左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2018/12/24 08:11:25 | 終了日時 | 2018/12/24 12:55:17 |
水平距離 | 60.98km | 沿面距離 | 61.01km |
経過時間 | 4時間43分52秒 | 移動時間 | 4時間02分06秒 |
全体平均速度 | 12.90km/h | 移動平均速度 | 15.03km/h |
最高速度 | 34.56km/h | 昇降量合計 | 596m |
総上昇量 | 290m | 総下降量 | 306m |
最高高度 | 97m | 最低高度 | 13m |
2018/12/24 08:21:07
まずは 紀州街道からスタート。
此処安立町の安立商店街の南口には、新しい道標が設えてある。
2018/12/24 08:22:50
安立町は戦災を免れた古い町で今でも古い家並が残る。
2018/12/24 08:24:24
この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。
この付近は街道の面影をよく残しており、新しく街道名の入った道しるべが建てられるなど、歴史の顕彰が行われている。
住之江区HP転記
2018/12/24 08:28:53
2018/12/24 08:29:58
住吉大社には大小620余りの石灯篭があり、特に海側(境内の西側)には他の神社には見られない巨大な石灯籠群がある。石燈籠の竿や台座の部分に刻まれた銘文には、北は松前(北海道)から南は薩摩(鹿児島県)まで、全国各地の廻船問屋やさまざまな業種の仲間たちが共同で石燈籠を寄進したことが刻まれています。
画像は表参道脇にあるざこば魚問屋中常夜燈燈籠。
2018/12/24 08:30:35
住吉大社の象徴として名高い反橋(太鼓橋)は慶長年間に淀君が奉納したものであると云われています。昔はこの橋の近くまで大阪湾の入り江が広がっており、入り江の対岸と本殿とを結ぶ橋として架けられたとされ、反橋(太鼓橋)の下の池は入り江だった当時の名残と云われています。
なお反橋(太鼓橋)最大の特徴である「反り」は地上と天上の神の国とをつなぐ掛け橋として虹にたとえた為で、反橋を渡るのは神さまに近づくのに罪や穢 (けが) れを祓 (はら) い清める意味があるとされています。
2018/12/24 08:35:38
表筒男命(うわつつのおのみこと)が祭られています。
2018/12/24 08:38:12
中筒男命(なかつつのおのみこと)が祭られています。
「住吉造」と称される本殿は、神社建築史上最古の様式の一つで四本宮すべての本殿が国宝に指定されています。
青い空に檜皮葺の屋根と朱の茜が美しい。
2018/12/24 08:42:11
参道脇にあるクスには蔦が絡んでいた。
蔦の緑が冬空に映えて美しい。
2018/12/24 08:46:28
かつて住吉大社があった場所には住吉津
(すみのえのつ、細江川の河口付近にあった古代の港で、外交使節の発着港として重要な位置を占めていました)
から奈良へと向かう古代の国際街道でした。この道は磯歯津路と呼ばれていて雄略天皇の時代(5世紀後半頃)にあったとされる古代の道です。
また画像左右を横切る道は熊野街道で、手前・奥の道がこの磯歯津路にあたる。
1500年前からある最古の道と1000年以上の歴史のある街道が交差する地点であり、日本最古の交差点かな?
