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開始日時 | 2013/10/12 10:42:13 | 終了日時 | 2013/10/12 16:04:44 |
水平距離 | 72.78km | 沿面距離 | 73.45km |
経過時間 | 5時間22分31秒 | 移動時間 | 4時間43分01秒 |
全体平均速度 | 13.67km/h | 移動平均速度 | 15.57km/h |
最高速度 | 94.10km/h | 昇降量合計 | 2061m |
総上昇量 | 961m | 総下降量 | 1100m |
最高高度 | 149m | 最低高度 | -10m |
開始日時 | 2013/10/12 10:42:13 | 終了日時 | 2013/10/12 16:04:44 |
水平距離 | 72.78km | 沿面距離 | 73.45km |
経過時間 | 5時間22分31秒 | 移動時間 | 4時間43分01秒 |
全体平均速度 | 13.67km/h | 移動平均速度 | 15.57km/h |
最高速度 | 94.10km/h | 昇降量合計 | 2061m |
総上昇量 | 961m | 総下降量 | 1100m |
最高高度 | 149m | 最低高度 | -10m |
2013/10/12 11:23:18
道路元標とは、道路の路線の起点や終点や経過地を表示するための標識をいい、明治期に設置されたものについては、里程元標(りていげんぴょう)と呼ばれている。
江戸時代、大坂における里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。この地は京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道程の起点となった。
1876年(明治9年)道路の制度公布により、ひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。
また、高麗橋は 江戸時代から幕府管轄の12の公儀橋のなかでも格式が高く、西詰には幕府のお触書を掲示する町奉行所の制札場があった。
1870年(明治3年)大阪最初の鉄橋が掛けられたのも、この高麗橋である
2013/10/12 11:27:28
大阪瓦斯ビルディングなどの設計で知られる、近畿地方を代表する建築家安井武雄の設計で1927年に建てられた。当時としてはまだ珍しかった鉄骨鉄筋コンクリート構造で、戦前は地上は5階までであったが、戦後に6階・7階を増築しており、外観・建築様式が明らかに異なっている。
2013/10/12 11:30:48
1900年代に建てられた和風の商家であり、その大部分が重要文化財に指定されている。1996年12月20日に主屋、衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録された[2]。また2001年6月15日には、主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財に指定された。
2013/10/12 11:42:48
日本橋三丁目の道標ここまでが中央区でここから南が浪速区
2013/10/12 11:47:23
かつての紀州街道はこの辺りが市街地と街道の接点であった様子で。
札の辻と呼ばれていました。
2013/10/12 11:53:08
2013/10/12 11:59:33
当地にあった芽木家の跡の一部である。豊臣秀吉が住吉大社や堺に行く途中、紀州街道(住吉街道)沿いにあったこの屋敷で茶会を催したという故事から、天下茶屋という名前が付いた。
2013/10/12 12:03:48
2013/10/12 12:08:28
2013/10/12 12:08:43
2013/10/12 12:14:03
この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下、和歌山に至っている。この付近は街道の面影をよく残しており、新しく街道名の入った道しるべが建てられるなど、歴史の顕彰が行われている。
2013/10/12 12:15:08
入り口の古い町家
2013/10/12 12:16:18
ふと横を見るとラビリンスがある。
2013/10/12 12:19:53
現在の大和川の下流部は、江戸時代の中期に付け替えられたもので、大和橋は、そのとき紀州街道が大和川を渡るところに架けられた橋であった。
2013/10/12 12:22:23
2013/10/12 12:26:48
この辺りは道路拡張されているが、古い町家が残る。
2013/10/12 12:39:28
司馬遼太郎氏の街道を行く、紀州街道のプロローグはここから始まっている。
2013/10/12 12:46:03
2013/10/12 12:47:38
堺市石津町、旧紀州街道の石津川太陽橋南詰に、北畠顕家の五輪の供養塔が建てられており、塔には「源顕家公 南部師行公 殉忠遺蹟供養塔」の文字が刻まれている。
2013/10/12 12:56:38
2013/10/12 13:02:38
2013/10/12 13:04:33
2013/10/12 13:08:28
2013/10/12 13:10:03
田中家は、清和源氏の系統で、新田氏と同族関係にあると伝えられ、室町末期の元亀年間(1570~73年)に田中遠江守重景が助松村に移住したのが初めとされています。江戸時代には大庄屋を勤め、徳川頼宣公が紀州に封じられてからは、紀伊徳川家の指定小休所として本陣を承っていました。
屋敷は、旧紀州街道沿いにあって、1町(約110m)四方の大きさで、江戸時代の豪農であったことがうかがわれます。
2013/10/12 13:20:48
2013/10/12 13:26:48
2013/10/12 13:42:23
2013/10/12 13:48:53
このあたらりの町家風景が紀州街道随一の街道風景が見ることが出来る。
2013/10/12 13:56:03
2013/10/12 14:10:43
土壁が残る街道風情
2013/10/12 14:14:38
2013/10/12 14:27:43
2013/10/12 14:29:28
2013/10/12 14:29:28
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2013/10/12 15:00:13
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