摂津名所図会を走る(その1 桜満開編)

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プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/04/06 05:58:14終了日時2019/04/06 11:56:30
水平距離65.39km沿面距離65.40km
経過時間5時間58分16秒移動時間5時間30分50秒
全体平均速度10.95km/h移動平均速度11.81km/h
最高速度28.95km/h昇降量合計305m
総上昇量175m総下降量130m
最高高度54m最低高度0m

レポート概要

江戸時代も後半になると庶民の生活にもゆとりが出来たのか、現在の観光案内にも似た 名所図会 と云う地誌が多く発行された。

ウィキペディア(Wikipedia)の記述によると、

名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
名所図会に先立つ類似物として名所記と呼ばれる刊行物があるが、名所記が文芸的・物語的な叙述に特徴があるのに対し、名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴がある。名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている。

と説明れている。
江戸期は人の移動を非常嫌う面があり(徳川幕府の特徴と云うか、当時の国の成り立ちが藩の連合としての幕府であり藩内の自治権や警察権までには幕府の権力は及ばなかった)移動についても非常にややこしい手続きが必要でありましたし、物見雄山的には旅が出来ませんでした。
武士階級においては公用や剣術修行など・他の階級においては中々に簡単には旅には出られない仕組みが作られておりました。
(当時の旅は原則公僕の許可制で手形が無いと旅はできなかった)

そんな中で寺社巡りや巡礼(西国33・四国88・坂東33・善光寺・その他の巡礼)だけは例外的に簡単に許可が下りたので各階級の中で経済的に余裕のある人々は(商家の隠居・高禄の武士階級)旅に出た様子です。

旅に出る前は  名所図会 を取り寄せて旅の計画を練って楽しんだことでしょう。

そんな 摂津所図会 を走ってみた。

写真レポート

大和橋 神輿渡御

2019/04/06 06:08:33

大和橋 神輿渡御

旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓いの祭(神輿渡御)では大和橋が一場の舞台」となり、神遷(うつ)しをした神輿をかついだ数百人が持つ炬火(かがりび)は、西宮をはじめ兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ、この火を目印として巡幸を拝し、これを「住吉の火替」と呼んだといいます。

依羅池跡

2019/04/06 06:25:24

依羅池跡

祟神朝の記録に「依網池を作る」とあります。しかし、仁徳朝説、推古朝説もあり、その起源は不明ですが、日本でも1.2の歴史の長さを誇る最古級の人工池です。
かつては10万坪の大きさの灌漑用池でしたが、江戸時代、大和川の付け替え工事によって、池の2/3が大和川となりました。

大依羅神社の参道

2019/04/06 06:28:31

大依羅神社の参道

大依羅神社(おおよさみ)は、創建は住吉大社とほぼ同じくする。古代この地域を支配していた依羅吾彦(よさみのあびこ)が祖先である建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ:『古事記』によれば、第9代開化天皇の第4皇子としている)を主神として、住吉3神、大己貴命、素盞鳴命、月読命を祭り、依羅氏が代々神主となっていた。
いまは依羅氏は滅んで存在しない。

参道には小ぶりな桜が咲き誇っていた。

吾彦観音寺

2019/04/06 06:34:38

吾彦観音寺

吾彦山大聖観音寺(あびこさんだいしょうかんのんじ)・通称あびこ観音は、日本最古の観世音菩薩の寺院です。その昔、この地に住んでいた依網吾彦(よさみのあびこ)の一族が、百済の聖明王から身の丈一寸八分(約8cm)の観音像を贈られ、欽明天皇7年(546)に寺を創建しました。その後、聖徳太子が観音菩薩のお告げを受け、吾彦山観音寺が建てられたと伝えられています。江戸時代には境内に36の支院があるほど隆盛をきわめましたが、明治14年(1881)の火災で多くの寺宝と共に焼失しました。その後、明治23年(1890)に再建されます。毎年2月3日の「節分厄除大法会」には「聖観音」が開帳され、厄除開運・無病息災・諸願成就を祈る人々で賑わいます。

