摂津名所図会を走る(その3END)

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現在の軌跡: 04 05 2019 06:43

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/05/04 06:43:26終了日時2019/05/04 14:38:52
水平距離79.63km沿面距離79.67km
経過時間7時間55分26秒移動時間6時間20分25秒
全体平均速度10.05km/h移動平均速度12.44km/h
最高速度35.04km/h昇降量合計467m
総上昇量233m総下降量234m
最高高度28m最低高度-1m

レポート概要

摂津名所図会(せっつめいしょずえ、『攝津名所圖會』)は、摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌である。

京都の町人・吉野屋為八が計画し、1796年(寛政8年)-1798年(寛政10年)に刊行された9巻12冊となる摂津国の通俗地誌であり観光案内書でもあった。

編集は俳諧師・秋里籬島(あきさと りとう)が担当し、絵は『名物浪花のながめ』(絵本)や『鳥羽絵欠び留』などを描いていた絵師・竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)が担当。秋里籬島による名所の由来記、竹原春朝斎による俯瞰図を多用した挿絵が特徴である。この2人は、1780年(安永9年)に刊行された京都の案内書『都名所図会』(6巻11冊)を皮切りに、その後、吉野屋為八が企画した多くの「名所図会」を手がけていた。
その上、籬島、春朝斎以外にも編者や画家として、たとえば絵師の丹羽桃渓らの参加を求めたので、「名所図会」は見た目が一層にぎやかになった。


秋里籬島、竹原春朝斎が中心となった大坂シリーズには、この『摂津名所図会』以外に、『河内名所図会』『和泉名所図会』『住吉名所図会』があった。
なお、歌川広重にも『浪花名所図会』がある。また東都の『江戸名所図会』が刊行されるのは、この『摂津名所図会』刊行の約40年後のことである。
名所図会の系譜は1902年(明治35)の『本派本願寺名所図会』まで続いているが、「名所図会」の総数は、明治のものまで入れて実に60種余りに及び、関東から九州にわたった。
 なかでも、近畿、東海道、関東のものが多い。18世紀の中ごろから19世紀にかけての日本人の旺盛(おうせい)な知識欲と、物見遊山(ものみゆさん)を兼ねた名所巡りの盛況を表しているといえる。
名所図会のその情報量はかなりのもので、現在でも十分に通用する内容であり尚且つ古来の逸話にも通じていて、現在の旅行案内とは一線を画する。

名所図会を徘徊すると、この200数十年前の 秋里籬島(あきさと りとう)は現地に行って取材をしているのを確信的に感じることができた。
おそらく江戸期もこの時代になると、物事の本質はなにか?という事に対してある程度明確な答えを出せない者は相手にされなかった時代が到来していたことを感じさせる。(いい加減な内容の書籍は買わなかったのだろう、もうこの頃は資本主義的な思想で国が廻っていたのでしょね?)

そんな摂津名所図会を走ってみた。

写真レポート

塩屋駅

2019/05/04 06:46:28

塩屋駅

塩屋はかつて海岸で製塩が行われていたことを地名の由来としているとされています。

この駅で輪行の自転車を組み立てました。
日差しがすでに夏で日焼け止めを塗って今回の

摂津名所図会を走る(その3EN)を始めました。

境川

2019/05/04 06:58:53

境川

今では、兵庫県は広大すぎて旧分国が解らないけど、ちなみに 播磨 摂津 丹波 但馬 淡路 美作 、まで含まれる。
此処界川は(暗渠になっていますので自転車の下に境川がある)摂津と播磨の國境にあたる。

(・・・この川街道を貫きて西は播州塩屋村へ八町なり)とある。、

敦盛塚

2019/05/04 07:01:57

敦盛塚

平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。
 北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。
 敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落としました。大正時代には、子供の病気の神様として信仰され、お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納したと伝えられています。
この塚の横には「そば処 敦盛そば」があり、敦盛そばを食べることができます。
 摂津名所図会には界川より西の話は無い、当たり前であるが。また、名所図会の昔から敦盛塔の前には茶屋があったようだ。
須磨観光協会HP転記

源平合戦史跡  戦の浜碑

2019/05/04 07:06:28

源平合戦史跡  戦の浜碑

名所図会では源平合戦に事柄に多くの項を割いて説明をしている、福原辺りから西須摩へかけ地域の紹介のクライマックスはこのあたりになる。

現在は源平合戦(治承・寿永の乱)の古戦場として知られる須磨。一の谷から西一帯の海岸が一の谷の戦いの舞台とされ、「戦の濱」と通称されています。現在は鉄拐山、鉢伏山を含む103.8haという広大な須磨浦公園として整備されています。海岸の一画に「源平史蹟・戦の濱」の碑が立っている。

