摂津名所図会を走る(その2)

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現在の軌跡: 02 05 2019 06:44

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/05/02 06:51:30終了日時2019/05/02 16:50:06
水平距離119.02km沿面距離119.07km
経過時間9時間58分36秒移動時間8時間51分22秒
全体平均速度11.94km/h移動平均速度13.38km/h
最高速度34.35km/h昇降量合計1184m
総上昇量587m総下降量597m
最高高度91m最低高度-1m

レポート概要

摂津名所図会(せっつめいしょずえ、『攝津名所圖會』)は、摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌である。

京都の町人・吉野屋為八が計画し、1796年(寛政8年)-1798年(寛政10年)に刊行された9巻12冊となる摂津国の通俗地誌であり観光案内書でもあった。

編集は俳諧師・秋里籬島(あきさと りとう)が担当し、絵は『名物浪花のながめ』(絵本)や『鳥羽絵欠び留』などを描いていた絵師・竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)が担当。秋里籬島による名所の由来記、竹原春朝斎による俯瞰図を多用した挿絵が特徴である。この2人は、1780年(安永9年)に刊行された京都の案内書『都名所図会』(6巻11冊)を皮切りに、その後、吉野屋為八が企画した多くの「名所図会」を手がけていた。
その上、籬島、春朝斎以外にも編者や画家として、たとえば絵師の丹羽桃渓らの参加を求めたので、「名所図会」は見た目が一層にぎやかになった。


秋里籬島、竹原春朝斎が中心となった大坂シリーズには、この『摂津名所図会』以外に、『河内名所図会』『和泉名所図会』『住吉名所図会』があった。
なお、歌川広重にも『浪花名所図会』がある。また東都の『江戸名所図会』が刊行されるのは、この『摂津名所図会』刊行の約40年後のことである。
名所図会の系譜は1902年(明治35)の『本派本願寺名所図会』まで続いているが、「名所図会」の総数は、明治のものまで入れて実に60種余りに及び、関東から九州にわたった。
 なかでも、近畿、東海道、関東のものが多い。18世紀の中ごろから19世紀にかけての日本人の旺盛(おうせい)な知識欲と、物見遊山(ものみゆさん)を兼ねた名所巡りの盛況を表しているといえる。
名所図会のその情報量はかなりのもので、現在でも十分に通用する内容であり尚且つ古来の逸話にも通じていて、現在の旅行案内とは一線を画する。

名所図会を徘徊すると、この200数十年前の 秋里籬島(あきさと りとう)は現地に行って取材をしているのを確信的に感じることができた。
おそらく江戸期もこの時代になると、物事の本質はなにか?という事に対してある程度明確な答えを出せない者は相手にされなかった時代が到来していたことを感じさせる。(いい加減な内容の書籍は買わなかったのだろう、もうこの頃は資本主義的な思想で国が廻っていたのでしょね?)

そんな摂津名所図会を走ってみた。

写真レポート

東黒門の跡 山城国

2019/05/02 07:05:05

東黒門の跡 山城国

かつての大山崎集落は、離宮八幡宮の神領であり、15世紀にその集落の東と西の端にそれぞれ黒門が設けられ、それぞれ東の黒門・西の黒門と言っていました、門は夜になると用心のため集落を守るために閉めていました。
東黒門はちょうど、五位川が西国街道と交わるところにあり、現在も名残として東黒門跡があります。
魔よけのため道は曲がっていたのですが、近年真っ直ぐな道に改修されました。

ここはまだ山城の國ですが、行き掛かり上 摂津名所図会を走るに掲載します。



大山崎瓦窯跡 山城国

2019/05/02 07:09:17

大山崎瓦窯跡 山城国

平成16年(2004)12月の調査の結果で平安宮の所用瓦を焼成した平安時代前期の瓦窯が6基、まとまって発掘されました。当時、平安京周辺各地の多数の瓦窯で大量の瓦を生産し、平安宮・京の造営を支えたものと考えられ、大山崎瓦窯もその一つとされます。
 ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されました。2006年(平成18年)には、重要性が考慮され国の史跡に指定されています。 掲示板



