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開始日時 | 2019/04/28 05:54:39 | 終了日時 | 2019/04/28 15:20:33 |
水平距離 | 119.11km | 沿面距離 | 119.14km |
経過時間 | 9時間25分54秒 | 移動時間 | 8時間06分50秒 |
全体平均速度 | 12.63km/h | 移動平均速度 | 14.60km/h |
最高速度 | 30.80km/h | 昇降量合計 | 879m |
総上昇量 | 439m | 総下降量 | 440m |
最高高度 | 76m | 最低高度 | 0m |
2019/04/28 06:40:09
元禄16(1703)年10月28日、中甚平の長年による嘆願を聞き入れ幕府は大和川付替えを正式に決定しました。
翌年の元禄17(1704)年2月27日、工事は川下にあたる堺の海側からはじめられました。『河内堺新川絵図』には「御鍬初」として、この日が記されています。工事は、河州志紀郡柏原村と船橋村の中間である石川合流点付近から西へまっすぐ堺浦まで流す、延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を、河底を掘り下げるのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法が多くとられました。
江戸期に於いては一大土木事業であったでしょうから、図会にも大和川の工事については触れられている。
2019/04/28 06:44:54
大和川の付け替えに伴い1705年(宝永二年)に供用が開始された「西用水井路(現在の長瀬川)」と「東用水井路(現在の玉串川)」の2つの水路を「大和川分水築留掛かり」と呼んでいます。
300年以上たった現在でも、大和川から取り入れた水は、約27.6キロメートル(長瀬川14.2キロメートル・玉串川13.4キロメートル)の水路を流れ、 都市化が進み農地は大きく減少しましたが、今もなお、大阪府柏原市・八尾市・東大阪市の約226ヘクタールの農地を潤して、農業の発展に大きな役割を果たしています。
2019/04/28 06:50:16
石(いわ)神社は生駒山地の南端の丘陵地にあり、本殿は高い石段を登ったところにあります。祭神の石姫皇女(いしひめのひめみこ)は第29代・欽明(きんめい)天皇の皇后です。かつて、この辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があり、天武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を往来する際にここを訪れ礼拝されたといわれています。
神社入口に大きな楠が鎮座している。
2019/04/28 07:08:47
「恩智神社」の挿絵は4 ページにわたり、『河内名所図会』の中でも大作の部類になります。
延喜式神名帳に、『河内国高安郡 恩智神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、曾て“河内二之宮”と呼ばれた大社で一説にはかつては現在一ノ宮である枚岡神社よろ社格が高かったのではないかとの説もある、古社。
絵図では項を割いて説明がされている。
2019/04/28 07:17:39
俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
2019/04/28 07:23:08
教興寺は、東高野街道沿いのお寺で、物部氏との戦いで太子が陣を置いた場所とされ、戦いの後、太子に近い人物の秦河勝(はたのかわかつ)が建立したと伝えられています。その後、幾度かの戦乱に遭い、『河内名所図会』では、お寺が再興された江戸時代の伽藍(がらん)が描かれています。
2019/04/28 07:41:59
河内名所図会の「郡川のほとりの千塚(せんづか)」の場面で、古墳から副葬品を掘り出している様子を描いたものがあります。
高安山の山すそを南北に通じ、京都から高野山への参詣道であった東高野街道沿いにあり、千塚(せんづか)と呼ばれていた「高安古墳群」は、高安郡の名所の一つとして多くの人々に知られていました。
図絵では、商家の旦那風の爺さんが人夫に命じて須恵器や銅鏡を掘り出させている場面が描かれている。
2019/04/28 07:58:25
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、翌年5月の大坂夏の陣では八尾の地も戦場になりました。
十三峠を下ったふもとに陣を置いた徳川方の井伊家は、十三街道を経て若江(東大阪市)に向かい、豊臣方の木村重成の軍と戦います。
一方、徳川方の藤堂家は一部が井伊家と共に若江に向かい、本体は八尾の常光寺や久宝寺寺内町の辺りで豊臣方の長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍と戦いました。両地とも激戦となり、多くの戦死者を出しました。
若江の戦いでは豊臣方の木村重成、徳川方の藤堂良勝や山口重信らが戦死、八尾の戦いでは徳川方の藤堂高刑(たかのり)らが戦死しました。
