和泉名所絵図を走るその2 (END)

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

現在の軌跡: 24 03 2019 06:46(001)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/03/24 06:46:46終了日時2019/03/24 12:33:21
水平距離81.10km沿面距離81.15km
経過時間5時間46分45秒移動時間4時間48分33秒
全体平均速度14.04km/h移動平均速度16.79km/h
最高速度48.39km/h昇降量合計986m
総上昇量493m総下降量493m
最高高度62m最低高度2m

レポート概要

江戸時代も後半になると庶民の生活にもゆとりが出来たのか、現在の観光案内にも似た 名所図会 と云う地誌が多く発行された。

ウィキペディア(Wikipedia)の記述によると、

名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
名所図会に先立つ類似物として名所記と呼ばれる刊行物があるが、名所記が文芸的・物語的な叙述に特徴があるのに対し、名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴がある。名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている。

と説明れている。
江戸期は人の移動を非常嫌う面があり(徳川幕府の特徴と云うか、当時の国の成り立ちが藩の連合としての幕府であり藩内の自治権や警察権までには幕府の権力は及ばなかった)移動についても非常にややこしい手続きが必要でありましたし、物見雄山的には旅が出来ませんでした。
武士階級においては公用や剣術修行など・他の階級においては中々に簡単には旅には出られない仕組みが作られておりました。
(当時の旅は原則公僕の許可制で手形が無いと旅はできなかった)

そんな中で寺社巡りや巡礼(西国33・四国88・坂東33・善光寺・その他の巡礼)だけは例外的に簡単に許可が下りたので各階級の中で経済的に余裕のある人々は(商家の隠居・高禄の武士階級)旅に出た様子です。

旅に出る前は  名所図会 を取り寄せて旅の計画を練って楽しんだことでしょう。

写真レポート

貝塚のスパー駐車場へデポ

2019/03/24 06:47:48

貝塚のスパー駐車場へデポ



紀州街道と孝子街道の分枝点

2019/03/24 06:54:32

紀州街道と孝子街道の分枝点

紀州街道と孝子街道の分枝点には徳本碑を兼ねた道標がある、徳本碑の道標は非常に珍しいのでは無いかと?ひそかに思っている。



羽倉崎あたりの古い町家。

2019/03/24 07:13:15

羽倉崎あたりの古い町家。

古い街道風情が色濃く残る道。
江戸時代からほとんど変化がない道だろう。



尾崎の本願寺

2019/03/24 07:33:34

尾崎の本願寺

元は善徳寺という草堂(小さな寺)でしたが、慶長3(1598)年、領主・桑山正勝の家臣・石田次郎左衛門が改築し、本願寺に寄進して尾崎御坊となりました。本尊は鎌倉時代作の阿弥陀如来立像です。元禄13(1700)年11月、火災に遭い、現在のものは宝永2(1705)年に再建されたものです。また正門前の石段は、最下段右側の石柱の銘から、文化14(1817)年に作られたことがわかります。



深日の湊 吹飯浦

2019/03/24 08:14:27

深日の湊 吹飯浦

往時、この付近より西、現在の深日港あたりまでの海岸は「吹飯浦」と呼ばれ、万葉時代から歌枕として有名な鶴の名所で景勝地であった。

名所絵図では沖合の漁の様子が描かれている。



深日の古い旅館

2019/03/24 08:19:37

深日の古い旅館

深日は淡路・四国への玄関口として機能してきた。

高速道路網が発達した今日は寂れてしまっているが、駅前には古い旅館があって往時の街の残像を残している。




興善寺

2019/03/24 08:31:28

興善寺

852(仁寿2)年、文徳天皇の勅願により慈覚大師が創建したと伝えられ、唐招提寺さながらの本堂には、国の重要文化財である大日、釈迦、薬師三尊が安置されています。



理智院

2019/03/24 08:33:51

理智院

本尊の追風不動明王は、弘法大師の作と伝えられ秘仏となっています。豊臣秀吉が自らの髭を抜いて木像のあごに植えて寄進したと伝えられる「秀吉肉付けの像」や秀頼8歳のときの「豊国大明神」の書などが所蔵されています。



小島住吉神社

2019/03/24 08:48:10

小島住吉神社

多奈川小島にあるこの神社は、漁業を主とする小島の人々から永く敬われてきた神社です。
同社境内に繁茂する「ウバメガシ」の古木は、地上10メートル回り1~1.5メートルにおよぶものが77株もあります。
このようなウバメガシの群生は非常に珍しく昭和45年2月、大阪府の天然記念物に指定されています。



谷川湊

2019/03/24 09:01:28

谷川湊

深日の隣にある古い湊。

かつては谷川湊の方が船泊であったのだろうか?名所絵図には大きな帆を広げた弁天船が入港している様子が描かれてある。

なぜか谷川湊の表示の横に遊女家有と書かれている。



自然居士の旧跡

2019/03/24 09:55:36

自然居士の旧跡

観阿弥の謡曲「自然居士」で知られる説教師自然居士阪南市自然田字中ノ湯に生家跡がある。

敷地内には小さな祠があり、自然居士が祀られている。横には小さな地蔵さんや芋墓(僧侶の墓)がたくさんあったので、かつては寺があったのだろう。

名所絵図では解説文のみの紹介になっている。



琵琶ヶ岸懸(びわがけ)