一休禅師牀菜庵跡

2019/04/06 06:50:09

一休禅師牀菜庵跡

一休和尚(1394~1481)が、晩年仮棲したところである。
 一休は後小松天皇の落胤と伝え、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺など移り住んだ。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。一休は文明10年(1478)には京都田辺酬恩庵へと去った。庵跡は明治初年まで、それらしき門跡や竹やぶが残っていたという。

霰松原

2019/04/06 06:58:06

霰松原

この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。

住吉大社

2019/04/06 07:03:49

住吉大社

「すみよっさん」と呼び、正月三が日の初詣参拝客数は毎年200万人を超えます。全国約2300社余の住吉神社の総本宮であり、摂津国一の宮、旧社格は官幣大社です。古くから「航海安全の神」「祓の神」「農耕の神」「和歌の神」「武の神」「相撲の神」として信仰され、創建は1800年前に遡ります。ご祭神は第一本宮から第四本宮順に、「底筒男命/そこつつのおのみこと」「中筒男命/なかつつのおのみこと」「表筒男命/うわつつのおのみこと」、そして「神功皇后/じんぐうこうごう」です。本殿が4つに別れ、第一本宮~第三本宮までが縦に、第四本宮は第三本宮の横に、あたかも大海原をゆく船団のように建ち並ぶ配置は他にないものです。
太古よりある社で図会では多くの項をさいてその神事を事細かく紹介している。

天下茶屋跡

2019/04/06 07:11:36

天下茶屋跡

太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。
此処から北へ50Mのところにある天下茶屋公園は是斎屋跡である、薬屋是斎屋は寛永年間(1624~44)近江の国の津田宗右衛門が住吉街道に面した当地へ来て「和中散」という薬を商ったのが起こりで、街道の旅人達で大いに繁盛したという。また、茶屋としても有名であった。

名所図会になかでは、武家の妻女が連れ立って歩くさまや、巡礼者の姿が生き生きと描かれている。

阿倍王子神社

2019/04/06 07:20:17

阿倍王子神社

天王寺の南に鎮座し、熊野詣が流行した平安時代に、熊野九十九王子の第四王子社と呼ばれた神社です(順番は時代とともに変化し、現存としては第二王子)。「王子」とは和歌山県の熊野大社の末社という意味で、京都から摂津、和泉を経て熊野に至る街道の途中に、休憩と遥拝のために設けられたお宮の事です。もとは、仁徳天皇の創建と伝えられています。また、天長3年(826)、淳和天皇の勅命で弘法大師が悪疫鎮圧の祈祷を行ったとの記録も残っているところから、同社は厄除け、無病息災、病気平癒などにご利益があると崇敬されています。末社には安倍晴明神社があり、境内には大阪府指定保存樹の楠木5本、榎木(えのき)1本があります。

現存する唯一の熊野王子社

伝北畠顕家墓

2019/04/06 07:23:51

伝北畠顕家墓

北畠顕家は、南北朝時代に後醍醐天皇に父親房と共に仕えた武将です。、もともとここには「大名塚」と呼ばれていた塚があり、それを江戸時代の国学者 並川誠所が顕家の墓と推定し、その提唱で、享保年間(1716~1736)に北畠顕家の墓として建てられました。
ただし、顕家の戦死の地は太平記には、「5月22日、和泉の境阿倍野にて打死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切り疵を被って一人不残(ひとりのこらず)失せにけり」と記され、顕家公が20余騎の手兵で足利尊氏の大軍を迎え撃ち、弱冠21歳で戦死したところと伝えられていますが、「神皇正統記」などには顕家は延元3(1338)年5月22日朝、1万8千の高師直軍と戦い、摂津国石津(現在の堺市西区浜寺石津町)で戦死したとなっていて、太平記の記述とは異なっています。

紀州街道沿いの石津町にも墓がある。(供養塔)

桃ヶ池公園

2019/04/06 07:32:35

桃ヶ池公園

関連リンク

脛池(元禄期)、百池(寛政期)、股ヶ池(明治期)、桃ヶ池(昭和9年〔1934〕)と時代によって名称が変わりますが、今は桃ヶ池と呼ばれています。古地図によると、池の形が股を含む足の形とそっくりであったことから「股ヶ池」と呼ばれたり、周囲に多くの池があったことから「百ヶ池」と呼ばれたといわれています。公園として整備されたのは昭和8年(1933)です。

