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開始日時 | 2018/07/22 05:47:35 | 終了日時 | 2018/07/22 09:43:41 |
水平距離 | 41.90km | 沿面距離 | 41.98km |
経過時間 | 3時間56分06秒 | 移動時間 | 2時間50分45秒 |
全体平均速度 | 10.67km/h | 移動平均速度 | 14.43km/h |
最高速度 | 39.76km/h | 昇降量合計 | 377m |
総上昇量 | 186m | 総下降量 | 191m |
最高高度 | 59m | 最低高度 | 12m |
2018/07/22 06:40:48
大川側から南方面へ勾配が上がる、ゆったりとして良い感じの坂道です。この辺りが 大江の坂 と呼ばれていたのかも知れませんね。「大阪市の旧街道と坂道」にはこちらの御祓筋に力点が置かれています。
堂々とした坂道で風格さえ漂う。
2018/07/22 06:48:55
大阪城南部には法円坂が東に下り勾配で路が付く。
法円坂との語源に付いては諸説ありますが、故・山根徳太郎氏の「石山本願寺の考察・4、調査・考察まとめ」に下記のごとくの記述がある、
(何分にも法安寺が退転を重ねて殆ど寺家の記録を亡失してしまった今日、ただ『天文日記』のみをたよって法安寺のことを聞明にはなし得ないが、蓮如以後伝承して来た石山本願寺の寺域も、その土地の管理権は依然法安寺の手に残っていて、毎年本願寺より地子銀十貫文ずつ徴収して、これを京都の相国寺塔頭鹿苑院に輸していたこと、これまた明白に『天文日記』の記述するところである。
そしてこの生国魂神社の社域を中心として、一帯の地域が法安寺の手に管理せられていたことの名残が後年に伝わって、ついに明治十二年五月以降この付近およそ十万坪の土地が、法安寺の名称の転化である法眼寺より再転して法円坂町の名をもって称せられることになったと考えられるのである。)
参照:大阪城の諸研究
2018/07/22 06:52:13
かぎや坂、鍵屋の字を充てるのが適当だとの事ですが、古地図にたびたび記載がある古い道ですが、伝承は何も残っていないそうです。
2018/07/22 06:56:27
[合鳥坂」とも書く、かつては見事な石畳路であったそうで、現在はインターロッキングブロックで綺麗に舗装されていました。
この坂の名称は豊臣秀頼の側室「お愛」の父・青木半入の居宅があった為に「愛殿坂」がなまったと言う考えもあるとされる。
高低差と道幅があり見事な感じの坂でした。
2018/07/22 07:02:51
写真の高層マンション辺りにあった伊勢屋と言う「火口商」がいた事に因んで付いた名との事。
2018/07/22 07:06:00
現在は大阪医療センターとなっている、かつては医療センターの南西隅あたりは現在の坂以上に急な坂道(落差)となっていたそうです。
この(落差)は現在の医療センターの西の境界に沿って北から南へと続いていて、これが豊臣時代の三の丸の堀のラインであるという「角川地名辞典」。
『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』より
2018/07/22 07:10:42
豊臣時代に安国寺恵瓊の屋敷があったので安国寺坂の名が付いたとされる。
恵瓊の挿話として、信長の短命政権を予言した事が有名です。毛利家の外交官として有能で、秀吉の出世の基点となった「備中高松攻・中国大返し」に於いては、信長の死を察知しながら秀吉との講和をまとめ、秀吉の天下統一戦への消極的応援者となったようですね。
秀吉の政権樹立後は取り立てられ僧でありながら大名となったが、関が原で西軍に付き六条河原で斬首される。
見方によっては、毛利家存続(関が原の後は喰えないほど領地は削られた)の為の人柱になったの知れませんね?
