河内名所図会を走る(その1)

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現在の軌跡: 24 02 2019 07:03

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/02/24 07:03:37終了日時2019/02/24 11:42:27
水平距離63.57km沿面距離63.60km
経過時間4時間38分50秒移動時間3時間48分14秒
全体平均速度13.69km/h移動平均速度16.63km/h
最高速度41.83km/h昇降量合計573m
総上昇量319m総下降量254m
最高高度88m最低高度-64m

レポート概要

江戸時代も後半になると庶民の生活にもゆとりが出来たのか、現在の観光案内にも似た 名所図会 と云う地誌が多く発行された。

ウィキペディア(Wikipedia)の記述によると、

名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
名所図会に先立つ類似物として名所記と呼ばれる刊行物があるが、名所記が文芸的・物語的な叙述に特徴があるのに対し、名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴がある。名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている。

と説明れている。
江戸期は人の移動を非常嫌う面があり(徳川幕府の特徴と云うか、当時の国の成り立ちが藩の連合としての幕府であり藩内の自治権や警察権までには幕府の権力は及ばなかった)移動についても非常にややこしい手続きが必要でありましたし、物見雄山的には旅が出来ませんでした。
武士階級においては公用や剣術修行など・他の階級においては中々に簡単には旅には出られない仕組みが作られておりました。
(当時の旅は原則公僕の許可制で手形が無いと旅はできなかった)

そんな中で寺社巡りや巡礼(西国33・四国88・坂東33・善光寺・その他の巡礼)だけは例外的に簡単に許可が下りたので各階級の中で経済的に余裕のある人々は(商家の隠居・高禄の武士階級)旅に出た様子です。

旅に出る前は  名所図会 を取り寄せて旅の計画を練って楽しんだことでしょう。

そんな 河内名所図会 を走ってみた。

写真レポート

堺 材木町の大型道標

2019/02/24 07:13:29

堺 材木町の大型道標

「堺」の地名は旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の「境(さかい)」に発展したまちであることから付いたといわれています。

材木町の町名は戦国期からある町名で、材木商の集住地であったことに由来。



方違神社

2019/02/24 07:18:33

方違神社

河内、和泉、摂津の三国の境にあり、方位のない清地とされ、方除祈願で知られています。古くから遠方へ出かける時その方向がよくない場合に、一度別方向に向かってから出かける風習がありました。方違神社はそのような時にお参りする全国でも珍しい神社で、遠くへ旅する時や家を移る時などに、ここに参れば災難に会わないという言い伝えがあり、新築や転居等の方災除けで各地からたくさんの人々が参詣に来ます。清めの御砂、方災除の粽(チマキ)は大変御利益があるそうで、5月31日のちまき祭は故事にならい、菰(こも)の葉で包んだ粽が氏子に分けられます。「ほうちがい」さんと呼ばれて親しまれています。



 多聞院龍昌と更池村惣井戸

2019/02/24 07:36:05

多聞院龍昌と更池村惣井戸

長尾街道が西除川を渡る布忍橋西詰(南新町1丁目)に石組の井戸が保存されています。もともとは、東側の河川敷にありましたが、西除川の改修で今の新町図書館前に移されたものです。正面に「更池村惣井戸 寛政八丙辰年十二月」とあり、内面には「多聞院龍昌建立之」と刻んでいます。
更池村の多聞院の龍昌が江戸時代後期の寛政8年(1796)、村人の共同井戸としてつくったことがわかります。井戸は、堺と大和を結ぶ長尾街道沿いに設けられましたので、往来する人々や荷車をひく牛馬の口も潤したかもしれません。



阿保茶屋跡

2019/02/24 07:45:26

阿保茶屋跡

河内松原駅から北へ、にぎやかな通りを少し行くと、東西を走る道と交差します。南北の道は、平安時代以降、高野山(和歌山県)方面に向かい、中高野街道とよばれています。一方、東西の道は七世紀ごろには敷設されていたらしく、近代以降、長尾街道の名が定着してきました。