大念佛寺

2019/04/06 07:45:05

大念佛寺

融通念佛宗の総本山で本堂は、大阪府下最大の木造建築物です。国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勘進帳」などの寺宝があり、毎年1・5・9月のそれぞれ16日に行われる百万遍会大数珠くりは有名です。5月1日から5日の万部おねりは、稚児行列・踊躍歓喜の念仏・詠讃歌舞などが先払いをして堂内に入ります。やがて、鉦を合図に雅楽に先導されて二十五菩薩が静かに来迎橋を渡御します。続いて、御本尊「十一尊天得如来」・法主猊下・法要出仕僧等が順次に渡御します。その後、菩薩が次々と花を添える儀式「菩薩伝供」があり、参拝者は手を合わせて先祖供養を願います。同行事は2002年、大阪市の無形民俗文化財に指定されました。

杭全神社(熊野権現社)

2019/04/06 07:50:10

杭全神社(熊野権現社)

平安の初期、征夷大将軍坂上田村磨の子、広野麿が枕全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子当道が862年(貞観4年)に氏神として素盞嗚尊を勧請し祇園社を創建したのが現在の第一殿で、これを創祀とする。後年、1190年(建久元年)に熊野信仰が大いに流行するにおよび、熊野證誠権現(伊弉諾尊)を勧請建立したのが第三殿で、更に1321年(元享元年)に熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二殿である。この折、後醍醐天皇より「熊野三所権現社」の勅額を賜るなど、「平野熊野三所権現」と称され、平野殿坂上家と平野七名家が管理・運営にあたった。

大きな楠が印象に残る。

四天王寺 庚申堂

2019/04/06 08:36:59

四天王寺 庚申堂

日本最初の庚申尊出現の地で、本尊は青面金剛童子(秘仏)です。大宝元年(701)正月七日庚申の日、豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し、除災無病の霊験を示され、以降1300年、庚申の日及びその前日(宵庚申)に本尊に祈れば、必ず一願が叶うと尊崇されています。初庚申は最も盛大で、前日に大般若転読会、当日に柴灯大護摩供が行われます。庚申の縁日には境内に「北向きこんにゃく」等の店が出て賑わいます。「病に勝る」「魔も去る」という三猿堂の加持を受ければ、痛い所もたちまちに治るといわれています。

江戸時代は庚申参りが流行っていた。

四天王寺南大門

2019/04/06 08:39:04

四天王寺南大門

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
四天王寺HP転記
絵図では四天王寺の神事が詳しく紹介されている。

一心寺

2019/04/06 08:43:31

一心寺

施餓鬼・納骨の寺として、全国的に知られているが、その縁起は1185年(文治元年)、法然上人が当時の四天王寺の管長だった慈鎮(慈円)和尚の招きでこの地を訪れ、いまの一心寺のあたりで、難波の海に沈む壮麗な夕陽を見た。上人は極楽浄土観法の初観「日想観」を行うに最適な光景を目の当たりし、そこに小さな庵を結び、しばらく滞在したが、後白河法皇も四天王寺参詣の途次この地を訪ね、法然上人と共に「日想観」を修した。この故事をもって開基と伝えられている。

安居神社

2019/04/06 08:44:47

安居神社

当神社の創建の年代は詳らかでないが、聖徳太子が四天王寺を建てた頃(約1400年前)であろうと伝わる。祭神は少彦名神と菅原道真を祀る。境内は天神森あるいは安井森とも称され、景勝地であった。
 901年(昌泰4年)菅原道真が筑紫に左遷され、その途中、河内道明寺の叔母を訪ねる道すがら、篤信家の道真は四天王寺に参拝した後、この安居神社で休息したと伝わる。
当時の村民が道真をなぐさめるため、もち米を蒸して乾かした「おこし米」を差し上げたのが、後の大阪名物『おこし』の始まりという伝承も残されている。大阪の「粟おこし」の共同商標に菅公の梅鉢紋が使われているのはこの故事によるものだそうである。
 江戸・寛政8年(1796年)発刊の『摂津名所図会』に載っている道真が「ここに、暫時やすらひ給ふ故」から安居の名が起こった説や、かって四天王寺の僧侶が結夏90日の間、安居した「安居院(あんごいん)」からきているといった説がある。