須磨観光協会HP転記
江戸時代より人々の興味は余り変わらんな。

関守稲荷神社 須磨関宮跡

2019/05/04 07:15:20

関守稲荷神社 須磨関宮跡

正面に長田宮と書かれた石碑の右面に「川東左右関屋跡」の石碑がある。
「この石碑は千森川と西国街道の交差する場所から掘り出された。関守稲荷の地点とは大分はなれていて、少なくとも千森川の東側に関屋跡といわれるところが一時期あったということになる」。

名所図会にある須磨関所跡と云う事になるだろう。

須磨寺

2019/05/04 07:19:04

須磨寺

一般には「須磨寺」の名で知られています。淳和天皇のころ(823~833年)に漁師が和田岬の沖で聖観音像を引き揚げ、会下山の北峯寺に安置していたのを、886(仁和2)年に聞鏡上人(もんきょうしょうにん)が須磨の地に移したのが始まりとされています。本堂内の室町期の宮殿・仏壇や、木造の十一面観音立像など重要文化財も多く、平敦盛遺愛の「青葉の笛」や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚など、多数の重宝や史跡があり、境内には子規、芭蕉、山本周五郎などの文学碑が点在しています。毎月20日、21日の“お大師さん”には参道に屋台が出て参詣者でにぎわいます。また、源平ゆかりのお寺としても知られています。
須磨観光協会HP転記
阪神淡路大震災の慰霊碑があった。

元長田宮

2019/05/04 07:27:36

元長田宮

元は旧須磨警察署の跡地にあったが北側に移動して現在地に鎮座している。
長田区にある長田神社と前田家とは深い関係があり、證誠神社が須磨の地で栄えるより前の時代に須磨が長田神社の氏子地であった頃の名残だと思われる。
前田家は神功皇后より事代主命を祀るよう命を受けてこの元宮長田神社を祀ったといわれています。大宰府への道中に須磨に立ち寄った菅原道真公に清水を献上したといわれる橘秀祐公はこの流れを汲む人物で、のちに前田姓に改姓した。
上記の清水を汲んだ井戸が菅の井とい呼ばれていたらしいが、旧須磨警察が建設された時に埋められたとのことである。
須磨観光協会HP転記

松風村雨堂

2019/05/04 07:31:22

松風村雨堂

平安時代、在原行平が須磨にわび住まいした際、多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」・「村雨」と名付けて愛しました。行平が都に帰った後、姉妹は、行平の住居のかたわらに庵をむすび、行平の無事を祈りました。 現在の堂は、その庵の跡だと伝えられています。

須磨観光協会HP転記

長田神社

2019/05/04 07:48:39

長田神社

商工業や産業の護り神として崇敬される御祭神「事代主大神」をお祀りし、地元の人々に「長田さん」の愛称で親しまれる長田神社。2001年で御鎮座1,800年を迎え、室町時代から続く古式「追儺式神事」(県指定無形文化遺産)、楠宮稲荷社裏の大楠の御神木、病気平癒や痔のご利益でも有名です。

神戸公式観光サイト転記

湊川楠正成墳墓

2019/05/04 08:09:03

湊川楠正成墳墓

名所図会では、畑の中の小さな塚が描かれてあり 楠碑 とある。
その昔は小さな塚で荒れていたものを徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した。

名所図会では、楠足利湊川血戦 として全項の絵をおごっているまた墓碑ついても4項も説明があり摂津名所図会の中では非常に力が入っている。

西国街道 札ノ辻

2019/05/04 08:27:21

西国街道 札ノ辻

兵庫の高札場は、ここと東西の惣門と、来迎寺(築島寺)前との四ヶ所にありましたが、ここが兵庫の中心であったことから、南仲町のものが有名になっています。

明治元年、幕府の高札は廃しされましたが、新政府に引き継がれ太政官お名前で掲示されて、慶応四年まで設置されていました。

神戸市  岡方協議会  よみがえる兵庫津連絡協議会

古代大輪田泊の石椋

2019/05/04 08:30:25

古代大輪田泊の石椋

石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。

平成17年3月  神戸市教育委員会   兵庫区役所

図絵では俯瞰図で兵庫の津の殷賑ぶりが描かれてある。

和田の笠松

2019/05/04 08:35:10

和田の笠松

和田の笠松は往事須佐の入江の浜に聳え、入港船の目標となり、東西往還の目印の松ともなっていた。
鎌倉時代初期の歌人、藤原為家の歌に「秋風の吹き来る峯の村雨に、さして宿かる和田の笠松」と歌われており、古くから 有名な松だった。
延寶8年(1680)の「福原びんかがみ」には、絵入りで紹介、元禄4年(1691)の絵図にも真光寺のそばに松の絵が入っている。・・・・・・昭和50年11月9日、小河公園内に建立したものである。今回「兵庫津の道」に面したこの地に移設した。

