住吉名勝図会を走る

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2019-05-06 12-33

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/05/06 12:39:38終了日時2019/05/06 15:57:48
水平距離30.28km沿面距離30.28km
経過時間3時間18分10秒移動時間2時間50分26秒
全体平均速度9.17km/h移動平均速度10.59km/h
最高速度34.87km/h昇降量合計99m
総上昇量49m総下降量50m
最高高度15m最低高度0m

レポート概要

住吉名勝図会 - 秋里籬島作・岡田玉山画、寛政7年(1795年)刊。

名所図会の刊行は寛政年間から文化年間初期にかけてと、天保年間以降の2つの時期にピークが見られ、これらふたつの時期の間の文化・文政年間には、江戸幕府の出版等政策の関係からか、再版が主となり新刊は少ない傾向が見られる。また、ほぼ同時期に流行した狂歌や、浮世絵(なかでも特に、葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』や歌川広重『六十余州名所図会』といった風景画)、戯作者の手による名所案内記など、多くのジャンルとの間に相互に影響を及ぼしあったものと見られている。

名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴がある。名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている。

こうした名所図会の最初の例は安永9年(1780年)刊の秋里籬島著・竹原春朝斎画の『京名所図会』(6巻11冊)を嚆矢とされる。『京名所図会』は前述のような特徴を備えて、見て楽しむことに重きを置き、通俗に徹しながらも詩歌俳句の類をもとりいれて興味深いものとしたために、好評を博した。版元の吉野家為八は同じ著者・画家による名所図会を引き続き刊行し、それらも同じく成功を収めたことに刺激を受け、他の版元も名所図会の出版に乗り出した。

写真レポート

長狭浦  忌竹 汐刈

2019/05/06 12:39:38

長狭浦 忌竹 汐刈

関連リンク

住吉大社正面の大鳥居から現在の住吉公園の中央を西へ貫いて阪神高速を越え姫松橋辺りまでの海は長狭 (ながお) の浦は出見の浜とも呼ばれ、潮干狩りの名所でした。

住吉名所図会にある海岸線から神が降臨す場所である忌竹が描かれてある場所は姫松橋辺りでは無かったか?
また図絵に描かれる潮干狩りの人たちは非常に楽しそうである。

長狭橋

2019/05/06 12:43:24

長狭橋

阪神高速の下、かつて此処には元禄11年 (西暦1698年) に開削された十三軒堀川があり住吉名所図会に描かれる長狭橋が掛かっていた。

船場や道頓堀辺りから船で参詣・来遊することが盛んでしたが、ちょうどこのあたりで船から上がって参拝や潮干狩りに赴いたのだろう。

住吉高灯篭

2019/05/06 12:43:46

住吉高灯篭

国道26号住吉大社前交差点沿いに再建された高燈籠です。
高燈籠の内部は平成17年(2005)に改装され、現在は資料館として使われています。

開館日にはおじさんが詰めています。

住吉高灯篭

2019/05/06 12:45:02

住吉高灯篭

関連リンク

住吉高燈籠、元は現在地から200m程西方にありました。
この自転車に囲まれた碑がその場所ですね。

剣先船立葭場請所道標

2019/05/06 12:45:30

剣先船立葭場請所道標

関連リンク

剣先船は江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。
宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。
住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。
船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。

図絵では屋形船が描かれているが、大多数はこの剣先船が使われたのだろう。

十三間川跡

2019/05/06 13:01:33

十三間川跡

十三間川は海岸線に沿って人工的に作ったので、川を埋め立てて造った阪神高速堺線は当然 うねって いる。

十三間川跡

2019/05/06 13:05:11

十三間川跡

南海電鉄汐見橋線と阪神高速が交差するこのあたりでかつての十三間川は木津川から分流していた。

剣先船に乗った船場の旦那衆も十三間川に船が入ると住吉大社が近いなと感じた事だろう。

鉄眼寺

2019/05/06 13:15:55

鉄眼寺

鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、救世の大士といわれた。
大阪市HP転記

人気がある寺だったようで、摂津名所図会にも描かれてある。

道頓堀川

2019/05/06 13:19:11

道頓堀川

このあたりから剣先船に揺られてきたのでしょう。

廣田神社

2019/05/06 13:28:57

廣田神社

大阪の廣田神社の神使は「アカエ」とされています。「アカエ」とはエイの一種である「アカエイ」の関西での呼び名であり、当社では痔疾および難病悪疫の守り神として信仰されている。

人気がある社だったようで、摂津名所図会にも描かれてある。

戎神社

2019/05/06 13:29:40

戎神社

福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても篤く信仰されるようになりました。特に江戸時代になると、1月9・10・11日の三日間にわたって「十日戎」の祭礼が開催され、宝恵籠の奉納も行われるようになりました。