宝積寺

2019/05/02 07:20:01

宝積寺

宝積寺(ほうしゃくじ)は寺伝では神亀元(724)年に聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が建立したと伝えられる真言宗の寺院です。

文化財を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。

駅裏の道から細い道を上がってゆくきつい勾配を登りきると突然山門が現れる。



宝積寺三重塔

2019/05/02 07:21:31

宝積寺三重塔

 三重塔は、参道の右側奥にあり、慶長9年 (1604年)建立、国の重要文化財。
昭和43年(1968)に解体大修理され、丹塗りの美しい塔である。この塔は、秀吉が山崎の合戦で勝利した記念に建立したと伝承されている。

遠藤周作氏の反逆という作品で、伊丹の荒木一族の処刑を命じた宿舎として登場している。



離宮八幡宮

2019/05/02 07:27:33

離宮八幡宮

関連リンク

離宮八幡宮は京都府乙訓郡(おとくにぐん)大山崎町にある石清水八幡宮と対を成す神社で、荏胡麻(えごま)油発祥地で油の製造と販売の中心「油座」として栄えていました。
現在は油の神様として親しまれています。



水無瀬神宮

2019/05/02 07:37:04

水無瀬神宮

後鳥羽上皇がこの地に水無瀬殿を造営し、水無瀬離宮と称されていたものを、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まります。




離宮の水

2019/05/02 07:37:04

離宮の水

この水無瀬神宮には、大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選ばれた「離宮の水」が飲める場所があります。水は井戸から汲み上げられており、古くから名水とされていました。その源は、水無瀬川の伏流水です。



待宵小侍従の顕彰碑と墓

2019/05/02 07:49:09

待宵小侍従の顕彰碑と墓

待宵小侍従は、「平家物語」にも登場する平安ー鎌倉初期の有名な女流歌人です。

待宵は岩清水八幡宮別当光清の娘で、母は花園左大臣家女房小大進です。39歳の頃、夫の藤原伊実と死別しました。そのあと、二条天皇、皇后藤原多子、高倉天皇に仕え、晩年は出家して桜井に住んでいたといわれています。

慶安3年に高槻藩主永井直清は、墓のそばに顕彰碑を建てました。そのそばには大正のころまでは五輪の石塔が建っていました。今は、水輪が一つだけ残るのみです。



上宮天神

2019/05/02 08:11:05

上宮天神

菅原道真(すがわらのみちざね、904年没)をまつる上宮天満宮は、大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。
縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた天皇の使い(勅使)が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに道真をまつったのだといいます。



車塚 (昼神車塚古墳)

2019/05/02 08:14:28

車塚 (昼神車塚古墳)

この古墳が造られたのは6世紀中頃までと考えられており、被葬者はこの地を支配していた首長であろうと推定されている。

上宮天満宮の神域であり自由に入ることはできない。



高槻城

2019/05/02 08:35:28

高槻城

高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まり、永禄12年(1569)に和田惟政が城としての基礎を固め、天正元年(1573)に高山右近が町屋を城内にとりこんで堅固な城郭を築きました。
 また右近は熱心なキリシタンで、キリスト教を手厚く保護し、天主教会堂を拠点に布教をすすめてたと伝えられています。
 
江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城。大坂夏の陣ののち元和3年(1617)、江戸幕府による直営改修工事が行われ、慶安2年 (1649)には永井直清が入城、以後13代、幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城となります。
 明治7年(1874)に京阪間鉄道建設のため石垣が破却され、用材として使われました。