平成15年11月   神戸市、兵庫津の文化を育てる会

一遍上人墳墓

2019/05/04 08:37:59

一遍上人墳墓

時宗の開祖・一遍上人は、1239年現在の愛媛県松山市に生まれ、10歳で出家し一時は還俗したが再度出家して浄土宗に帰依し、その後全国を遊行し念仏を広めた。

1289年(正応2年)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。

中には古い五輪塔がありそれが一遍上人墳墓である。

清盛塚 琵琶塚

2019/05/04 08:41:43

清盛塚 琵琶塚

清盛塚は、清盛橋のたもとにそびえる十三重の石塔(県指定文化財)。平清盛墓と伝えられてきたが、発掘調査の結果、墳墓ではなく供養塔である事がわかりました。隣接する琵琶塚は、琵琶の形をした古墳を琵琶の名手であった平経正の墓として伝えてきたもので、ともに市電の道路拡幅工事により現在地に移されています。
神戸観光公式サイトHP転記

兵庫の生洲

2019/05/04 08:46:33

兵庫の生洲

江戸時代の兵庫は活け魚でも知られ、当地の宿泊客や京・大阪の市場に早船で売り出して好評だった。
寛政八年(1796)の「摂津名所図会」は、魚市のほかに南浜の今出在家町にあった「兵庫生洲」を絵入りで紹介し、長さ十三間、幅四間(24m X 7m)ほどで、屋根を持ち、潮水をたたえた池中には鯛(タイ)・鱧(ハモ)・鱸(スズキ)ほかさまざまな魚が飼われていると記している。
この生洲からは、しけや不漁の時に活け魚を市場に供給したほか、京の御所からの調達にもここから魚を献上したといい、また旅の名所である。
当地が、江戸時代に瀬戸内海航路の東端の港として賑わった兵庫の津の貴重な生洲の址である。・・田辺真人 現地掲示板

名所図会では非常に楽しそうにしてる人々が描いてある。

和田神社

2019/05/04 08:49:59

和田神社

太古の昔、蛭子大神が淡路島から船で本州に到着したところを「蛭子の森」という。蛭子の森は、現在の神社より西南約800mのところで、元々の神社の場所である。平清盛が承安3年(1173年)、市杵嶋姫大神を勧請した。万治元年(1658年)、天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異をあらわし、それを知った当時の尼崎城主が天御中主大神を主神にして社殿を造営し、和田の明神というようになった。明治34年(1902年)、造船所の建設のため現在地に神社が移転された。
ウィキペディア

喜多風家

2019/05/04 08:59:14

喜多風家

兵庫県の旧家。伝説によれば神代から続く歴史を持つ。江戸時代には商人として隆盛をきわめ、とくに北前船による商船航路の開拓に成功し、巨万の富をたくわえた。
維新後1895年(明治28年)北風正造の逝去によって歴史を閉じた。

図絵ではこの喜多風家の事を詳しく紹介している、兵庫の津の隆盛に貢献した家である。

写真は 北風正造碑 で兵庫大仏で有名な能福寺境内にある。

高田屋嘉兵衛本店の地

2019/05/04 09:07:09

高田屋嘉兵衛本店の地

寛政二年(1790)、淡路島から来住した嘉兵衛は、当地で船乗りとしての頭角をあらわし、嘉兵衛が引退する文政五年(1822)まで、高田屋の本店は西出町に置かれていました。

司馬遼太郎の菜ノ花の沖 によると嘉兵衛は北風家にかなり育ててもらった感じがする。

兵庫 佐比江

2019/05/04 09:16:20

兵庫 佐比江

江戸時代の寛政年間(1789~1801年)には既に鎮座しており、商売繁盛・交通安全・防火守護の御利益のある「ちぢみさん」として、西出町の住民に親しまれてきたとされます。
境内の一角には文政7年(1824年)に海の豪商として活躍した高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)から献上された石灯篭があり、その他にも平清盛の弟・経盛の第二子である平経俊(たいらのつねとし)の塚があります。