この四つ辻は、古代以降の重要な街道が交差する要衝の地で、江戸時代、長尾街道の南は丹北郡松原村上田で、北側は阿保村でした。もっとも、上田の本村は今の河内松原駅の南側で、阿保村の集落も阿保神社周辺にかたまっていました。

このため、江戸時代の絵図には、交差点の南側は「上田出郷」、北側は「阿保村出在家」とか「阿保茶屋」と記されているものもあります。四つ辻は、両村の出入り口ですが、商いや参詣人の往来が盛んでしたので、休憩する人々のために茶屋などが並んでいたようです。ですから、交差点付近は阿保茶屋とよばれ、集落は阿保茶屋村とも称されることもありました。阿保茶屋の読みは、阿保は「あお」ですが、「あおちゃや」ではなく、「あおんちゃや」と「ん」を入れて読むことに注意して下さい。



雄略天皇陵

2019/02/24 07:55:20

雄略天皇陵

この雄略陵は高鷲丸山古墳という円墳と池を隔てた東にある平塚古墳をセットにして作られたものなのです。2つの古墳を大改造したのは幕命による文久の修復のときです。江戸時代の文久年間に上野(群馬県)の館林藩が2,386両をかけて2つの古墳をくっつけたためにこのように変な形の前方後円墳もどきになってしまったのです。明治になってこれを宮内庁は雄略天皇陵と指定しました。



辛国神社

2019/02/24 08:03:44

辛国神社

延喜式にも記載のある古い歴史を持つ式内社で、物部の祖を祀ったことに始まります。室町時代には春日の神を合祀し、春日丘にその名を残しています。 その後、明治時代になって長野神社を合祀しました。深い緑に囲まれた長い参道は「大阪みどりの百選」に選ばれています。(藤井寺市観光協会HPより)




葛井寺

2019/02/24 08:05:24

葛井寺

葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの参詣者が訪れます。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、1043本もの手を持つ珍しい仏像です。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっています。春には境内の藤棚に藤の花が咲き誇ります。(藤井寺市観光協会HPより)



応神天皇陵

2019/02/24 08:13:57

応神天皇陵

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425メートル、後円部直径250メートル、高さ35メートル、前方部幅300メートル、高さ36メートルを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立法メートルにものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に石が 葺(ふ)かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。



誉田八幡宮

2019/02/24 08:20:53

誉田八幡宮

571 年、欽明天皇の勅命で応神陵の前に設けられた日本最古といわれる八幡宮。現在の本殿、拝殿は、慶長11年(1606年)に再建されたもの。拝観庫には、源頼朝の寄進「塵地螺鈿金銅神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」など国宝・重要文化財が数多く収められている。9月15日の秋祭りは必見。神輿が応神陵に渡御する「お渡り」の儀式が行われる。



西淋寺

2019/02/24 08:25:22

西淋寺

西琳寺は、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文氏(かわちのふみ)により創建されたとみられる[2]。創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。創建時の伽藍は、塔を東、金堂を西に配する法起寺式伽藍配置とみられる[3]。境内からは創建時の建物の屋根を飾っていた鴟尾(しび)が出土している[2]。



河内名所図会 角屋

2019/02/24 08:48:28

河内名所図会 角屋

竹ノ内街道沿いのここに角屋という由緒ある旅籠があり門前に甚五郎作の馬像があり、ずいぶんと流行っていたそうだ、近くにある掲示板には河内名所絵図に記載がある旨の記述がある。



叡福寺 聖徳太子廟

2019/02/24 08:54:42

叡福寺 聖徳太子廟

叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り、聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定されている。明治12年(1889年)、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。



叡福寺 塔

2019/02/24 08:56:22

叡福寺 塔

現存のものは、江戸時代の承応元年(1652)に江戸の豪商三谷三九郎によって再建された。昭和52年、国の重要文化財に指定される。



叡福寺 金堂

2019/02/24 08:56:52

叡福寺 金堂

現在の金堂は、小屋裏で発見された棟札に享保17年(1732)の日付があることから、この頃再建されたと考えられている。



西方院

2019/02/24 09:03:13

西方院

聖徳太子の死後に、その乳母であった月益姫、日益姫、玉照姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)の3人が、剃髪して仏門に入り、墓前にお堂を建立して、太子の冥福を祈ったのが寺の始まりと伝えられます。寺の南側の墓地内には、この三尼公の御廟と伝えられる3基の石塔が残されています。本尊は、聖徳太子作と伝える阿弥陀如来と恵心僧都作と伝える十一面観音菩薩像。