2018/07/22 07:17:50
空堀町の交差点から大阪女学院へ至る坂をこう呼ぶ、坂を下りて南東方面へ小道を入ると、どんどろ大師が在る。
江戸期には大師めぐりが盛んでどんどろ坂はその大師めぐりの道であったそうです。
『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』より
2018/07/22 07:26:10
かつてこのあたりに狸坂明神が祀ってあったのを戦災後取り払ったところ、近所で一年間に8・9回も火事が発生したのを機会に南大江公園に明神さんを復興したとの事です。
太古の大阪湾の渚線は、この辺りの高度で南北へ続いていたそうです。
2018/07/22 07:28:47
豊臣時代の大阪城の惣構堀の跡とされる、空堀があったものを冬の陣後、埋め立てられた。
江戸期には瓦用の土を採っていた場所であり複雑な高低差のある所である。
2018/07/22 07:32:04
大坂三金比羅の一つで、空堀の金比羅があった辺りの坂。
空堀との交差部に天明八戊申(1788)の銘の入る百度石が、かつてここに在った金毘羅さんを偲ばせるが、今は金比羅の跡は何もありませんでした。
2018/07/22 07:37:27
かつて千手観音を祀る和勝院が坂上にあったが、天保六年、新町に移り昭和十三年に箕面の竜安寺に移転した。
寺の跡を示すものはただ坂の名のみとなっています。
2018/07/22 07:42:23
明治始めまで」三行半の坂になっていて、女性が下るのを嫌ったので明治期に付け替えをされたそうです、現在では悪縁を絶つ坂としてひそかに知られているそうですね。
このあたりは上町台地の崖上にあたり大阪では珍しく急な勾配の崖になっている、崖下は松屋町筋に当たりかつては渚線であったのではないか?と思う。
津と言う名が残っているので船着場であったのかも知れませんね。海外の使いを乗せた船がこの場所に着いたこともあったかも知れませんね。
2018/07/22 07:44:32
谷町筋より西に坂を下った所の専修院前に地蔵坂の標石が立つ。
10年ほど前まではいい家並の染物屋があったが今は駐車場になっている。
2018/07/22 07:53:29
心眼寺は、大阪城出丸城跡に真田幸村父子の冥福を祈って白牟上人が創建されました。付近はその後、真田山と呼ばれています。
空堀辺りの低地からゆるゆるとカーブして上がる、寺が多いので優雅な感じのする堂々とした坂でした。
2018/07/22 07:56:00
かつてこの場所には騎兵第四聯隊があったが昭和7年に堺市金岡へ移転、跡地に真田山公園が整備されました。
昭和8年の地図にはこの坂(路)の記載が在るとのことです。
2018/07/22 07:57:40
太古外国の要人を迎えるための鴻臚館があったとされる、何時のころからか三韓坂と呼ばれるようになったとの事ですが、今・三韓坂と云っても知らない人の方が多いでしょうね。
太古 高津辺りに着いた船から外国の要人を連れてこの辺りを進んだのかも知れませんね。
2018/07/22 08:01:46
神功皇后の近臣・雷大臣の子であり、大小橋命の産湯を汲んだのがはじまりと伝えられている。
休日の午前中、今では住宅地とオフィス街となっている小橋町、かつては桃畑が広がり味原池があり、町人の行楽地でもあり春には人々で賑わったであろうこの辺りも、今ではすっかり静かな町になっていました、大通りから一つ通りを上がっただけで喧騒が嘘のように静まる。
2018/07/22 08:03:43
このあたりは昔、古い病院が林立していました、今では立替と周辺の再開発が進み、かつての何処となく寂しげな雰囲気はありません。
2018/07/22 08:12:27
明治の廃仏毀釈まで生国玉神社周辺に十坊があった、内北側にあった六坊はすべて真言宗であった事から、この坂を「真言坂」と呼ばれたそうです。今ではこの近辺はホテル街で喧騒としていますが、この坂と境内だけは別世界のように落ち着いた風情を醸しています。
2018/07/22 08:16:10
坂の口に源聖寺があり坂名の因みになった、石畳がひかれ風格のある坂です。
坂は途中から急激に勾配をあげて階段となっています、寺の白壁と石畳が調和していい感じの散歩路です。ここを曲がると何があるのだろう?と思えてしまう良い塩梅のカーブを描いて階段を上がります。
2018/07/22 08:18:52
松屋町筋から谷町筋へ連絡する坂、寺町1丁目と2丁目の境を東へ上がる、昭和12年都市計画道路として新設された道との事ですが、今では学園坂と云う名が定着しています。
坂は松屋町筋から大阪夕陽丘学園の南側をカーブしながらゆったりと登る。
2018/07/22 08:20:42
織田作之助の(木の都)に登場した坂、坂上には織田作之助の文学碑がある、風情の坂で都会の喧騒から離れ静かな時間が流れる不思議な空間でした。
いい塩梅の階段と石垣が絵になる風景を楽しませてくれます。この辺りから眺める夕日はこんにちでも美しいのですが、海が迫っていた中世以前はさぞかし美しい夕日が沈んだ事でしょうね。。
2018/07/22 08:22:42
愛染堂は本尊が愛染明王のため名付けられた、この坂は愛染堂へと至る。クラブ活動の青年達がこの坂を利用して厳しい練習をいていました。
2018/07/22 08:24:45
大阪星光学院のある辺りに、料亭浮瀬(うかせむ)がありました。 芭蕉や蕪村・貞柳ら多くの文人墨客が訪れ、句会を開いたりしました。浮瀬とは鮑の貝の穴をふさいで作られた酒盃で七合半の酒が入ったと云われています。その料亭浮瀬があった辺りに清水坂があります。
2018/07/22 08:26:09
伶人町と逢阪一丁目との境界をなす坂です。安居神社へ通じる坂道なので天神坂と呼ばれています。安居神社には、少彦名命・菅原道真をまつっています。
この辺りは上町台地の崖下にあたり、水が湧き出す地点でした、天神坂付近では多くの湧水地がありました。現在では枯れてしまった所もありますが、ここ天神坂ではかつての湧水を再現しています。
2018/07/22 08:30:12
この坂道は古く茶臼山古墳と周辺の道として古くからあったらしい、この古墳には「大阪冬の陣」の際に徳川家康が本陣を置いたが、真田幸村の猛攻にあい 危うく との場面もあったとか?