人気がある社だったようで、摂津名所図会にも描かれてある。

名呉の浦

2019/05/06 13:31:30

名呉の浦

 上古、この辺りは白砂青松の景勝地で、呉の国から織女たちが渡海して、この浜に着岸したので「名の海」「名呉の浜」などと呼ばれました。
 しだいに陸地化して、この「名呉」が「名呉町」となり、さらに転じて「長町」となったといいます。名呉橋が架かっていた鼬川は、江戸時代には大坂三郷の南端を西から東に流れて、七瀬川(現在は埋め立て)、木津川に合流した川で、昭和29年(1954)頃に埋め立てられました。

紀州街道 札辻

2019/05/06 13:33:26

紀州街道 札辻

”札の辻”とは、現在の恵美須町交差点の西の辻のことで、そこから今宮新家・天下茶屋・住吉・安立を経て、堺・紀州に至った。

松虫塚

2019/05/06 13:48:36

松虫塚

松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(いまの鈴虫)の名所であったところから松虫の音にまつわる風流優雅な詩情あふれる次のような物語が伝承されています。

 二人の親友が月の光さわやかな夜麗しい松虫の音をめでながら道遙するうち虫の音に聞きほれた一人が草むらに分け入ったまま草のしとねに伏して死んでいたので残った友が泣く泣くここに埋葬したという。

掲示板

聖天坂

2019/05/06 13:54:27

聖天坂

この坂を上り北に上がれば聖天山正圓寺にたどり着く。
1690年頃この地に堂宇を移築再建し、大阪湾が一望出来る景勝地にちなんで、山号を「海照山」、寺号を「正圓寺」と改称する。

住??名所図会にある紀州街道から分かれて聖天とされる道はこの坂の事だろう。

天下茶屋 ぜざい

2019/05/06 13:56:03

天下茶屋 ぜざい

関連リンク

 現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、公園東口の横に石碑が立っています。薬屋是斎屋は寛永年間(1624~44年)近江の国の津田宗右衛門が住吉街道に面した当地へ来て「和中散」という薬を商ったのが起こりで、街道の旅人達で大いに繁盛したといいます。また、茶屋としても有名でした。

安養寺

2019/05/06 13:58:29

安養寺

 浄土宗知恩院派一心寺の末寺で、本尊は阿弥陀仏、元禄2年(1689年)3月貞誉清薫尼によって創建された尼寺です。明治20年の失火と昭和20年の戦災で2度焼失し、現在の寺は昭和34年再建のものです。
 境内には近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」に登場する紙治おさんの墓、大坂相撲の名力士だった猪名川弥右衛門の墓、すぐれた狂歌師であった佐藤魚丸の墓があります。

紹鴎の森と呼ばれた天神ノ森

2019/05/06 14:00:28

紹鴎の森と呼ばれた天神ノ森

応永年間(1394~1428)に京都・北野天満宮の分霊が奉祀され現在に至る。現在の本殿は1702(元禄15)年に造営されたもので、境内には樹齢600年以上というクスノキの大樹が茂る。
室町末期の茶人・武野紹鴎がここに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけ、風月を友に静かに暮らしたので「紹鴎(じょうおう)の森」とも呼ばれた。紹鴎の侘び茶は弟子の千利休へと引き継がれ、歴史にその名を残した。
境内にある安産祈願に御利益があるといわれている「子安石」は、淀君が懐妊したときには堺の政所に往来していた豊臣秀吉も立ち寄り祈願をしたと伝えられている。現在も、子安石の回りの小石を持ち帰り、無事出産後もとの位置に戻してお礼参りする風習が残っている。

天下茶屋

2019/05/06 14:06:08

天下茶屋

天正年間 (1573~92) に初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。三代目の頃、住吉大社を参拝した豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えたことから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」の名が起こったといわれる。

岸の姫松

2019/05/06 14:16:32

岸の姫松

「住吉名勝図会」(寛政七年刊)に帝塚山と岸の姫松が街道に沿って描かれています。

古くはこの界隈にも松原が続き、松の木が多く茂っていましたが、市街化され、今は住宅地となって、わずかに五本の松だけが本校前の道路に沿って残されました

岸の黄土

2019/05/06 14:28:42

岸の黄土

万葉歌の住吉を詠んだ歌に数多く出てくる『黄土(はにふ)』

※岸の黄土(埴生) 断崖の赤土。きめの細かい黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料。また、上代には衣にすりつけて模様を現すのにも用いた。赤や黄に発色する物質は霊力を持つと考えられた。

万代池

2019/05/06 14:35:07

万代池

住吉村誌によると「萬代池には古来幾多の伝説があるといわれている。
一つの里老の伝えるところによれば、昔ここには不思議な魔物が住むとされていた。阿倍野街道を往来する人を悩ませ恐れられていたので、聖徳太子は四天王寺から人を遣わし、魔物を鎮めるためにお経をあげさせた。その後再び魔物が現れることはなくなったと言う。
 その時あげたのが曼陀羅(まんだら)経であったことから、曼陀羅池(まんだらいけ)とここを呼ぶようになり、これが訛り、萬代池(まんだいいけ)になった」