通法寺跡

2019/02/24 09:10:32

通法寺跡

石川の東方に広がる丘陵地の谷部に立地します。『通法寺興廃記(つうほうじこうはいき)』には長久(ちょうきゅう)4年(1043)源頼義が仁海谷で千手観音像をみつけ、館の南に精舎を建立し通法寺と号したのがはじまりと伝えられています。その後永徳年間(1381から84)には堂が雨露のため朽ち、かなり興廃したようです。江戸時代になって元禄13年(1700)、徳川綱吉が諸堂宇を再建しました。しかし再建された通法寺も明治6年(1873)になって、門、鐘楼(しょうろう)以外は取り壊されました。



通法寺跡

2019/02/24 09:11:10

通法寺跡

寺跡は山の谷と称せられる谷状地の入口に位し、低い丘陵の南麓にあって、前面には御廟谷の丘陵がある。旧寺域中いまのこるところは、その西半の主要部であって、山門、鐘楼の建物及び南面する本堂の礎石等が遺存し、西端部の観音堂は頼義の墓所といわれているところであるが、いま堂宇は撤去され、墓碑が立てられている。御廟谷の丘陵上には頼信と義家の墓がある。いずれも饅頭状に高く土盛され、頂部には石柵をめぐらしている。



源頼義の墓

2019/02/24 09:11:45

源頼義の墓

源頼義は、河内源氏初代とされる頼信の長男で河内源氏の2代目棟梁。平忠常の乱で父に従って戦功をあげ、前九年の役では鎮守府将軍として安倍氏を討ち、東国における源氏の勢力を強めました。死後は遺言により通法寺の観音堂の下に葬られたと伝えられています。今は石垣に囲まれた基壇(きだん)が残っていますが、江戸時代に書かれた「河内名所図会(かわちめいしょずえ)」には堂が描かれているので、かつては墓堂が建っていたことがわかっています。



壺井八幡宮

2019/02/24 09:17:29

壺井八幡宮

羽曳野市の南端にある壺井八幡宮は、後に鎌倉幕府を興した源頼朝の祖「河内源氏」の氏神です。康平7年(1064)、源頼義(河内源氏初代・源頼信の子)が前9年の役に出陣する際、戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮の神霊を勧請して、壺井にある私邸の東側に祀ったのが始まりとされています。八幡宮には、頼義の子・八幡太郎義家が愛用したとされる鎧「黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる/国の重要文化財)」や「天光丸の太刀(てんこうまるのたち)」が伝わります。境内には、樹齢1000年とも言われる楠木が悠然と枝を伸ばしています。また八幡宮の西側には、天仁2年(1109)に、義家の六男・源義時(よしとき)が、頼信、頼義、義家の霊を祀ったとされる壺井神社があります。壺井そして300mほど離れた通法寺付近は、このあたりが河内源氏の本拠地であったことを窺い知ることができる場所です。



大黒寺

2019/02/24 09:27:12

大黒寺

羽曳野市の、地名も大黒(おぐろ)というところにある曹洞宗の寺。千三百五十年前、役行者が金剛山で修行中に大黒天が出現し、そのおつげにより、桜の木で大黒天を作り、小堂に安置したのが寺の始まりといわれています。

修験道場の寺であったのが、空海によって真言宗となり、その後、大乗寺二九代・密山道顕大和尚により禅宗の寺となりました。以来今日まで、河内西国巡拝はもとより、縁起のいい日本最古の大黒さまの寺として親しまれています。