合邦辻閻魔堂

2019/04/06 08:47:20

合邦辻閻魔堂

伝によれば合邦辻は合法辻とも言われ、「えんま堂」は聖徳太子の開基と伝えられています。当時の大伽藍は消失して辻堂となり、明治の中頃に今の融通念仏宗西方寺の境内に移されました。
 浄瑠璃「摂州合法辻」の舞台となる「えんま堂」もここのことで、俊徳丸の難病がなおるという浄瑠璃のくだりからその故事に因縁をもとめ病気平癒を祈願する人が訪れています。

今宮戎神社

2019/04/06 08:50:54

今宮戎神社

今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西一丁目に鎮座し、天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎しています。創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。

絵図では十日えびすの様子が描かれていて絵図の中央には相撲取りと思しき大きな風体の人物が   ほえかご を眺めている様子が描いてある。

廣田神社

2019/04/06 08:53:03

廣田神社

もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神(うぶすなのかみ)ですが創建年代は不詳です。古い由緒を持つとともに江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。
 当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。桜の木も多く美しい社であったとのことです。無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ(関西ではアカエ)を神使とするユニークな神社で、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されています。

清水寺

2019/04/06 08:59:55

清水寺

有栖山 清水寺は、もと有栖寺といったが、寛永十七年(1640年)に中興延海大阿闍梨が、京都清水寺から聖徳太子作と言われる十一面千手観世音菩薩を遷して本尊とし、降って享保年間に寺号を新清水寺と改めた。院号を清光院といい、四天王寺の支院である。

浮瀬亭跡あたり

2019/04/06 09:01:13

浮瀬亭跡あたり

浮瀬(うかぶせ)亭は清水寺の北にあった料亭で、江戸時代の名所案内書『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』にも掲載されており、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場している。松尾芭蕉のほか、与謝蕪村、太田南畝(蜀山人)、滝沢馬琴などの有名な文人たちが訪れている。

絵図では項を割いて詳しく紹介がある、名物のアワビの大杯やらを詳しく紹介している。

愛染堂(勝鬘院)

2019/04/06 09:06:23

愛染堂(勝鬘院)

愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。愛染堂勝鬘院HP転記

伝藤原家隆墓

2019/04/06 09:08:45

伝藤原家隆墓

藤原家隆は鎌倉時代初期の公卿、歌人で、『新古今和歌集』の撰者の一人です。
夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽(西方浄土)へいくことを望んだそうです。
それで、この辺りは「夕陽丘」という地名になりました。
この辺りは上町台地といい、東が高く西が低く当時は大阪湾が近く大阪湾に沈む夕日は大変きれいだったやがてそれは夕日観へと変化していった。

月江寺  天王寺砦(天王寺合戦場)趾

2019/04/06 09:12:39

月江寺  天王寺砦(天王寺合戦場)趾

安永 5(1776)年に第六世住職が書き留めた寺伝によると、開基の東印比丘尼は江戸の青山修理大夫の息女で、長年五代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院に仕え、後に大阪に来て剃髪し桂昌院の両親の菩提を弔うため元禄 10(1697)年この地に月江寺を建立したとのことである。
江戸時代は名刹として「西の阿弥陀池 東の月江寺」と並び称され、多くの人がこの地を訪れ「夕陽ヶ丘」の名にふさわしい美しい夕陽が茅渟海(ちぬのうみ)に沈むのを拝んでは西方浄土を想ったといわれる。

生國魂神社

2019/04/06 09:15:17

生國魂神社

石山崎(現在の大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祀ったのが始まりとされる延喜式名神大社です。天正8年(1580)の石山合戦の時に焼失しましたが、天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城を築く際、現在の地に移転されました。本殿は移転の2年後に造営され、本殿と幣殿をひとつの流造で葺きおろし、正面に千鳥破風、すがり唐破風、千鳥破風の3つの破風を据えたという、神社建築史上ほかに例のない「生國魂造」様式を用いています。

絵図では流鏑馬の様子が描かれています、神社前の馬場は今でも残っています。

真言坂

2019/04/06 09:16:50

真言坂

生国魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼荼羅院の六坊があった。すべて真言宗であったのでこの坂は真言坂とよばれた。

