆頭に124人の名を記しています。左端に「明治三十九年五月建立」とあります。
松原市HP転記

中高野街道との交差点にあたる地点に記念碑がある。日露戦争は戦死者が異常に多い戦争で、近代戦になれていない日本がよくも勝てた(ぎりぎりで辛くも勝った)戦だった。
石碑の人物達は戦争はだめだと語っているようだ。



松原市岡の道標

2018/05/20 10:20:02

松原市岡の道標

松原市HPでは、竹内街道中高野街道茶屋筋道標とされていた。

竹内街道と中高野街道との交差部に建てられた道標で、製作年は1797年とはっきりしています。現在でもよく利用される生活道路の交差部で、ひっきり無しに車が通過していました。

右 ひらの 大坂 道
左 さやま 三日市 かうや 道
左 さかい道
寛政九年丁巳五年いせこう中   と刻む



黒土西地蔵尊

2018/05/20 10:39:05

黒土西地蔵尊

古くからある町で道筋に地蔵が祀られていた、左端の小ぶりな地蔵は道標地蔵であった。

地蔵の左側に道標がある;「従是 万代八幡 十二町」「家原文殊 三十町」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。