いまは、一心寺と古墳を区切る道となっている。
2018/07/22 08:31:49
天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から四天王寺西門に至る坂道である。逢坂は、逢坂の関になぞらえて呼んだものと、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」に近いことにより合坂と名付けられたなどの諸説がある。その昔はかなりの急坂で通行が困難であったが、明治9年(1876年)茶臼山観音寺の住職静明が、人々の難渋を救おうと立ち上がり、坂道を切り下げ幅を広げた。大正時代に市電の開通により現代のように整備され、七坂の一つに数えられる面影がなくなった。
大阪市のホームページより転記。
2018/07/22 08:33:37
四天王寺西門前を南下する道、参考文献によると四天王寺開山以前より存在する道ではないか?との記載もある、熊野古道の一部であり、いにしえより、上町台地を南北に貫くもっとも古い道で在った可能性がある。
2018/07/22 08:37:47
角川地名辞典によると、「あさひ通り」とは上町台地崖下に下る谷町の旧村道の通称で在った。との事。
かつては繁華街が賑わっていましたが、新旧j交代の様相で、古い商店街は新しい物に建て替えされています。
再開発されて綺麗になっていました、かつてあったアンモニア臭と食べ物の混じったような猥雑で魅力的な町は今は無い。
2018/07/22 08:50:13
かつてこの辺りには円墳がありましたが、古墳の表土が鋳物に適するとの事で、大正12年に英国海軍工廠が大量に購入したが為に消失したと云う。
2018/07/22 08:56:34
通称「天下茶屋の聖天さん、天慶2年(939年)光道和尚により開基。、「聖天山」は山号ではなく標高14mの低山の名前で、山頂は正圓寺境内にある。正圓寺にいたる坂道はゆったりと勾配を稼ぐ坂道です。
2018/07/22 08:59:41
昭和十四年建立の石碑がある。
かつては細い地道でそばに小川が流れ、西側は田んぼや畑が広がっていた。
2018/07/22 09:00:58
東京の大田区にも同名の坂があるそうですね、相生坂の坂の上り口には昭和11年製の板碑があった、大阪市内ではこの坂のように曲がりこんで上がる坂は珍しいのではないかと思う。
住宅地の中を曲がりながらぐるりと高度を稼ぐ。ブロック塀に蔦の緑が美しかった。
2018/07/22 09:03:31
住宅地を登る坂、阿倍野神社はちょうど小山の頂点の位地に鎮座していて、付近の坂道はこの頂点を目指して上っている。
2018/07/22 09:04:30
阿倍野神社に向かい東側から上る参道、まっすぐに上る堂々たる坂道でした。
2018/07/22 09:07:31
宅地の中を回り込みながら西に上る坂道、このカーブの向こうに何があるのかな?と興味を駆り立てる坂でした。
2018/07/22 09:09:46
阿倍野神社正面参道へ至る坂、入り口に標石があった。
2018/07/22 09:20:19
この場所はかつては住吉神社の境内で在ったもを明治期に道路に作り変えた旨を住吉地誌で読んだ記憶があります。
坂は紀州街道へ向けてゆったりと下ります。
このあたりは上町台地ないで最古の場所と言える、古い街道が交錯する地点でもある。