2019/04/28 08:02:23
山口重信は元和元年(1615)「大坂夏の陣」の戦いで、徳川方の武将として豊臣方武将木村重成とこの地で戦い共に戦死しました。
この墓は重信の弟、弘隆により正保4年(1647)重信三十三回忌に建てられました。
三メートル角の礎石の上に亀の背(亀趺)が乗りそのうえに高さ三メートル、幅九十センチ、厚さ四十五センチの墓塔が建てられ銘文には若江堤の戦いの様子が幕府、大学頭、林道春(羅山)の文章を石川丈山の篆刻により刻まれており、篆額上には幡龍二尾を鐫した非常に貴重な墓塔です。
周囲の玉垣は重恒(重信の弟)が、燈籠は家臣の山口忠兵衛重成が承応三年(1654)に、花立は弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)にそれぞれ寄進したものです。
本体も碑文も当時のままであります。
平成十六年四月 若江南墓地管理委員会
2019/04/28 08:06:12
創建は不明。『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)夏四月の条に「授河内国大雷火明神従五位下」と神階をすすめた記述があり、これが若江鏡神社のことと考えられている。鎮座地の北側に若江城があった関係で、歴代城主の崇敬を受けた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、兵火にかかって社殿や神宝が焼失した。江戸時代の文政11年(1828年)に本殿が再建され、これが昭和になって東大阪市文化財に指定された。
2019/04/28 08:08:52
室町時代初期、河内国守護畠山氏が築いて以降、数々の戦乱を経た若江城。天正年間はキリシタンの池田丹後守教正が城主となって教会などを作ったことから、八尾・三箇(現大東市)・岡山(現四条畷市)と並ぶ河内キリシタンの中心だったともいわれている。しかし、信長の石山本願寺攻撃の拠点として利用された後の資料が見つからず、長く"幻の城"だったところ、昭和47年以後に行われた発掘調査により城の中心部のまわりにめぐらされた堀の一部がみつかり、その存在が改めて裏付けられた。その規模は東西約380m、南北約280mとも(『角川日本地名大辞典』)。現在、若江公民館前の歩道橋のたもとに城跡の碑などが建つが、いまだ謎が多い。
2019/04/28 08:35:02
【石田神社】(いわたじんじゃ)は、大阪府東大阪市岩田町にある神社。現在は住宅地になっているが、当社北側に昭和38年(1963年)頃まで直径2メートルたらずの円錐形の二つの小塚が水田の中にあった。東の塚を「幸神塚」といい、西の塚は「無名の塚」と呼ばれた。「幸神塚」は賽の神を祀った旧地だとされた。ここを開拓した往古、船によく似た大きな岩石があり、その長さは東塚と西塚を結ぶほどで、その全長50メートル近くもあったという。これは古代に、大きな石の船がここで難破した岩船(石船)である、とされ、この二つの塚はその前後のもの、とされた。
2019/04/28 08:39:06
八劔神社境内に移設されている天保2年(1831年)の『おかげ』と刻まれた道標は暗峠奈良街道と河内街道の交差点にあった、奈良街道の国道25号線、八尾市相生町から旧中河内郡、北河内郡の中央部を縦貫し、枚方市で京街道に接するのが河内街道です。
暗峠奈良街道は、大阪・奈良・伊勢をつなぐ街道として、特に江戸時代以降、多くの人で賑わいました。
名所図会では人々で賑わう奈良街道を紹介している。
2019/04/28 08:51:04
長栄寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、本尊の十一面観世音-重要文化財-も太子が自ら刻んだものといわれ、府の文化財に指定されています。本堂は火災で焼失し、文政8年(1825年)に再建されました。境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が端正な姿で残っています。
2019/04/28 09:03:55
河内名所図会では稲田の桃林が紹介されている。
稲田村一帯は江戸時代中期から明治にかけて桃の産地として広く知られていました。花の盛りには近村はもとより大坂からも粋人墨客たちが川舟などを利用して集まってきて、川岸には茶店も出るにぎわいぶりであったと伝えています。
「稲田桃」は、日本古来の野生種で、江戸時代後期にはお盆の供え物として大阪市内や京都に出荷されるなど、稲田地区で盛んに栽培されましたが、洪水や河内木綿におされ次第に姿を消していきました。
しかし、「稲田桃」を復活させて地域の名産にしようと、地元有志らの活動により、現在では稲田地区の道路や公園などに約600本の稲田桃の木が植えられています。
2019/04/28 09:11:11
「稲田桃」で知られている稲田の地は、古くは新開池へ合流していた旧蔆江川の両岸に営まれた集落で、「稲田村由来記」によれば、室町時代の中頃、東方に屋敷割と呼ばれる所があり、観音樋の西側に人家が18軒あったこと、誉田八幡宮を勧請して氏神としたことが記され、現在の八幡神社の沿革を知ることができます。