帝塚山

2019/05/06 14:41:20

帝塚山

4世紀末~5世紀初頭の古墳と推定され、大阪市内で唯一原形をとどめる前方後円墳です。前方部を南西に向け、全長約120m、前方部の幅が約50m、高さ約8m、後円部の直径約57m、高さ約10m。大伴金村の墓という説もありましたが、6世紀前半に活躍した金村とは時代が合わず、被葬者は不明です。

奥の天神 生根神社

2019/05/06 14:48:35

奥の天神 生根神社

祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)。江戸時代は住吉大社の摂社であったが、明治5年分離した。本殿は淀君の寄進で、桧皮葺(ひわだぶき)・壱間社流造り(いっけんしゃながれづくり)の桃山時代の様式を残している。慶長5~6年(1600ごろ)の建立と伝えている。
 境内に天神社も併祭しているので、一般に「奥の天神」といって親しまれている。

荘厳浄土寺

2019/05/06 14:55:35

荘厳浄土寺

創建は天慶年間の頃(930~46年)と推定され、1084年(応徳元年)住吉大社第39代神主
津守国基は白河天皇の勅命により、八町四方の寺域を以って再建したと伝わる。

寺内には無造作に古い礎石があった。

細江川

2019/05/06 15:07:26

細江川

住吉区南住吉の住宅街にしつらえられた細井川親水公園の水路。(写真は東西に流れる細井川)
都市整備事業で作られた施設で、流水は高度処理水らしく綺麗。
近所の子供たちのオアシスと成っていたが、今では水も流れていない。

一休禅師牀菜庵

2019/05/06 15:14:16

一休禅師牀菜庵

一休和尚(1394-1481)が晩年仮棲したところである。文明元年(1469)奈良から堺に来て住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨がここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。文明10年(1478)には京都へと去ったが、庵跡は明治初年までそれらしき門跡や竹藪が残っていたという。

浅澤社

2019/05/06 15:18:35

浅澤社

創建の由来は不詳ですが、古くは当地から南にかけて清水の湧く大きな池があり、その池は「浅沢池」と呼ばれてカキツバタが美しく咲き乱れる名勝であったとされています。そのため、古くから歌人たちに愛され、『万葉集』を始めとする歌集に収められた歌の中に その名を見ることが出来るそうです。

住吉神宮寺跡

2019/05/06 15:21:53

住吉神宮寺跡

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神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたという。当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

住吉大社本殿・第一殿 国宝

2019/05/06 15:23:12

住吉大社本殿・第一殿 国宝

すみよっさんは平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に名を連ねる式内社であり、また摂津国の一宮をも担っていた古社である。

神殿四棟はすべて国宝指定を受けている。

御田植神事

2019/05/06 15:31:33

御田植神事

当時と同じ格式を守り、華やかで盛大に行っており、重要無形民俗文化財に指定されています。神功皇后が田んぼを設け、御田を作らせたのが始まりだといわれています。田植えに際して音楽を奏で、歌をうたい踊りや舞を演じるのは、田や植付する苗に宿る穀物の力を増やすためです。穀物が豊かに育ち、稲穂が十分に実る秋を迎えるための儀式として、今でも厳かに行われています。

住吉大社 南門

2019/05/06 15:37:10

住吉大社 南門

南門は切妻造、本瓦葺の四脚門で、東西楽所はその左右に連なる。石舞台はほぼ方形の石造橋上に造られたもので、舞楽を演じる時には木製高欄を立てる。

 社殿配置の重要な一環であると同事に、門、楽所、舞台がセットで残る舞楽施設として重要であり、また住吉大社の慶長造営時の遺構として貴重な資料である。1607 (慶長12)       重要文化財 (建造物)

住吉大社石舞台

2019/05/06 15:39:58

住吉大社石舞台

住吉大社南門の奥に存在する石舞台(重要文化財)
厳島神社、四天王寺の舞台と共に、日本三舞台と称されている。
図絵では此処で奉納される雅楽を描いている。

小町茶屋跡

2019/05/06 15:43:33

小町茶屋跡

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紀州街道を横切る細江川にかかる御祓(おはらい)橋南詰西側にあった茶店で、明治の中ごろまであった。紀州街道を往来する旅人が一息入れる茶店として賑わったという。ここの看板娘は、お茶をサービスするとき、いたずら防止策として、長柄のひしゃくに茶わんをのせ差し出したそうであるが、これがまた評判を呼んだ。

難波屋松跡

2019/05/06 15:44:03

難波屋松跡

関連リンク

小町茶屋から50mほど南へ行った反対側(東側)に難波屋という茶屋があり、ここで「あんもち」を売るなど繁盛した。その前栽には大小2本の老松があり、地をはうばかりに四方に枝先をひろげていた。その形が、笠に似ているところから笠松とよはれ、街道を往来する人が必す見物に立ち寄ったという。その名松も、昭和20年ごろ遂に枯死してしまった。

現在安立小学校で松の木を育てているらしい。

霰松原

2019/05/06 15:47:25

霰松原

この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。