道明寺

2019/02/24 09:43:19

道明寺

道明寺は7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺を起源とした尼寺です。土師氏の後裔である菅原道真公が、太宰府下向に際して伯母の覚寿尼を訪れたゆかりの地です。 建立当初は現在の道明寺天満宮の南側参道付近に位置し、現在も塔心礎が残っています。 その後、戦国時代の戦火や江戸時代の石川の洪水による荒廃が原因で道明寺天満宮の境内地に移り、さらに明治時代の神仏分離令に よって現在地に移されました。 国宝である本尊の十一面観音立像は毎月18日と25日に拝観することができます。関西風桜餅(道明寺餅)など和菓子の材料として知られる「道明寺糒」「道明寺粉」発祥の寺としても有名です



道明寺天満宮

2019/02/24 09:48:20

道明寺天満宮

道明寺天満宮は、土師氏の氏神として成立し、のちに土師氏の子孫でつながりの深い菅原道真を祭神に加え天満宮となりました。学問の神様として信仰を集めています。 宝物館には、菅原道真公の愛用の品と伝わる国宝、伝菅公遺品をはじめとして多くの貴重な文化財が所蔵されています。梅の名所として名高く、毎年2月から3月にかけて多くの参拝者が境内の梅園を訪れます。



大聖勝軍寺

2019/02/24 10:19:24

大聖勝軍寺

聖徳太子が建立、神妙椋樹山大聖勝軍寺といいます。またの名を野中寺・願成就寺、俗に下の太子、むくの木寺、または太子堂と呼ばれています。

敏達天皇の時、大臣蘇我馬子をはじめ仏教を信ずる者が多い中、物部守屋は蘇我氏との勢力争いもあり、強くこれに反対しました。

守屋は阿都(八尾)に本宅を構え、矢作部、弓削部など弓矢を製造する職人を配下にもち、軍備を増強する一方、物部八十氏といわれ、その勢力を誇っていました。(矢作りの生命は「矢の尾」にあり「矢尾」を「八尾」と呼ぶようになります。)
河内西国霊場会HP転記



物部守屋墓

2019/02/24 10:21:20

物部守屋墓

守屋大連(もりやおおむらじ)を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一本松のある姿が記されています。
明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てました。
玉垣は全国の神社が寄進している。



顕証寺(久宝寺御坊)

2019/02/24 10:31:14

顕証寺(久宝寺御坊)

古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺があった。 文明二年(一四七〇)蓮如上人がここに布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は基盤の目のようになっていた。 このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。 顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】



常光寺

2019/02/24 10:37:15

常光寺

臨済宗南禅寺末で「八尾の地蔵さん」で名高い。行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。南北朝の戦乱で焼失したが又五郎大夫藤原盛継が再興した。足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いた。 大阪(坂)夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実検をし、今でも血天井として残されている。 寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。八月二十三日、二十四日の地蔵盆は名高く、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】



常光寺

2019/02/24 10:38:09

常光寺

常光寺の盆踊りは、600年といわれる長い間中河内地域に定着し、中河内の盆踊りといえば、先ずは「常光寺の地蔵盆踊り・流し節」といわれるほどの人々に親しまれています。 南北朝時代、地蔵堂が荒廃したため室町・至徳年間、足利義満がこのお寺を祈願所として伽藍を再建するときに、材木を運ぶ木遣り唄として唄われたのが今に伝わる「流し音頭」であって、河内最古の音頭として河内音頭の原型とも言われています。 平成8年には、環境庁の「残したい、日本の音風景100選」に選ばれています。【出典:『常光寺』案内書より抜粋】



八尾 腹養丸

2019/02/24 10:41:51

八尾 腹養丸

明治の頃から伝えられている肝臓の薬腹養丸の本舗「佐野龍讃堂」です。

明治二十二年二月廿六日発行の「河内国商工便覧」に、大阪府下河内国若江郡八尾西郷町七十七番地 売薬業腹養丸製造所 佐野 辨七 とあり当時は肝臓の薬として売られ相当繁盛だったらしい。



八尾の天神さん

2019/02/24 10:43:43

八尾の天神さん

慶長年間に片桐且元が創建したといわれている。 中門は寺内町の木戸門を移建したものと伝えられ、また境内には寺内町開発者森本行誓の六代の孫房吉寄進の灯篭がある。近年は恵比須神をまつり、一月八日は例年「八日戎」としてにぎあう。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】