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開始日時 | 2019/01/13 07:02:26 | 終了日時 | 2019/01/13 11:49:15 |
水平距離 | 65.11km | 沿面距離 | 65.13km |
経過時間 | 4時間46分49秒 | 移動時間 | 3時間54分44秒 |
全体平均速度 | 13.62km/h | 移動平均速度 | 16.55km/h |
最高速度 | 40.70km/h | 昇降量合計 | 502m |
総上昇量 | 252m | 総下降量 | 250m |
最高高度 | 125m | 最低高度 | 5m |
2019/01/13 07:04:54
和泉名所図会にはこの大和橋は載っておりませんが、とりあえず。
住吉大社の祭典で、大阪三大夏祭りの一つとしても知られます。海の日に 海水により神輿をお清めする「神輿洗い神事」が行われ7月30日31日に「宵宮祭」と大阪府指定民俗文化財である「夏越祓神事・例大祭」が行われます。同じく7月31日に堺の大浜公園で行われている大魚夜市の原型となった魚市は、住吉祭の日に開かれ、堺にお渡り(渡御)してくる住吉の神に魚を奉納する特別な市だったようです。
そして8月1日には住吉大神の神霊をお遷しした神輿が担ぎ手達の手により行列とともに御旅所である堺の宿院頓宮まで巡行します(神輿渡御)。この神輿渡御のことを「お渡り」と呼んでいるのです。
大和川の橋の上にはすでに神輿を前後に大勢の人が列をなし、お囃子と花火の音で賑わっていました。
この祭りは現在でも続いている。
2019/01/13 07:22:46
中世に海外貿易港として発展した堺港は大和川の付け替えで衰退、江戸商人吉川俵右衛門などが築港・修理したのが堺旧港の原型。
名所図会ではその浚渫後の賑わいが表現されている。
堺港は幕末天誅組が来たり、堺事件の際のフランス兵が上陸したり、何かと騒がしい騒動に巻き込まれていった。
2019/01/13 07:24:45
2019/01/13 07:45:28
浜寺の地は、古くから「高石の浜」の呼ばれて和歌や俳句の名所であったが、今は公園となって白砂青松の勝地として広く知られている。
その浜寺の地名の起こりは、この地に臨済宗の大雄寺が出来たことに始まる。
それは、今から六百四十七年前にさかのぼる。
2019/01/13 07:53:06
鎌倉時代から南北朝時代に生きた臨済宗の僧、孤峰覚明に後醍醐天皇が深く帰依し、覚明から戒法をうけました。この時、三光国師の号と法衣をたまわりました。後に後醍醐天皇は三光国師に命じて、大雄寺を建てられました。この大雄寺を吉野の山の寺に対して「浜の寺」と呼びました。これから、この付近を浜寺と呼ぶようになったということです。
2019/01/13 08:27:15
天正年間(1573~86)、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ、落城寸前でした。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救いました。その数日後、城の堀から矢傷・玉傷を無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められました。文禄年間(1592~96)からは、天性寺内にある日本一大きな地蔵堂に移され、今に至っています。
境内には一切蛸を食べずに願をかける、風変わりな蛸絵馬が無数に奉納されています。また、参道入口左側の石標「たこちそう」の字は、江戸時代の書の大家・池大雅の書であると伝えられています。
2019/01/13 08:34:10
貝塚寺内の中心的寺院で「ぼっかんさん」の通称で親しまれています。浄土真宗本願寺派で本尊は木造阿弥陀如来立像で、16世紀後半に卜半斎了珍を迎え草庵だった寺を再建しました。織田信長との戦いで破壊されたものの、徳川家康より許可を得て明治初年まで、卜半家が「地頭」として貝塚寺内を支配していました。境内に立ち並ぶ建造物の内、本堂や太鼓堂表門は国の重要文化財に指定されており、他にも貴重な建造物や美術品が多く、大阪府や貝塚市の指定文化財となっています。
2019/01/13 08:59:26
天平16年(744年)聖武天皇の勅願により行基が開基したと伝えられています。最盛期には七堂と僧坊百三十余を有する大伽藍を誇りました。天正13年(1585年)豊臣秀吉の兵火で焼失し、現在の本堂は文化8年(1811年)に再建されたものです。本尊は「厄除の観音様」として信仰が厚いです。伝統行事の「千本餅つき」は、ご本尊の観音出現を祝い、行基が先導された十六童子と共に木の棒で歌に合わせて餅をつき、ご本尊にお供えしたのが始まりで、以来現在まで伝えられています。
2019/01/13 09:42:28
僧行基が天平10年(738年)に開基しましたが、永禄年間(1558~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失しました。現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものです。久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財として、指定されています。4月21日は久米田寺の縁日で、近隣の住民は「21日のおだいっさん」と親しみ、また、春は桜の名所として有名です。