この稲荷社の裏に猿田彦神社があり、佐比江の遊郭が栄えていた頃、そこの遊女が当時白川にあった山伏山神社(祭神猿田彦命)を深く信仰し、毎月二十四日に大勢連れだって白川まで参詣してにぎわった。何分遠路なので一日かかりとなって差し支えるので、遂に猿田彦命の分霊を佐日江に勧請したと言われる。
名所図会では西国街道の湊川の堤防の松林の脇に さびえ遊女町 として描かれてある。

花隈城跡

2019/05/04 09:33:21

花隈城跡

名所図会では

花隈古城 神戸の上方花隈村にあり・・・とあり、荒木村重の故事(反乱ですな)が説明されてある。

今は西国街道JRの北側に再現されている、中は駐車場となっています。
(高いんだなこのパーキングは)

生田神社

2019/05/04 09:40:47

生田神社

名所図会では生田社として絵入りの説明がつく。

生田神社は1800年以上の歴史を有する古社。生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれました。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味です。近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多数です。神戸公式観光サイトHP転記

三宮の繁華街で物凄いひとでした。

処女塚古墳

2019/05/04 10:04:25

処女塚古墳

関連リンク

名所図会では 處女塚・・求女塚ともいわれ・・と大和物語の引用を長々と書いて説明がある。

中々に人気があったんでしょうね?

万葉集に原典を求める事が出来るそうで、大和物語や謡曲にも使われているのですが、後述する
芦刈なども今の感覚からは わからない 物語がありますね。

処女塚への道標

2019/05/04 10:06:22

処女塚への道標

西国街道沿いの古い道標には 兎原をとめ塚とあります。
昔は野原であったことでしょう。

名所図会ではこの乙女の取り合い合戦を詳しく紹介している、ここに道標があると云う事は尋ねる人が多かったのでしょう?

兎原住吉社 のだんじり

2019/05/04 10:15:15

兎原住吉社 のだんじり

この日は祭礼の日で だんじりが 出ていました。

泉州も祭りは派手ですがこちら 力が 入ってますね。

大工方が張り切っていました。

兎原住吉社 

2019/05/04 10:16:37

兎原住吉社 

神功皇后が新羅遠征の帰途、難波を目指して大阪湾に入ったところで船がぐるぐると廻り進まなくなった。武庫の湊に引き返して卜(占い)をすると、天照大神を廣田(西宮市の廣田神社)に、稚日女尊を活田(神戸市中央区の生田神社)に、事代主尊を長田(神戸市長田区の長田神社)に祀れとの御神誨(ごしんかい、おつげ)があったので、それぞれ神主を選んで祀らせた。
 この時、「住吉大神を大津渟名倉長狭(おおつのぬなくらのながお)に祀れ、そこで行き交う船を看ん」とおつげがあったので、神功皇后は住吉大神をこの地(神戸市東灘区)に鎮めた。

名所図会では兎原住吉社とされている。

西宮浦 鯛の一本釣り

2019/05/04 11:10:37

西宮浦 鯛の一本釣り

名所図会では、・・・西宮御前の沖の桜鯛は・・・と続く。

西宮神社の全面辺りの浜で江戸時代には鯛の一本釣りをしていたのでしょう?絵は緊迫感のある漁師の姿を描いてある。

西宮神社

2019/05/04 11:18:04

西宮神社

西宮神社は、山陽道と中国道の分岐点である西宮にある。商売繁盛の「えべっさん」の総本山として有名で、祭神は蛭子(ひるこ)命である。1872(明治5)年に広田神社から分離独立した。室町時代には漁業・商売の神として、福徳信仰の一種として栄えた。

西宮の傀儡子

2019/05/04 11:21:32

西宮の傀儡子

の附近は昔産所といわれたところで一六九〇年頃には 四十軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。
 傀儡師は遠く平安末期に現われ傀儡子・木偶まわし・ 人形まわしなどと呼ばれ諸地方を巡廻興行していたが 室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に住みつき 西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社のお札を持って諸国を めぐりお得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
一五九〇年頃にはその人形芸が 「えびすかき」又は「えびすまわし」と云われて全国的に 知られるようになりたびたび京都の宮廷で展覧を受ける までにもなった。さらにその後発展して淡路の人形座や 文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。
 しかし一八五〇年ごろから彼らはおいおいこの地から なぜか姿を消してしまった。おそらくは世相の変遷や好みの 変化によるものと思われる。
傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神と信ずる百太夫を 崇神して神社にまつり守護神としたがその社は産所の地が 一八四〇年ごろに衰徴するに至った時すぐ近くの 西宮神社の境内に移されて現存している。
      昭和六十三年三月三十一日  掲示板