旧跡 二ツ井戸

2019/04/06 09:20:22

旧跡 二ツ井戸

道頓堀か二ツ井戸町か..道頓堀と名前戦争をするほど由緒正しき歴史ある井戸だったようなのですが、明治における西洋化、都市化の中、埋没してしまい戦前にレプリカを創ったものの被災。これはレプリカのレプリカということです。

鉄眼寺

2019/04/06 09:27:33

鉄眼寺

黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があります。

難波八阪神社

2019/04/06 09:30:00

難波八阪神社

社伝によれば古来「難波下の宮」と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました。
 もとは神仏混淆でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治5年(1872年)に郷社となりました。現在のご本殿は、昭和49年(1974年)5月に完成。
 毎年1月の第3日曜日に行われている綱引神事は当社の御祭神、素盞嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除かれた故事に基づき始められたと言われています。「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介されています。また、平成13年(2001年)には、大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。神社HP転記
絵図では綱引きに参加する人々が褌一丁で頑張っている様が描かれている。

高津宮(高津神社)

2019/04/06 09:41:54

高津宮(高津神社)

貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡を、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったことにはじまる古い歴史をもつ高津宮(こうずぐう)。
今は高層ビルの谷間となっていますが、東西に走る千日前筋をはさんで南に生国魂(いくたま)さん、北に高津宮が鎮まりかえっており、双方とも豊臣秀吉が大坂城を築城する際、強引に遷座させられたものです。

ことに高津宮は、現在地にあった比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)の境内に遷座し、主客転倒して主祭神を仁徳天皇とし、この新羅の姫は当社の地主神として摂社におさめられました。

高津宮(高津神社)

2019/04/06 09:42:24

高津宮(高津神社)

[高津の黒焼き屋]西坂をおりたところに戦前まで大阪名物の黒焼き屋がニ軒あった。惚れ薬「イモリの黒焼き」「願かけのへび」など奇妙な薬を売っていた。

瓦屋町 土取場跡 田島北ふれあい広場

2019/04/06 09:48:01

瓦屋町 土取場跡 田島北ふれあい広場

関連リンク

空堀商店街の辺りは江戸時代は瓦を製造する場所だった。
約二百数十年間、瓦土取場から土を取り、瓦を製造して堀から船に積んで出荷していました。

二百数十年土を取り続けてきたので、地形が変わって窪地として残っています。
これが大阪城築城(「豊臣時代の)空堀の跡とか云われますけど実態は土取場の跡と空堀の跡が重層しているのが正解でしょう。

絵図では、生き生きと仕事をする瓦職人達が描かれている。

真田山 三光神社

2019/04/06 09:56:59

真田山 三光神社

大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。

玉造稲荷神社

2019/04/06 10:01:03

玉造稲荷神社

当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。

大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。
しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。

国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。

鵲森宮 (森之宮神社)

2019/04/06 10:06:51

鵲森宮 (森之宮神社)

鵲森宮(かささぎもりのみや)は、大阪府大阪市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は府社。通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっている。

聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、および聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る。
日本で唯一、用明天皇と穴穂部間人皇后を祀る神社として現在に至っている。

寝屋川の桜

2019/04/06 10:14:33

寝屋川の桜

寝屋川の水面に映る桜並木が美しい。

櫻宮神社

2019/04/06 10:22:52

櫻宮神社

元は東生郡野出「小橋」桜の馬場字「宮田」(東成郡野田村)に氏神として奉斎したのが始まりとされます。
豊臣氏が桜を愛し、馬場に馬を進めて落花の下に勇壮なる流鏑馬式を行なったと言われています。
慶長18年冬に再建されたが、元和6年大和川の洪水により社殿流出して、中野村(今の環状線桜宮駅直下の地)に漂着、此の地に祀ったのですが、寛文6年、延宝2年の水禍にかかり、低地であったため社地に適さないということで、城代の許しを得て、現在の地に(神鳳抄によると摂津中村厨にして伊勢神宮の旧由緒地であると言います)還座しました。
「宮田」に鎮祭の時代より大阪城守護社として豊臣氏、徳川氏の崇敬をうけてきといいます。