2018/12/24 08:48:48
平安時代の901年に住吉大社の神主、津守氏の氏子として創建され、小学校一帯が跡地です。本尊の薬師如来は住吉浦から出現した、霊像と言われています。明治初期の神仏分離で廃寺にされましたが、白鳳時代の瓦が出土しています。
2018/12/24 09:01:19
熊野街道沿いには、かつて熊野本宮に至るまでに熊野権現の御子神である王子が九十九箇所有ったそうです。今ではほとんど痕跡をとどめておらず、この境王寺跡も文献・その他で比定された事が説明されていました。
2018/12/24 09:04:10
崇神天皇の御代、国内に疫病流行し、同床共殿に祀られていた天照大神を笠縫邑、倭大国魂神と大物主神を祀ったと言う。この時、物部大母呂隅足尼(物部氏八世の孫)を遣わして、この地に素盞嗚尊を祀ったと言う。
また神功皇后の帰還時、住吉の大神の御託宣によって神武天皇が丹生川上神をお祀りの故事にならって、此地において天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げたと伝わる。
この地を堺の三国と呼ぶのは、摂津国住吉郡、河内国丹治比郡、和泉国大鳥郡の境界であるため。
この神社の前を長尾街道が通過する。
2018/12/24 09:13:59
長尾街道沿いにあるレトロチックな医院。
2018/12/24 09:19:51
長尾街道にある 金鳳別珍株式会社 古い家並の前に現在の道標がある。
2018/12/24 09:47:04
元禄十四年の道標
大変古く貴重な道標ここより200m西にあった道標を移築したとのこと。
「右ハ ふじい寺 かうや よしの はせミち」「左ハ なら かふり山ミち」と刻む
2018/12/24 09:53:41
全長150mの前方後円墳。後円部径96m・高さ15.3m、前方部幅100m・高さ9.3m、3段築成で葺石・埴輪を備える。くびれ部東側には造出しが付くほか、墳丘の周囲には周濠や堤の跡が残存する。内部構造や副葬品については不明だが、竪穴系の埋葬施設が存在すると思われる。出土遺物に円筒埴輪や家、盾、蓋形埴輪などがあり、5世紀前半の築造と推定されている。
国指定史跡、1956(昭和31)年指定。
国指定史跡(古市古墳群)、2001(平成13)年指定。
2018/12/24 09:59:02
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は大阪府羽曳野市誉田にある神社で、主祭神は応神天皇です。すぐ北隣には仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の規模を誇る巨大古墳で、当社の主祭神である応神天皇の陵墓とされる応神天皇陵(誉田御廟山古墳)があります。
2018/12/24 10:22:06
竹ノ内街道には神南辺大道心(隆光)、発起の道標がある。
神辺大道心は、もと燗鍋作りの鋳物師で生来の放蕩者でしたが、息子に諌められて改心し仏門に入った。以後諸国を行脚しながら橋を架け道標を起てるなどの世のために尽くしたと云う、1830年頃までは 神南辺隆光 の名で建てた物が多くそれ以後は、神南辺大道心銘 が多いそうです。
近畿一円に彼が勧進した道標が多く存在する。
2018/12/24 10:29:48
推古天皇が聖徳太子の墓を守護するために建立された寺です。戦国時代には、織田信長の兵火で焼失しましたが、江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に伽藍の復興が図られました。毎年4月11日、12日の大乗会式には「太子まいり」として多くの人でにぎわいます。
2018/12/24 10:31:19
推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られました。太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室です。太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれています。
2018/12/24 10:32:48
叡福寺多宝塔(重要文化財、江戸時代初期 承応元年 1652年)
2018/12/24 10:33:58
重要文化財となる聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊としています。小屋裏に残されていた棟札から、享保17年(1732)に再建されたことが明確で、この棟札と共に大阪府指定文化財となっています。
2018/12/24 11:08:45
竹ノ内街道は近世は伊勢への道として多くの人に利用された。
街道脇には多くの伊勢灯籠は献納されている。
2018/12/24 11:22:58
竹ノ内街道 中高野街道 の交差部にあたる。
此処には古い道標がある。
2018/12/24 11:58:52
御祭神である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は西征して熊襲(くまそ:現代の九州南部で大和王権に抵抗した勢力)を平定し、東征して東国を平定したのですが、伊吹山で病に冒されました。
そして、大和を目指し帰途についたのですが伊勢国能褒野(のぼの:三重県亀山市)で薨去されたのです。
亡骸はその地に葬られたのですが、その陵墓から魂が白鳥となって飛びたち最初に舞い降りた地が大和国琴引原(現:琴引原白鳥陵)です。
再び飛び立った白鳥は河内国古市に降りました。(現:古市白鳥陵古墳)そしてまた飛び立った白鳥が最後に留まったのが大鳥の地で、社を建ててお祀りしたのが当社の起こりです。
当社にある千種森(ちぐさのもり)は、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。 鳳神社HP転記
そしてまた飛び立った白鳥が最後に留まったのが大鳥の地で、社を建ててお祀りしたのが当社の起こりです。
当社にある千種森(ちぐさのもり)は、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。
2018/12/24 12:02:50
本殿は大鳥造と言い、神社建築史上一種の様式を保っており、構造は出雲の大社造に酷似して、切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ形式を今日に伝えています。