泉州・河内の道標を訪ねる。その② 

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現在の軌跡: 26 05 2018 05:54

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/05/26 05:54:40終了日時2018/05/26 10:23:23
水平距離68.34km沿面距離68.38km
経過時間4時間28分43秒移動時間3時間31分31秒
全体平均速度15.27km/h移動平均速度19.23km/h
最高速度56.11km/h昇降量合計531m
総上昇量255m総下降量276m
最高高度166m最低高度15m

レポート概要

前回に引き続き泉州の道標を巡ってきた。

街道筋を旅しているとたくさんの社寺や道標に出会う事になる。
社寺についてはその社寺が残っている場合は記録があり、謂れ等も調べることがある程度可能で僕の好奇心は満たされてしまう。
しかし社寺よりはるかに多く存在する道標は、今のところあまり学術的な価値の少ない様子で研究や記録が極端に少ないのが現状で、たまに物好きな方々がHPにUPしたり、やや詳しい内容の文書が地域の学集会などで配布されている程度が現状であろう。

道標については、市井の人々が利便性を叶えたり・親切心からお金を出し合って作ったと思われる、街道をぶらぶらしていると道標の裏面あたりに発起人や願主の名が刻まれていて、その人々はたいがいが、当村○○左ヱ門(人名やね) や 大坂 ○○屋(屋号やね) とか ○○講中(信仰仲間やね)が刻まれているのですが、近畿圏の街道の場合 発起人 神南邊 には非常に多く出会うこととなる。

神南邊さんにはもう15年くらい前から気になっていたのですが、ここ数年いろいろと調べるうちに僕と無縁な人では無いことがわかってきました。
奇遇な事に、僕の通った中学校がある町に神南辺道心が住んでいて、彼は近畿一円にたくさんの道標を立てて回っていたそうで、今でも街道をポタリングしていると多くの神南辺道心が発起人となった道標を見ることができる。

また非常に珍しいのでは無いかと一人ほくそ笑んでいる徳本碑の道標が泉佐野の鶴原にある、個人的には泉佐野市の有形文化財にしてくれんかな?と思っているのですが?どうかな。

まあいずれにせよ江戸時代には庶民(裕福層に限ってはいただろうが)が旅を楽しんでいただろう事は道標の多さを見ても想像に難くない、社寺参りにかこつけて旅を楽しんでいただろう。今は実見できるか判らないが、西国三十三の法華山 一乗寺の本堂の扉に 嘉永○○年 四国遍路 飾磨6人組 とかの落書きがあって眺めていると何だか「楽しいぞー」て云う雰囲気が漂っていた。

当時の日本は今とあまり変わらないくらい信用社会が形成されていて、各地で名物を買って自宅へ送る事もできたようだ。(なんと言う信用社会か!)
これは世界で現在唯一自動販売機のビジネスモデルを持つ日本の原型が何であるかを示唆しているだろう。

ポタリングの最後にここ数年(て言うかここ15年位かも知れん)僕の好奇心を楽しませてくれた郷土の有徳人 神南邊隆光(道心)の墓参りをして帰った。

写真レポート

千日井

2018/05/26 06:08:54

千日井

七道は、かつて七堂濱と呼ばれました。行基(668~749)が神亀元年(724)に開いた清浄土院高渚(たかす)寺の七堂伽藍があったためで、千日井は、その寺の井戸といわれています。上水道整備がされるまで地元民の優れた飲料水源でした。
文政9年(1826)に神南辺道心が発起、宗見寺真誉上人が導師、付近の農民が世話人で建立した岩喜兵衛(土居川・千日橋の建立者)と水難者の供養碑があります。
堺探検クラブ「七道まち歩きマップ」より転記

またまた出ました江戸時代の堺の有徳人 神南邊隆光(道心)あちこちに道標やら供養碑を建てていますな。

木材町の道標

2018/05/26 06:14:17

木材町の道標

毎度の道標 立派なものでついつい

太陽橋の道標

2018/05/26 06:26:39

太陽橋の道標

石津川太陽橋は明治5年(1872)5月落成の太陽橋は通行人の橋銭(通行料)をもって完成した。しかし、石津川は雨季のたびにしばしば氾濫し、住民たちや通行人を困らせた。昭和27年(1952)より10年の歳月と巨費を投じて石津川改修工事が行われ、それに伴い現在の太陽橋も架け替えられた。
その際に作られた道標がある。

北畠顕家戦死の地

2018/05/26 06:28:17

北畠顕家戦死の地

太陽橋の道標の横に北畠顕家戦死の地の供養搭がある。

おそらく明治期に軍国主義に傾倒してゆく過程で祭り上げられていったのでしょうか?