富田本照寺

2019/05/02 08:50:39

富田本照寺

本照寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属します。応永34年(1427)本願寺7世存如が創建し、もとは光照寺と称していました。富田の岡に創建されたとも、天文元年(1532)の富田焼打ち後、高槻から移ったとも伝えられます。
一時衰えていたのが、正保3年(1646)に本願寺13世良如の弟、良教が寺に入り、本願寺の一字を得て本照寺と改めました。また、良如自ら「富田御坊(とんだごぼう)」の印を与えました。これ以後当寺は、高槻・茨木の同派寺院の本山となり、「富田の御坊」と称して隆盛を極めました。



富田慶瑞寺

2019/05/02 08:59:18

富田慶瑞寺

祥雲山と号して黄檗宗に属し、観世音菩薩ほ本尊としています。持統天皇8年(694年)宇治橋架橋などで知られる僧・道昭が創建し、法相宗に属して景端寺と呼ばれていました。江戸時代初期には景端庵と呼ばれ荒廃していましたが、寛文元年(1661年)頃、普門寺の龍渓(りゅうけい)が再び寺院として再興したといわれています。境内には後水尾法皇(ごみずのおほうおう)の歯や仏舎利(ぶっしゃり)を納めた聖歯塔(せいしとう)、龍渓の木像や遺品などを納めた開山堂があり、歴史的に貴重な遺物が多く残されています。



総持寺

2019/05/02 09:05:37

総持寺

総持寺は西国第二十二番の名刹として知られる高野山真言宗の寺院です。開山の中納言藤原山蔭は、平安時代の貴族で「庖丁道の祖」「料理の神」として知られています。山蔭が幼き頃、淀川で父君が助けた大亀に、山蔭が命を助けられたという「亀の恩返し」の奇瑞により仁和2年(886)に創建されました。本尊は「亀の背に立つ」千手観音です。



磯良神社

2019/05/02 09:19:35

磯良神社

疣水磯良神社は疣水神社とも磯良神社とも呼ばれます。神社御神頭の霊泉「玉の井」は、古くから「疣水」の名をもって広く世に知られ、疣はもちろんのこと、諸病平癒に霊験あらたかな御神水として知られている。この「玉の井」の水を汲んで神前に供え、礼拝の後これをうけて帰る崇敬者はいまも絶えない。
茨木市HPより

訪問日もおじさん二人が水を汲んでいました、図会では項を割いて説明がされてある。



白井蛍見

2019/05/02 09:35:03

白井蛍見

佐保川と勝尾寺川は幣久良山の西麗で合流し、茨木川となり南に流れる。この辺りの河原を白井河原と呼んだ。この河原は毎年初夏になると水辺を求めて蛍が集い、蛍の名所になっていた。村人達は日暮頃になると酒肴を持ち寄り蓆を敷いて河原に陣どり蛍合戦を見物するのであった。宵闇が濃くなる頃、遠くからゴーッというかすかな羽音が聞こえてきて次第に音が近づく。それは飛んでくる蛍の大集団である。東の集団と西の集団はちょうど白井河原の上空でぶつかる。激しいもみ合いが起こり相当数の蛍が流星のように流れに落ちる。暫くして蛍の集団はいずれかに飛び去り、見物の人達も三々五々家路について、あとはせせらぎの音がきこえている。「摂津名所図会」に蛍合戦の記事が書き残されている。

(『わがまち茨木 民話・伝説編』より)



西国街道椿の本陣

2019/05/02 09:41:28

西国街道椿の本陣

郡山宿本陣は、西国街道の5つの宿場のまん中にあり、江戸時代には大名が参勤交代の際に利用していました。また五色の花を咲かせる椿が御成門の側にあった事から、「椿の本陣」として親しまれています。郡山宿本陣には、「忠臣蔵」の元となった、浅野内匠頭が江戸城刃傷事件をおこす前年の、元禄13年(1700年)5月に宿泊した記録や、これに関連して浅野家断絶申し渡しのため赤穂へ赴いた脇坂淡路守も宿泊したという記録が残されています。