八幡神社は、字宮の町と呼ばれる所に鎮座し、仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇の三神を祭神としています。
稲田は、南町・中町・橋本町・北町・旭町の5町に分かれ、秋祭り(宵宮10月21日、本祭り22日)の宵宮には、各町内から伊勢音頭を歌いながら、長提灯の宮入が盛大に行われます。
掲示板
2019/04/28 09:51:53
延喜式の神名帳にもその名がある河内国一ノ宮の古社で、創祀は神武天皇即位前3年と伝えられます。後に、奈良の春日大社に枚岡神社の二分霊を祀ったことから「元春日」とも呼ばれています。本殿は豊臣秀頼が片桐且元に造営させたと伝えられていますが、現在の本殿は1826年に再建されたものです。府下随一と言われる秋の郷のまつり(秋郷祭)は、太鼓台の宮入や地車の曳行などが行われ、勇壮かつ華やかです。毎年年末の12月23日に、新しいしめ縄を掛け替えて大勢で笑う「注連縄掛神事」(しめかけしんじ)通称「お笑い神事」が行われ、年初には、その年の稲の実りを、小豆粥を使って占う「粥占神事」が行われます。境内は楠、杉などの古木が多く、環境省の「かおり風景100選」に指定を受けました。毎春、境内南側の枚岡神社梅林では30品種約400本の梅が咲き競います。
2019/04/28 10:02:58
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。宮山の地にあった祭祀の場は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治38年には現在の本社本殿に合祀された。その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、昭和7年に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和47年に往古の姿を取り戻した。
2019/04/28 10:24:00
生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山・飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。
5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの[1]」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、江戸時代より続く。「野崎詣り」の期間は参拝客で賑わう。
かつての「野崎詣り」は大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃や落語等のフィクション作品の舞台となっている
2019/04/28 10:39:15
墓所のある場所は、楠木正行が1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)、四條畷の戦いで戦死した地。現住所表記では四條畷市雁屋南町27番5号。正行の父楠木正成が明治政府によって「大楠公」(だいなんこう)として神格化されたのに伴い、遺志を継ぎ命を落とした嫡男・正行も「小楠公」(しょうなんこう)として崇められるようになり、「忠君愛国」の象徴のひとつとされた。この墓所が、後に四條畷神社(別格官幣社)創建や府立中学校設立(現・大阪府立四條畷高等学校)に関与する。
墓所の入り口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があり、敷地内には、「楠公父子訣別之所」と記された“墓石”、「贈従三位楠正行朝臣之墓」(原文のまま)と記された碑と、そしてクスノキの巨木(樹齢600年、大阪府指定の天然記念物=府文化財)がある。
2019/04/28 10:57:04
東寝屋川駅の東北側に東高野街道と奈良伊勢道が交差する四ツ辻があります。
安政四年(1857)に建てられた道標で東へ行けば伊勢、南へ行けば大坂~高野山と示しています。
四ツ辻に立つ道標には、「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大坂みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれています。東面には「安政 四年巳正月 為父母 施主酒勘」とあり、安政四年(1857)に酒屋の勘兵衛さんが父母のために建立したことがわかります。
2019/04/28 11:11:20
元亨(ゲンコウ)元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ユウズウネンブツシュウ)中興の祖法明(ホウミョウ)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に会い、11面尊天得如来(ジュウイッソンテントクニョライ)の画像を授かった。
上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(ショウミョウネンブツ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。
やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(イヌイジンエモ)屋敷(茄子作北町)であったという。
「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。
1994年 枚方市教育委員会
7-8年前は寂しい場所でしたが今は宅地が隣接する。
1994年 枚方市教育委員会
2019/04/28 12:05:08
社伝によれば、垂仁天皇の時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って一族の鎮守としたのに始まる。「片埜」(片野、交野)はこの一帯の古名で、交野市の地名の由来でもある。平安中期、野見宿禰の後裔である菅原道真が天神として祀られるようになると、天徳4年に当社でも菅原道真が配祀された。社家の岡田家は野見宿禰の後裔である。
『延喜式神名帳』では「河内国交野郡 片野神社 鍬靫」と記され、式内小社に列している。かつては広大な社地を有し、「交野の御野」「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕ともなっていた。
なお当社は交野郡一宮であって河内国の一宮ではない。のちの豊臣秀頼による修復も、交野郡の一宮(牧野坂の片埜神社)、二宮(舟橋の二ノ宮神社)、三宮(穂谷の三ノ宮神社)を大阪城鬼門鎮護の神社として修復させたものである。
2019/04/28 12:18:57
阪府中東部、交野(かたの)、枚方(ひらかた)両市域を流れる川。淀川(よどがわ)の一支流。水源は大阪府・奈良県界をなす生駒(いこま)山地の磐船(いわふね)付近で、山間の磐船峡谷を曲流しつつ北流、私市(きさいち)で交野台地に出、台地を侵食して狭小な河谷平野をつくり、岡新町で淀川に合流。延長13.6キロメートル。上流部は鮎返滝(あゆがえしのたき)や磐船峡谷の渓谷美で知られ金剛生駒紀泉国定公園(こんごういこまきせんこくていこうえん)に属し、下流部は『伊勢(いせ)物語』など文学や詩歌で親しまれる。
図絵ではここにあった橋が描かれている。
2019/04/28 12:19:42
東見附は、天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵で囲われた松が植えられていました。「河内名所図会」享和元年(1801)には、淀・伏見方向に向う大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た役人が待ち受ける光景が描かれています。
元文2年(1737)の「岡新町村明細帳」によると、天野川には、長さ17間、幅3間1尺の板橋が架かっていて、岡・岡新町両村が共同管理していましたが、修理・架替の費用は幕府が負担していました。
紀州徳川家は、参勤交代の際枚方宿に宿泊しましたが、天野川の渡河にあたっては、既設の橋の上流に専用の仮橋を設けさせました。 枚方市
2019/04/28 12:28:41
枚方宿は、岡新町、岡、三矢、泥町の四ケ村が指定されました。枚方宿は、京都へ6里、江戸へ128里、大阪へ5里の位置にあります。
東見附から西見附までは、東西13町1間(1,447m)、道幅2間半でした。北側の淀川と南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山(御殿山)に挟まれた地域に東西に細長く続いていました。
三矢村が宿場の中心にあたり、宿場には、本陣(池尻善兵衛家)、家老専用本陣(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場2ケ所、旅籠は大17軒、中18軒、小20軒の合計55軒、船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ケ所、郷蔵4ケ所、船番所2ケ所、紀州公七里飛脚小屋、町飛脚などがあった。問屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒あったと言われてました。
2019/04/28 12:36:01
「くらわんか舟」とは, 江戸時代に淀川の 枚方・高槻を通る三十石船に漕ぎ寄せていって, 酒や食べ物を売る小さな舟(煮売茶船)のこと。 「飯くらわんかい。酒のまんかい。」などと乱暴な売り言葉をかけていたため「くらわんか舟」と俗称され, 三十石船の道中の名物になっていたという。
くらわんか舟から買った食べ物の料金は, 現在の回転寿司の代金のように, 食べた茶碗の大きさと数で数えていたが, ずるい客が代金をごまかすためにこっそりと 川に捨てていたことがあって, 現在も淀川の川底からは沢山の茶碗(くらわんか茶碗)が出土している。
2019/04/28 12:36:01
枚方は京街道の中継点に当たり、大名たちの参勤交代もここを通ったそうです。
資料館では紀州藩の武士に出した食事が展示されてましたが、現在の感覚では「ふーん」ですが、
煮魚の骨に湯をかけてまで綺麗に食べていた江戸時代においては凄いごちそうでったでしょう。
2019/04/28 12:44:53
江戸時代、文化文政頃の町人の旅姿で、合羽をつけ、振分け荷物、下は小袖を尻からげにし、博多帯に股引、紺脚絆、紺足袋、草鞋。