櫻宮神社

2019/04/06 10:24:14

櫻宮神社

神社の名のごとく桜が美しい。

大川の桜 造幣局

2019/04/06 10:28:09

大川の桜 造幣局

大川に映る桜並木

2019/04/06 10:36:37

大阪天満宮

奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。
平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。
その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。
これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。
以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。天満宮HP転記

絵図では天神祭りに多くの項をさいて祭りの内容を描写している。

2019/04/06 10:45:59

堂島米市場の跡

大坂・堂島の土佐堀川沿いには江戸時代最大の米市場がありました。
大坂は江戸初期から蔵屋敷や蔵元が存在し、蔵米を中心とした全国的な米の集散地であったことから、万治・寛文年間(1658年~73年)頃には、淀屋橋南詰にあった当時の有力な町人蔵元である淀屋の門前に米商人たちが集まり,米売買が行われていました。
享保15年(1730年)江戸幕府は堂島米市場に米の先物取引である張合米取引を公認しました。
その取引手法は現在の大阪証券取引所を始めとする世界各地における組織された商品、証券、金融先物取引の先駆をなすもので、当地が先物取引発祥の地とされています。

絵図では、これも生き生きと仕事をする人々を描写している。

2019/04/06 10:56:39

高麗橋跡

高麗橋は 江戸時代から幕府管轄の12の公儀橋のなかでも格式が高く、西詰には幕府のお触書を掲示する町奉行所の制札場があった。
江戸時代、大坂における里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。この地は京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道程の起点となった。
 1876年(明治9年)道路の制度公布により、ひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。

図絵では非常に賑わう高麗橋近辺が描かれている。

2019/04/06 11:08:49

旧名所 四ツ橋跡の碑

南北に流れていた西横堀川と東西に流れていた南堀川が交差していた所で、4ヵ所に橋が架かっていたのは四ツ橋と呼ばれていた。西横堀川の北の橋は「上繋橋」、南は「下繋橋」で、長堀川の東の橋は「炭屋橋」、西は「吉野屋橋」と言った。昭和39年に西横堀川の埋め立てにより、2橋は撤去あれ、同様に昭和45年には長堀川の2橋も撤去された。

実際には横の阪神高速の場所に四ツ橋はあった、名所図会では「すごいっしょ」と云う感じで描かれている。現在で云うあべのハルカス見たいな感じでしょうね?

2019/04/06 11:13:59

大阪木材市売市場発祥の地

元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まり, やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。土佐ばかりでなく, 日向, 紀州, 阿波, 尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり, 西長堀橋南詰から富田屋橋, 問屋橋, 白髪橋にかけての浜側は, 江戸時代から昭和にいたるまで, 年中材木市が開かれてた。
 戦後, 長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ, また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。今でも北堀江の東側には, 材木商の看板があちこちに残っている。
掲示板
名所図絵では市のセリを競う人々が生き生きと描かれている。

2019/04/06 11:46:07

高灯篭

高灯篭は、鎌倉時代の創建と言われ、「日本最古の灯台」とされている。古くから住吉の名所として知られていたが、残念ながら、1950年(昭和25年)、ジェーン台風により木造部分が破壊されて解体され、石垣部分だけになった。それも1972年(昭和47年)には道路拡張のために撤去されることになったが、1974年(昭和49年)、(財)住吉名勝保存会が、元の場所からより約200メートルほど東側の場所に、撤去されていた石垣を用いて再建した。それが現在見ることができる高灯籠である。

2019/04/06 11:49:33

長狭浦の跡辺りか??

大社前の長狭 (ながお) の浦は出見の浜とも呼ばれ、潮干狩りの名所でした。

摂津名所図会では、出見湊 高燈籠の表題で紹介されている絵図に十三間川を屋形船で下ってきて住吉大社へ参拝する人々の沖合に竹を打ち込んだ狭間が描かれているその周りには潮干狩りを楽しむ人々が描かれている。
広重の六十余州名所図会にも高灯篭の横に十三間川がありはるか沖合には群れを成す弁財船が描かれている。
摂津名所図会にある竹を打ち込んだ狭間はちょうどこのあたりになるのでは無いかな?