(茨木市公式HPより)



勝尾寺一の鳥居

2019/05/02 09:56:43

勝尾寺一の鳥居

西国街道筋に石造りの大きな鳥居が立っています。 1245年当時は粟生や萱野の材木を使って建てられ、その後数回にわたって修理や再建が行われました。 この大鳥居を起点とし、勝尾寺まで続く道が表参道です。勝尾寺まで1町(約109m)毎に町石という道のりを示した石が立っており、大鳥居の脇に36町石が立っていることから、ここから勝尾寺まで約4kmだと分かります。 鎌倉時代の歌人藤原定家の「明月記」には、有馬の湯に出かけた帰りに、この鳥居からはるか勝尾寺を拝んだという逸話も残っています。

箕面市観光協会HP転記



萱野三平生家

2019/05/02 10:09:05

萱野三平生家

四十八番目の赤穂浪士萱野三平重実は、この地で父重利の三男として生まれた。父は旗本大嶋出羽守の家臣で大嶋家の所領椋橋庄の代官を勤めていた。三平は13才の時、大嶋家の推挙で播州赤穂の浅野長矩に仕えて中小姓となる。元禄十四年三月、主君切腹となるや、速水藤左衛門と共に五日五夜早駕籠を乗り継いで、このことを赤穂へ急報する。途中生家の前を通り過ぎる時、図らずも母小まんの葬儀に出会うが、ただ掌を合わせて先を急ぐ。主家断絶の後、仇討ちの連判状に加わるが、父は江戸行きを許さず、翌十五年の一月十四日、主君命日の日、自宅の長屋門の一室で自害する。

名所図会では短い記述ながら萱野三平墓として紹介している、・・江戸芝泉岳寺にも墓碑あり・・と結んでいる。



染殿井

2019/05/02 10:33:50

染殿井

織姫伝承の一つ。織姫が水を汲み色染めした井戸があったとされる場所。現在は記念碑と松の木があります。江戸時代の地誌である「摂陽群談」(1701年刊)や「摂津名所図絵」(1798年刊)などでは、ここで織姫が糸を染めたところと伝えています。
宅地の中に ぽつねん としてあった。

近くの日清食品記念館 はNHKの連ドラ効果で凄い人出であった。




伝)村重の塚

2019/05/02 10:43:37

伝)村重の塚

この祠は、阪急宝塚線北側の側道に面してあったもので(池田市城南二丁目)、地元の人々によって
大切に守られてきました。
この祠には「春日大明神」と書かれた石柱が納められており「(荒木)村重の塚」とする伝承があります。
村重(1535~86)は、摂津の国人池田氏のもとから身をおこし、有岡城(伊丹市)を本拠とする摂津の大名になりました。しかし織田信長と敵対する石山本願寺や毛利氏と通じたため、信長の攻撃を受け、毛利氏を頼って落延びました。
江戸時代の池田村絵図に、この辺りに「荒木塔」という小さな塚が描かれています。いつごろこのような伝承が生まれたかは明らかではありませんが、池田がもつ豊かな文化性を象徴する資料として重要です。
掲示板
名所図会では、荒木摂津守墓として短く紹介している。



池田城跡

2019/05/02 10:56:28

池田城跡

鎌倉時代に築かれて、室町時代初に池田教依によって城としての形態が整った。
 嘉吉3年には、池田充正(いけだみつまさ)が三の丸を拡張するなど城の規模拡大を行っている。 この頃に城下町池田が形成 された。
 永正5年に、池田貞正は細川高国と戦い城は落城。 その後、貞正の子、池田久宗が池田城を奪回している。 永禄11年に織田信長が摂津に出陣したとき、池田勝正は信長に降伏し、摂津三守護に任じられている。
 天正7年(1579年)に、伊丹有岡城主荒木村重が信長に謀反を起こした時、池田重成は荒木氏に従い、運命を共にした。 天正8年(1580年)に信長が、筒井順慶に摂津・河内・和泉の破城 を命じた時に廃城となった。