2019/03/24 10:07:55

琵琶ヶ岸懸(びわがけ)

昔、琵琶法師が熊野詣を思い立ち、琵琶を背にこの谷まで来たとき、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。法師のなきがらは川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので、人々はこの谷を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられています。
熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。
足元がきわめて危険です。見物される方は十分注意してください。掲示板
紀州街道最大の難所かつての参勤交代でも往生したようだ。



信達王子跡

2019/03/24 10:23:02

信達王子跡

地蔵菩薩 馬頭(ばとう)観音を祀っており、この辺りに熊野詣の九十九王子のひとつ、信達一之瀬王子があったと想定されています。鎌倉時代初期の歌人藤原定家の熊野御幸記によると「天晴るる払暁道にいでて信達一ノ瀬王子に参ず また坂の中において祓う 次いで地蔵堂の王子に参ず 次いでウハ目王子に参ず」とあり、後鳥羽上皇一行がここを出発したときの様子が記されています。



信達本陣跡

2019/03/24 10:32:27

信達本陣跡

参勤交代の折に紀州徳川家が泊まった本陣です。紀州街道は、紀州藩と岸和田藩の参勤交代路として整備され、紀州徳川家の参勤交代は、この角谷(つのや)家本陣で一泊することが習わしとなっていました。

名所絵図には信達御所村として紹介している。



長慶寺

2019/03/24 10:35:17

長慶寺

秀吉の根来攻めの際焼失した海会宮寺で唯一焼け残った観音堂を、慶長年間に豊臣秀頼の命により移築、当時の年号を逆にとり「長慶寺」としたのが始まりと伝えられています。本尊は行基自作の秘仏であり、60年に1度の御開帳となっています。



日根神社

2019/03/24 11:04:00

日根神社

根野・上之郷・長滝地区の総社であり、『延喜式』や国内神名帳にも名が出ていた古社です。主祭神は神武天皇の父・鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)と母・玉依毘売命(たまよりひめのみこと)です。和泉国五社(大鳥・泉穴師・聖・積川・日根)のひとつで、鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり、溜め池や水路がつくられて開発が進み、日根神社は「大井関大明神」の名で呼ばれるようになりましたが、天正4年(1576)、秀吉の根来攻めによって社殿が悉く焼失しました。現在の社殿は、慶長7年(1602)秀頼が再興したものです(府の指定文化財)。

名所図会には大井関大明神」とも書かれ永い馬場も描かれている。



慈眼院

2019/03/24 11:06:25

慈眼院

天武2年(673)、天武天皇の勅願寺として、覚豪阿闍梨によって創建された泉州で最も古い寺です。弘仁6年(834)からの2年間には、宗祖弘法大師により多宝塔、金堂の造営など一山が整備されました。天正13年(1585)には豊臣秀吉の兵火により一山のほとんどが炎上しましたが、慶長7年(1602)に豊臣秀頼が再興しました。境内にある多宝塔は鎌倉時代に建立されたもので、全高10メートル余り、我が国最小の優美な塔として国宝に指定されています。金堂は国指定重要文化財です。



蟻通神社

2019/03/24 11:32:58

蟻通神社

紀貫之ゆかりの神社で、神社の中には紀貫之の像(現在は壊されてしまって設置跡しかない)と石碑が建つ。

昔、紀貫之が紀の国から引き揚げる道中うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んだため、急に馬が倒れてしまうという神罰を受ける。

神の怒りを悟った貫之はとっさに「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをば おもふべしやは」(二重の意味を読み込んだ歌で、曇り空に星を思う(有りと星)というのが表の意味、もう一つは「蟻通」明神とはつゆ知らず、それゆえ怒りを買ったことを謝罪する意味)と詠み、神は心を和らげて馬を復活させたという。



蟻通神社旧社地

2019/03/24 11:38:54

蟻通神社旧社地

昭和16年(1941)開戦とほぼ同時に陸軍明野飛行学校佐野分校の飛行場が建設されることになり、佐野町・長滝村を含む1町3村にわたる280haほどが立ち退きを余儀なくされました。多くの田畑・宅地・ため池が買収され、住人が移転を迫られ、また、当蟻通神社も現在地に移転をすることになりました。

蟻通神社ブログ転記



近木浦

2019/03/24 12:26:57

近木浦

和泉国名所図会 近木浦と書かれる脇濱戎神社
遠浅の静かな波が打ち寄せる脇浜・二色浜海岸一帯は、古来より豊かな漁場と白砂青松の景勝地として知られ、奈良・京都の都に近いことから宮中で食事などを司る「内膳司」と云う役所によって御漁場が置かれていました。平安時代の諸制度を記した「延喜式」に、「和泉国・網曳御厨(あびこのみくりや)」とその名前が記録されています。「延喜式」によりますと、この地から毎月「子の日」と「巳の日」に塩漬けの鯛・鰺・干し魚や魚の内臓で作った調味料など二十石六斗を毎年都の役所へ納入するように決められていました。
名所絵図には近木川の砂洲の上に海に浮かんだような脇濱神社が描かれています。