合羽は桃山時代にスペインの宣教師などが着けた外套Capaを模したもので、坊主合羽といわれ、引廻しともいい、中に桐油紙が入っている。表は通常紺地、白棒縞の文様があり、裏は木綿の絣や型染のものをつけた。
2019/04/28 12:44:53
文政頃(1818-30)の旅籠代は2食付き150~200文くらい。宿が混んでいれば相部屋となり、それも男女入れ込みで、旅人の勝手は許されなかったという。
東海道も中山道も江戸日本橋を起点に京三条大橋を上がりとする。東海道の500キロより中仙道のほうが40キロほど長く、道も大変だったが、東海道は大井川の増水でしばしば通行止めになったから確実に計算できる中山道を利用するのも多かった。昔の男は一日10里歩いたというから凄い。
2019/04/28 12:49:14
鍵屋資料館の前は京街道で軒下から眺める街道風景は200年前とさほど変わらない。
2019/04/28 13:11:14
日本最初の河川堤といわれる「茨田堤(まむたのつつみ・まんだのつつみ)」碑=写真=は、太間町の淀川堤防沿いにあります。すぐ前には、「大阪湾まで約21・9キロメートル」の標識が建てられています。
日本書紀によると、工事は古墳時代の仁徳天皇11年に行われ、淀川の洪水を防ぐために計画されました。難工事の連続で、工事の安全を願う人柱の話も伝わります。
太間町の名は、堤が破れた「絶間」からきたといわれます。この辺りは、紀貫之の土佐日記に出てくる「わだの泊まりの分かれ」の推定地の一つです。
碑はオランダ人技師、デ・レーケたちによる明治の淀川改修から百年になるのを記念して、昭和49年に建立されました。古代にこれほどの大工事が行われたことは驚きです。
2019/04/28 13:32:33
仁和寺氏神社のある仁和寺という地名は、かつて京都の仁和寺の所領であったことに由来します。神社の創建は室町時代初期と考えられ、そのころは白山権現社と呼ばれていました。1633年(寛永9年)に永井信濃守尚政が領主になり、菅原道真を祭るようになって以来、天満宮とも称されるようになりました。以前、淀川堤防が決壊した際に社殿が流されたので、村の中央にあたる現在の位置へ移されたといわれています。境内には多くの木々が植えられています。
2019/04/28 13:36:15
佐太天神宮は、市の北寄り、旧京街道(国道1号)の淀川左岸沿いに位置し、境内は、西側の街道に向かって東西に細長い形状を呈しています。
建物は、西から表門、拝殿、本殿等の順に配置され、北から東側には「大阪緑の百選」に選ばれた境内林が茂り、『河内名所図絵』にみえる江戸時代の景観を今によく伝えています。
創立については、必ずしも明らかではありませんが、「佐太天神宮記」等によると菅原道真が太宰府左遷に際して、暫く舟をつないだ所とされ、その後、道真を慕って祠を建てたのが創建とされています。
現在の本殿は棟札によると、寛永17年(1640年)に再興した後、天和3年(1683年)から計9階の屋根替が棟札により確認されています。
2019/04/28 13:37:57
来迎寺(らいこうじ)は、融通念仏宗中興法明上人の弟子・実尊上人によって、正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されました。本尊は天筆如来(阿弥陀・観音・勢至の三尊のみ影)です。同寺の独特の相続法により、300年余の中で住職が変わるたびに26回も所在地を移していましたが、延宝6年(1678)に現在の佐太中町に移転し、現在に至ります。来迎寺に伝わる「絹本著色八幡曼荼羅図」は国指定重要文化財で、他に境内裏の「石造十三重塔」は大阪府指定有形文化財です。また、寛保3年(1743)に寺に現れた女性の幽霊の足跡がついた座具もあり、お寺の法要に合わせて公開されています。後村上天皇の勅願所であり、今なお大方丈に「玉座」が残されています。
2019/04/28 13:59:02
安土桃山時代の文禄5年(1596)、豊臣秀吉は、毛利輝元らに命じて、淀川左岸に京都と大坂を最短で結ぶ陸路を整備させました。これが京街道または大坂街道と呼ばれる堤防道です。この文禄堤の長さは約27キロメートルといわれていますが、淀川の改修等でその多くは姿を消しており、ここ守口にのみ面影をしのぶことができます。
2019/04/28 13:59:40
文禄堤とは、豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の道として、文禄5年(1596)に整備したものです。現在堤のほとんどは姿を消しましたが、この地域にわずかに残っています。
堤の上には古い家並が続く。
2019/04/28 14:01:02
道路を作った時に堤を切ったのでしょう、上から見ると堤防であることよくわかる。
これがいわゆる文禄堤(ぶんろくつつみ)の跡です。
2019/04/28 14:24:56
この道標は現在京橋駅構内に当たるかつてかなり南側にあったものをここに移してきた。
京橋は大川(旧淀川)と大和川(第二寝屋川)と猫間川(いまはない)の合流地点でまた奈良街道 京街道 との分枝点でもあった。
落語野崎参りの船客と徒歩客との掛け合いもこの辺りから始まったのではないかな?