多田平野湯 (平野湯温泉薬師堂)

2019/05/02 11:25:47

多田平野湯 (平野湯温泉薬師堂)

能勢電鉄平野駅 この付近、江戸時代は、有馬、一庫(ひとくら)とともに、北摂三湯のひとつとして、平野湯があり、塩川に沿って20軒を超える温泉宿が立ち並び妙見山への参拝者や湯治客でにぎわっていました。

名所図会では、詳しく平野の湯を紹介していて、ぼて振り 旅人 湯上りに碁を指す人 寝そべって黄表紙でも読んでいるおじさん 等が生き生きと描かれています。

みんな昔から温泉好きで、湯上りにしていることなども今とたいして変わっていませんね。



三ツ矢サイダー発祥の地

2019/05/02 11:30:01

三ツ矢サイダー発祥の地

江戸時代には温泉場として栄えた平野鉱泉が、明治時代になると飲料に適しているとされ、明治17(1884)年には初の飲料水工場として三菱(三菱財閥系の三菱グループとは関係ないが、スリーダイヤの紋章を使う)が平野水を製造したのが三ツ矢サイダーとしての始まり。後に三ツ矢の名を冠し、アサヒ飲料に吸収されて現在に至る。
との事ですが・・・



平野温泉 鉱泉 

2019/05/02 11:32:03

平野温泉 鉱泉 

川西市のHPの記載では
明治14年、名鉱泉として紹介され、これを飲料用にビン詰めして「平野水」という商品名で発売されました。これが日本で初めてのサイダーであるとされ、大正の中頃に、平野駅北部一帯には、東洋一の規模といわれた清涼飲料水工場があり、後に加工されて「三ツ矢サイダー」になりました。現在は、工場跡地に散在する、炭酸ガス捕集塔、三ツ矢サイダーの碑等の整備をし、旧御料品製造所をできる限り往時の雰囲気を残しつつ改修を行い、平成13年3月より三ツ矢記念館として開館していました。

となっていますが、横を流れる塩川の川床には流れて来た鉱泉の湧出物が結晶化していた、炭酸泉のいいお湯だったのでしょうね。



多田神社

2019/05/02 11:48:19

多田神社

天禄元年(970年)、源満仲は多田神社の前身である多田院を建立。今の建物は、徳川4代将軍家綱によって再興されたものです。
 神聖な雰囲気に包まれた神社一帯は、国の史跡に指定されており、本殿、拝殿をはじめ国や県の指定を受けている文化財が多数あります。源満仲、頼光、頼信、頼義、義家の五公が祭られています。本殿のまわりには、珍しい椿が何本も植えられ、赤、ピンク、白などさまざまな花を咲かせます。



西国巡礼道

2019/05/02 12:26:47

西国巡礼道

宝塚市中筋山手4の道標
すく中山寺道
西面
左ざい所道
北面
宝暦三癸酉歳二月 施主

と刻まれる。



中山寺

2019/05/02 12:30:01

中山寺

古くから安産のお寺として知られ、皇室をはじめ、源頼朝、豊臣秀吉などの武家からも篤く信仰を集めた中山寺。聖徳太子が創建した日本最初の観音霊場と伝えられ、西国三十三所24番札所となっています。
まあだいたい大阪近辺の妊婦さんは一度は訪れるでしょう。



売布神社

2019/05/02 12:35:41

売布神社

3つの女神さまが祀られていて、本殿の下照姫命(シタテルヒメノミコト)は、夫神の天稚彦神も共に祀られていて、夫婦円満、衣・食・住守護、向かって右の豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)は、子宝・安産祈願、縁結びのご利益があり、向かって左の市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)は、広島の厳島神社と同じ宗像3女神のひとつで、財運、芸事の上達などのご利益があるとされる。