2019/01/13 10:01:32
創建は不詳。社伝によれば、200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったという。本殿脇にあるこの霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、和泉国の国名の起源とされる[1]。
のちに、当社を中心に和泉国の国府が置かれ、国内の大鳥大社(一宮)、泉穴師神社(二宮)、聖神社(三宮)、積川神社(四宮)、日根神社(五宮)の祭神を勧請した総社が築かれた[1]。
中世に入ると、当社と五社総社の区別が次第に希薄になり、同一視されるようになった。また、八幡信仰が盛んになり放生会も行われるようになったという。豊臣秀吉は大坂城在城の折には和泉清水を茶の湯に用いていたと言われ、子の秀頼によって1605年(慶長10年)に再建された五社総社本殿は重要文化財に指定されている[2]。この際、当社はついに五社総社の摂社扱いとなるに至ったが、1899年(明治32年)に当初の鎮座地に戻った。
2019/01/13 10:18:44
天武白鳳元年(672年)の創建と伝えられています。本殿、摂社住吉神社本殿、春日神社本殿は重要文化財に指定されています。なかでも、住吉神社本殿は文永10年(1273年)の建立で、府内最古の神社本殿と言われています。本殿および春日神社本殿は、慶長7年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として改築を行ったものです。拝殿も慶長ごろの建立で、その前に建つ二基の石鳥居とともに、市の指定有形文化財です。
神社境内は多くの樹木でおおわれていますが、高さ20~33mに達するクスノキ12本は、市指定天然記念物です。これらのクスノキ大木群を含む神社の景観は、江戸時代と大きく変わらず、往時の姿を色濃くとどめています
2019/01/13 10:51:01
和泉の国一の宮
境内は1万5千坪あり鬱蒼とした森の中には、出雲大社の大社造の次に古いと言われる大鳥造の社殿があり、拝殿前には珍しい八角形の柱の鳥居があり、本殿東側には樹齢800年は超える根上がりの楠が構えています。
4月の第三土曜に行われる「花摘祭」は、花の季節に色を添える古式ゆかしい行事の一つで、平安時代に起源のある厄病・災厄除けを祈願して始まった祭が現在に受け継がれています。また10月には鳳だんじり祭が行われます。
2019/01/13 10:51:47
2019/01/13 11:10:08
クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ全長約486mの日本最大の前方後円墳。百舌鳥耳原三陵の一つで、墳丘は3段に築成され三重の濠がめぐり10基以上の陪塚があります。
2019/01/13 11:18:04
1557年三好長慶が父の菩提を弔うため大林宗套を開山に建立。夏の陣で焼失後沢庵宗彭らが再建、国の名勝枯山水の庭、重要文化財仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休好みの茶室実相庵などがあります。
2019/01/13 11:22:06
「和泉名所図会」には、「旭蓮社」の「舳松(へのまつ)神廟」について次のように書かれています。「当寺の鎮守也。神功皇后異國より帰朝の御時、軍舩九艘の舳頭(へさき)向ふ所を、九艘小路といひ、寺の北門前町をいふ、又、九本の松に繋ぎしより、九本松町、あるひは舳松とも呼ぶ。後世、ここに社を営て、九本松明神と崇め奉る也。」
2019/01/13 11:28:49
住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内西側にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。
明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。
2019/01/13 11:32:01
千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹?に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
2019/01/13 11:41:48
榎並屋勘左衛門家は江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。
この両家に分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(のちに二鍛冶が脱落して三鍛冶)が平鍛冶と呼ばれ他の鉄砲鍛冶を統制しました。榎並屋勘左衛門の屋敷は桜之町東1丁で、大道(紀州街道)に面して東にありました。
2019/01/13 11:43:16
江戸時代から続く鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗。町家建築として最古の部類に属し、鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして市の指定有形文化財になっています。