云わゆる忠臣を奉る石碑は明治後に多く作られた印象がある。

中和泉街道

2018/05/26 06:43:01

中和泉街道

中和泉街道の基点を示すらしい道標があるんですけど。
中和泉街道のルートなどは不明。

助松村境石造物群

2018/05/26 06:47:15

助松村境石造物群

紀州街道沿いのこの地点は、江戸時代にはおいはぎが出るような寂しい場所だったという。

西国三十三度供養塔 三機とも宝筐印塔・徳本上人名号碑(江戸時代中期の高僧)と道の向かい側には六十六部供養塔がある。

岸和田市道路元標

2018/05/26 07:10:07

岸和田市道路元標

大正11年1月1日岸和田町が市制施行。

道標ではありませんが、まあ 道つながりと云う事で・・・

忠臣捕鳥部萬墓への道標

2018/05/26 07:14:59

忠臣捕鳥部萬墓への道標

津田川の橋の南側に 忠臣捕鳥部萬墓 並 犬塚 是ヨリ三十丁 と刻まれた道標がある。

捕鳥部万は飛鳥時代に物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)の警固や雑役などに当たる資人(とねり)をつとめた人物でした。「日本書紀」用明天皇条には、587(用明2)年守屋の死後、捕鳥部万の妻の実家があった芽渟県有真香邑(ちぬのあがたありまかむら:現在の久保を含む津田川中流域一帯と推定される)に逃れ、朝廷軍を相手に大奮戦したことが記されています。
 捕鳥部万とその愛犬の墳墓と伝えられる大山大塚古墳と義犬塚古墳(ともに天神山古墳群)は、岸和田市八田町に現存しています。貝塚市HP転記

粉河街道分枝の道標

2018/05/26 07:20:51

粉河街道分枝の道標

紀州街道と和歌山県紀の川市粉河(こかわ)に向かう粉河街道との分岐点を示す道しるべで、脇浜会館前の三叉路に建てられています。1906年(明治39)年3月に大阪府によって建てられたもので、正面の左右に「右 国道第廿(にじゅう)九号路線 佐野 加太 和歌山道」、「左 粉河街道 犬鳴山不動 粉河」とそれぞれ刻まれています。紀州街道は東京から大阪を経て和歌山へ向かう主要な路線の一つであったことから、1885年(明治18)年に国道29号線となりました(1920年(大正9年まで)。また、粉河街道は脇浜を抜けると王子で熊野街道と交わり、熊取町朝代(あさしろ)、泉佐野市大木(おおぎ)を経て、和歌山県紀の川市粉河に至る街道です。貝塚市HP転記

孝子越街道分枝の道標(徳本碑)

2018/05/26 07:29:28

孝子越街道分枝の道標(徳本碑)

紀州街道は泉佐野市鶴原で孝子越街道分枝と別れるがその分枝点に道標がある。

徳本碑でありながら道標も兼ねていて僕は非常に珍しいのではないか?と思う。
徳本碑で道標型はここでしか見れないのではないかと思う。

徳本上人名号碑(道標型)珍しい

2018/05/26 07:29:28

徳本上人名号碑(道標型)珍しい

普通ならは徳本上人名号碑は並阿弥陀仏と独特な徳本上人の字体を刻むだけの物がほとんどではないか?と思うのですが。
ここの(鶴原)のは行き先を刻み尚且つ上部に東西南北をしめしてある、すごく珍しいと思う、文化財にしても良いのではないかな。

裏面には 大坂万人講 とのみ刻まれていて、大坂の徳本講の人々が浄財を出し合って紀州街道と教子越街道(大阪湾岸沿いの古街道)の分枝点に建てた物だと解かる。

徳本上人名号碑

2018/05/26 07:29:53

徳本上人名号碑

徳本上人というのは江戸時代中期の浄土宗の高僧です。宝暦8年(1758)紀伊国日高郡に生まれ天明 4 (1784)に出家し、木食行や不眠の行など難行苦行を行った後、全国を教化行脚しました。徳本は各地に「南無阿弥陀仏」の名号を記した筆跡や碑を残しましたが、その書体は独特のものでした。助松地蔵堂の碑もその一つで、徳本の署名と花押が刻まれています。徳本は訪れた地域の信者の求めに応じて直筆の名号を無料で配ったと伝えられています。文政元年(1818)、61 歳で没しました。