小浜宿北門跡と愛宕社

2019/05/02 12:45:33

小浜宿北門跡と愛宕社

宝塚市の小浜(こはま)は歴史ある地で、15世紀末(戦国時代)には毫摂寺の寺内町として栄え、江戸時代になってからは、京伏見街道、西宮街道、有馬街道が交わる宿場町として賑わいました。また、名水「玉の井」の地として酒造が発達し、さらに「小浜組」と呼ばれる大工衆の町としても名を馳せました。



毫摂寺

2019/05/02 12:48:39

毫摂寺

「小浜御坊」とも称された浄土真宗本願寺派のお寺で、寺内町として発展した小浜の中心となっていました。交通の要衝で武将の往来も多く、豊臣秀吉が有馬湯治へ行く際に千利休を伴って宿泊したといわれています。秀吉の甥の秀次は、このお寺の娘である亀姫を見初めて側室にしましたが、秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹を命じられた際に亀姫も京都の三条河原で処刑されたという悲話が伝えられています。



昆陽寺

2019/05/02 13:28:15

昆陽寺

昆陽寺は聖武天皇の勅願所として、733年(天平5年)に行基菩薩により、畿内49院の1院として建立されたと伝えられている。
 行基は神亀年間(724~29年)に朝廷に奏上し、勅許を受け、方50町歩の土地に田畑を開き、昆陽池を始めとする大小の池や堀川などを築成、灌漑をはかり、水田150町歩を開墾したという。
 その中心に、4町4面に七堂伽藍の堂宇を建立、昆陽寺とした。また、この地は西国街道を通る交通の要所にあったため、布施屋を設けて人々を救済する社会福祉事業の拠点ともなった。
 かくして、昆陽36坊甍を並べ荘厳美を尽くし、摂津第一の巨刹であったといわれる。 その後、度々災禍に遭い、殊に1579年(天正7年)織田信長が有岡城主荒木村重を攻略したときの兵乱時に、本寺および36坊は悉く灰燼に帰した。



荒木自然塚

2019/05/02 13:42:57

荒木自然塚

摂津名所図会では、荒木自然塚として、有岡城落城のとき、殺された荒木久左衛門の十四歳になる子を村人が憐れんで、建立したと記されています。



伊丹の酒作り

2019/05/02 13:55:45

伊丹の酒作り

旧岡田家住宅の正面です。現在、伊丹でつくられている「白雪」と「老松」の樽酒が飾ってありました。 伊丹の清酒は猪名川の水運(当初は馬による運搬でしたが、後には高瀬舟に変わっていきました)で、神崎(尼崎市)から大坂湾に運ばれ、菱垣廻船(享保8=1743年以降は専用の樽廻船に変わる)で江戸に送られていました。寛文(1661~1677)年間以降、幕府の厳しい酒造統制により周辺部の酒造地域が没落していきましたが、伊丹は近衛家の支援で京都にも送られるようになります。

伊丹の清酒造りを始めたのは、山中幸元(ゆきもと)だといわれています。山中幸元は、山陰(月山富田城)を本拠にしていた戦国大名の尼子氏の再興に力を尽くし、天正6(1578)年に討ち死にした山中鹿介(しかのすけ)幸盛の長男でした。
山中幸元は親戚に預けられていましたが、豊臣秀吉の戦乱の中で、猪名川上流の摂津国川辺郡鴻池(こうのいけ)村に落ち延びました。慶長5(1600)年には、幸元の子、鴻池善右衛門が三段仕込みによる清酒の大量生産を始めたといわれ、現在の鴻池には「清酒発祥の地」を示す「鴻池稲荷祠碑」が残っています。その後、鴻池善右衛門は大坂に出て両替商として財をなし、鴻池新田の開発を進めました。