廣田神社

2019/05/04 12:03:10

廣田神社

廣田神社の主祭神は天照大神の荒魂であり、荒魂を京都に置くのは良くないということでこの地に祀られた、日本書紀にも出てくる古社である。それ故、京都から見てこの地が西国方向を目指す街道上にある神社ということで、西宮と呼ばれたのが今の西宮の語源であるという。

かつては官幣大社でもあっただけにただならぬパワー感がありました、当日結婚式で幸せそうな新婦が鳥居の前で写真を撮っていました。

岡太神社

2019/05/04 12:30:45

岡太神社

宇賀天皇寛平五年(893)に武庫郡広田の人、岡司氏がこの地を開発して、浜村と云い、
延喜元年「天御中主大神(あめのみなかぬしおおみかみ)を主神に広田の大神五柱を末社として
共に鎮祭せしを起源とし、由って岡司宮と称する。

名所図会では武庫川に掛かる流れ橋の先に おかしの宮 として描かれてある。

境内隅に「伝 小松内府 平重盛卿 供養塔」がある。

中国街道の道標

2019/05/04 12:48:36

中国街道の道標

神田南通3の辻に建つ道標(弘化3年)

「左 西ノ宮兵庫」
「右 大坂道」

大ぶりで目立つ道標、大阪の街が発展すると尼崎経由で西国へ移動する人が増えた事だろう。

初島天神宮

2019/05/04 13:07:35

初島天神宮

関連リンク

創始は不詳ながら、正和年間(14世紀)といわれています。『尼崎志』には、近江坂本の日吉神社に属する一社が尼崎に祀られ、のち別所町と別所村に分社。別所町南浜(現東本町4丁目)の初嶋恵比寿が築地開発にともない寛文6年(1666)現在地に移築されたとしています。
静かな海原に浮かぶ小船、点在する幾多の芦茂る砂州の島々、白砂につらなる青松は、摂津の松島と詠われました。
この他所と異なる浦、景勝の地を多くの歌人達は「歌枕 裏の初島」と呼び、しげくこの地を往来したと言われています。
江戸時代以前に言う初島は、現在の築地・松島・初島の一帯の島々を指した大物浦の風景をいいます。
名所図会にある芦刈の挿話はこのあたりが舞台の様子です。能のお題にもなっていますが、いまいちよくわからん?話です。

大物崩れ

2019/05/04 13:14:37

大物崩れ

戦国時代、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立がありました。細川政元の養子高国と同じく養子の澄元・晴元父子が対立し尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)の両者決戦では、高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込む程の大敗となりました。追撃は激しく高国は大物の広徳寺で自刃しました。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。

澪標住吉神社

2019/05/04 13:35:22

澪標住吉神社

豊臣秀吉が大阪城を築いてから、当地は「伝法口」として賑わい、また良質の水に恵まれていたために各種酒造の本場となり、江戸時代には樽廻船が遠く江戸・東北・北海道にまで販路を伸ばすようになりました。
 それと共に当神社は、土地の守護神として、また航海、交通の神として崇敬され奉幣あいつぎ社殿・境内も大いに改まりました。このことは現存する社殿・石燈籠・こま犬等によってもうかがいしれます。 明治の中頃まで、当社の南にあった浜辺に、大きい「澪標」があり、二基の燈籠が水面に映え、樹木を背景にに朱塗りの大鳥居が建ち、誠に厳かだったといいます。航海から帰った人々は、無事帰還した喜びを噛みしめたことでしょう。平成祭礼データ転記



かつて伝法では千石船が殷賑をきわめていました、兵庫の津 西宮の酒 伝法の造船 は三位一体で共に発展しました。

鴉宮(からすのみや)

2019/05/04 13:37:50

鴉宮(からすのみや)

建保3年(1215年)海運に従事していた人たちが、港の繁栄を願い土地の鎮守神として伝母頭(もりす)神社を創建したのがはじまりという。秀吉が出兵の際に3本足の鴉が先導、海路平安であったところから本宮鴉宮と改められたと伝えられる。

鴉宮

2019/05/04 13:38:24

鴉宮

正面中央に船の舳先が設えられた、いずれも昭和6年(1931年)建造の拝殿、中門、透かし塀、本殿はいずれも国登録有形文化財。

船乗りたちの信仰を集めたことがよくわかる、江戸期の船乗り(持ち船」)は非常にもてた。
今日で言えば、一航海で数十億の儲けを出して尚且つ命がけであり、金の払いも良いので
もてて当然dすわなぁ。