(泉大津市教育委員会生涯学習課の資料転記

街道をうろうろしていると必ず徳本上人名号碑には出会うけれど、道標型は非常に珍しいと思うよ、泉佐野市はまだ気がついていなのかも知れないな。

熊野街道(「地蔵型道標)

2018/05/26 07:41:57

熊野街道(「地蔵型道標)

粉河街道との辻にある道標型地蔵道標

すぐをぐり 左く三のき山」(嘉永六年)

水間街道との交差

2018/05/26 07:53:25

水間街道との交差

水間鉄道の踏切の手前の辻にある道標を兼ねた地蔵型道標

右かいつかみち 左おくりみち」

水間街道との交差

2018/05/26 07:56:25

水間街道との交差

水間街道との辻にある地蔵型道標

右おぐり 左みずま」

このあたりは生活道でもあった事からか?地蔵型道標が多い。

水間街道の町石

2018/05/26 07:58:35

水間街道の町石

水間街道沿いの三叉路の一角に建てられている水間寺までの距離を示した町石という道しるべです。正面に刻まれた「廿(にじゅう)七丁」は約2.9キロメートルになります。
ところどころに現存する。

千日隔夜宝篋印塔

2018/05/26 08:15:39

千日隔夜宝篋印塔

寺の説明ではこの宝篋印塔は享保12年(1727年)9月に建てられたとされているが、正平21年(1366年)の銘が刻まれていたともいわれており、制作年ははっきりしないところがあるように思われる。
かなり古いものの様子がする。

水間寺

2018/05/26 08:16:02

水間寺

厄除けの寺として有名

私も41の歳に厄払いにいきました。

水間街道、木積の道標

2018/05/26 08:28:01

水間街道、木積の道標

「右 道陸(どうろく)神社 二十丁 / 左 こつみ村 楠大明神 五丁/ 寛政八年丙辰九月 / 大坂 岩田屋」

岸和田上白原の道標

2018/05/26 08:42:40

岸和田上白原の道標

岸和田上白原にある昭和6年製の道標上白原青年会後援とされていた。
下に示すが社寺の名が多く刻まれていて、この道が順礼道であった証左となった。

右道 伊勢大神宮 三拾六里
大和當麻寺 九里拾五丁
愼尾寺二里二拾七丁
左道 大和信貴山 九里三拾丁

牛滝街道

2018/05/26 08:58:00

牛滝街道

包近で和気からきた和気街道が合流。

左の小さな道標に  「右 さかひ 左 きしわだ」

お堂の中の地蔵は地蔵型道標 「右さかい 左岸和田」

槇尾川の道標

2018/05/26 09:12:28

槇尾川の道標

このあたりから熊野街道は小栗街道か小栗道と云われる。

明治38年の道標

小栗街道の道標

2018/05/26 09:20:54

小栗街道の道標

信太山の自衛隊駐屯地まえの三叉路にある道標。

もうここら辺りからは小栗街道のほうが通りがよい

歩哨の陸士さんごくろんさん。なおれ

鳳南町の道標

2018/05/26 09:35:24

鳳南町の道標

鳳南会館の前にも古げな道標がある。


明治十五年の道標で
背の低い方は「右 伯太 牛瀧 岸和田」「右 堺 住吉 大阪 左 三林 父鬼 槇尾 大野」
背の高い方は、「右ハ 和け 妙泉寺道」「是ヨリ一リ半余り」「南無妙蓮華経」と刻まれている。

神南邊大道心墳

2018/05/26 09:58:56

神南邊大道心墳

関連リンク

旭蓮社・大阿彌陀経寺は澄円上人の開山で、後村上天皇の勅願所であった。
澄円上人は、正中2年(1325年)中国廬山の東林禅寺において、中国浄土教の祖である慧遠(えおん)大師の白蓮社の念仏を学んだ。
その後、白蓮社に模して、堺の浜に精舎を建て、これを旭蓮社と称した。

ここにあの有徳人神南邊大道心の墓がある。
僕の印象では信心深くてものすごく面倒見の良いおじさんで、交渉ごとや・くどき・を熱心にしていたんだなと、時には浄瑠璃語りで浄財を集めてガンバッテいるおじさんのイメージがある、ずいぶん僕の好奇心を楽しませてくれたのでは墓参りしてきました。