有岡城跡

2019/05/02 14:00:00

有岡城跡

天正2(1574)年に荒木村重が伊丹城を改修して築き上げた有岡城と惣構の城下町は、天正7(1579)年、織田信長に攻められ10ヶ月の籠城を経て落城しました。その後、一時池田信輝(織田信長の家臣)の嫡子之助(ゆきすけ)の支配を受けた後、豊臣秀吉の直轄領になりました。それからは、焼け落ちた城と侍町には人家が建つことなく放置され城の跡は、江戸時代には「古城山」と呼ばれるようになっていました。



猪名寺廃寺跡

2019/05/02 14:13:08

猪名寺廃寺跡

猪名寺廃寺は、塔と金堂が東西に並び、講堂がその北側に配されている「法隆寺式」伽藍配置の白鳳時代の寺院跡です。大正年間に塔跡から運び出された巨大な塔心礎が庫裏の東側に置かれています。昭和27年と33年に発掘調査が行われ川原寺式の軒瓦や鬼瓦・鴟尾のほか、鎌倉時代・室町時代の瓦も見つかっています。この寺は織田信長勢による荒木村重の居城「在岡城(有岡城)」攻略の時焼失したと考えられています。



貴布禰神社

2019/05/02 15:00:04

貴布禰神社

「尼のきふねさん」と親しまれたこの貴布禰神社の主神は海人の守護神であり、また古くから雨乞いの神でした。江戸時代の雨乞神事には、藩主の信仰も厚く、とくに松平忠告は祈雨の和歌10首を奉納するなど藩の社としての役を担っていました。幕末の旱魃や黒船来航の時には藩のために祈祷が行われました。夏祭りには各町会から山車が曳き出されにぎわいます。



尼崎

2019/05/02 15:03:58

尼崎

名所図会では、尼崎の項に遠くに尼崎城が描かれ、手前に中国街道を往く色々な人々と寺町の様子が俯瞰図として描かれている。



大物主神社

2019/05/02 15:16:12

大物主神社

創建は古く、7世紀初めには既に鎮座していた。大田田根子の子孫である鴨部祝(かもべのはふり)が祀ったと云う。市杵嶋姫命は1159年に平清盛が安芸宮島の厳島神社から勧請した。



神崎の渡し

2019/05/02 15:30:02

神崎の渡し

 神崎は、神崎川と猪名川・藻〔も〕川との合流点に位置しており、船舶や人間の往来が増加するとともに、にぎやかな宿場町が形成されました。神崎宿には多数の遊女や白拍子〔しらびょうし〕らも集まり、対岸の蟹島や江口とならぶ歓楽地へと発展していきます。12世紀の初頭頃、当時、貴族のなかで屈指の学者と言われた大江匡房〔おおえのまさふさ〕が書いた『遊女記』のなかで、神崎の地は「天下第一の楽地」であり、瀬戸内海を航行してきて停泊している大きな船のところへ、遊女が小舟をこぎよせて夜伽〔よとぎ〕をすすめる大声は、まさに風浪を圧するばかりであるとのべて、この神崎のにぎわい振りを描いています。
摂津名所図会では、神崎川の流れに渡し船と街道が分かれていく様子(伊丹方面と尼崎方面)が描かれています。



2019/05/02 15:32:05

神崎の遊女塚

法然が讃岐へ遠流〔おんる〕されるさい、神崎の5人の遊女が罪業〔ざいごう〕の深さを懺悔〔ざんげ〕して、法然に念仏を授かって入水〔じゅすい〕し、これを哀れんだ人びとが遺骸を川岸に葬り、遊女塚を建てたという。

1869年(明治2年)、現地の溝に架かる小橋として使用されていたのを村民が発見し修復[5]、神崎の北1町余りの田圃の中にあったが、1916年(大正5年)5月、大日本セルロイドが土地一帯を買収して工場を建設したため、神崎村の小字寺内村の道路脇に移転された。さらに太平洋戦争以後、道路事情の変化により、現在地に移転している。