浪花百景をライドルその1

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2019-08-13 06-12-分割(001)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/08/13 06:12:50終了日時2019/08/13 09:29:14
水平距離35.36km沿面距離37.22km
経過時間3時間16分24秒移動時間2時間16分03秒
全体平均速度11.37km/h移動平均速度16.22km/h
最高速度184.15km/h昇降量合計821m
総上昇量413m総下降量408m
最高高度46m最低高度-66m

レポート概要

江戸時代後期から明治初期にかけて、大阪を中心に数多くの上方浮世絵師が活躍し、役者絵や風景版画にその業績を遺しました。また、江戸で活躍する浮世絵師も、商都浪花の繁栄ぶりや名所・旧跡に心を寄せ、様々な風景版画を描きました。

その中の一つに、浪花百景がその量と質に於いて抜きんでた作品である。
(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員・芳滝・芳雪による合作で、幕末に大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも云われる。

今現在浪花百景で描かれた場所がどうなってるのか?訪ねてみた。

枚数が多いので5-6回に分けて尋ねる計画である。

写真レポート

枚方宿

2019/08/13 06:27:07

枚方宿

江戸時代の枚方は、東海道の延長部“京街道”の宿場町でした。また、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもありました。

鍵屋当資料館は平成9年(1997)まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用しています。

かつての旅籠の見学できる残す数少ない資料館です。

三嶋江

2019/08/13 06:47:19

三嶋江

三島江は古く万葉集にも詠まれた淀川水運の結節点で、江戸時代には高槻城下や富田、芥川、茨木などと結んで物資を揚げ下しする過書船(かしょぶね=淀川での通船許可書を持った船)が多く出入りした。また能勢見山や神峰山寺(かぶさんじ)への参詣者も三十石船などを利用して乗り入れたので、岸には荷船問屋や茶屋などが軒をらねて賑わった。現在は陸上交通の発達と護岸により昔日の面影をとどめていないが、享和元年(1801)建立の石標と昭2年(1765)奉納の妙見灯籠はは今も現地に残っている。

三嶋江

2019/08/13 06:38:58

三嶋江

淀川の堤防上を走っていると雰囲気のある家があった。

かつての三嶋江は明治後の治水堤防工事で移転して面影を残すものがほとんど存在しない。
かつてはこんな感じの家が立ち並んでいたのだろう。

「水」の文字飾りは普通は火伏せのマジナイですが、ここでは洪水除けでもあるのではないか?

三嶋江

2019/08/13 06:46:06

三嶋江

堤防を高くする工事でかつての三嶋江は存在してしていません。
高くなった堤防からは生駒の山並みがよく見えます。、

三島江浜跡(妙見宮常夜灯石灯篭

2019/08/13 06:47:19

三島江浜跡(妙見宮常夜灯石灯篭

明治後の堤の下に、かつて三嶋江にあった灯篭が移されてきてあり、掲示板があった。


三島江浜は北の唐崎浜と共に大坂と伏見を結ぶ淀川過書船(独占的な営業を許された荷船)が出入りする河港として栄えました。当時は和歌にもその美しさを詠われ、今も妙見灯篭が往時を偲ばせています。
高槻市〇〇ナビ転記

佐太天満宮

2019/08/13 07:13:31

佐太天満宮

由諸;
 当宮は、学問の神様として崇敬厚い菅原道真公を御奉祀する神社であります。昌泰四年(九〇一)に菅公が筑紫の大宰府に遷せられし途中、公の御領地であった当地に暫時滞在され、その出立に際して御自身の木像と自画像を残されました。この時楊枝を土に挿し「わが身の無実の罪たる証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓われたところ、程なく発芽して、見事な松の木に成長したので、その名を「アカ松」(明しの松)と称えられました。
大阪府神社庁第三支部ホームページより

佐太天神社

2019/08/13 07:13:31

佐太天神社

この神社は淀川左岸近く、1号線・佐太中町7信号東に鎮座しています。
 1号線に立つ一の鳥居から参道は東に向かって約100mほど続き、その間、御旅所、愛宕社、稲荷社が参道脇に祀られています。
 神門を入ると、すっきりと落ち着いた境内中央奥に鈴昭和が護る唐破風付き入母屋造りの拝殿、弊殿と本殿が建立されていますが、本殿は府の指定有形文化財となっています。又、境内の北から東側には「大阪緑の百選」に選ばれた境内林が茂り、『河内名所図絵』にみえる江戸時代の景観を、現代までしっかりと残しています。

江口君堂

2019/08/13 08:05:04

江口君堂

寺伝によると、当地の遊女「江口の君」は、実は平資盛(すけもり)の女で妙(たえ)といい、平家没落の後ここに来たという。仁安(にんあん)2年(1167)、西行法師が天王寺詣の途中たまたま当地を通行中、にわか雨に会い、彼女に一夜の宿を乞うたところ断られたが、歌の贈答があってその奥ゆかしさに、一夜を語り明かした(問答歌は、新古今和歌集にも収められている)。その後、妙女は仏門に帰依し、庵を結んだと伝える。
 この付近は、平安鎌倉初期にかけては、京都との水運の要衝に当たる関係上、大いに賑わい、多くの遊女がおり、当時の有名公卿等も訪れた記録が残っている。遊女の中には没落有力貴族の子女も含まれていたという。その後元弘(げんこう)・延元(えんげん)の乱で焼失。現在の建物は正徳(しょうとく)年間(1711~16)の再建である。
大阪市HPより引用

江口君堂

2019/08/13 07:40:56

江口君堂

この日はおばあさんが熱心にお参りしていた。

柴島晒堤

2019/08/13 08:15:22

柴島晒堤

柴島の地は、神崎川と中津川に囲まれた中州である中島にあり、若干の高地(芝ガ洲)にあったと思われている。この地は近代の淀川改修事業で一部は淀川の河川敷になり、中津川も廃川となってしまい現在その地形は失われている。明治時代初旬に作成されたと思われる『東摂城址図誌』(東城兎幾雄編)に柴島城も記載されており、それによると城跡の大きさは二町四方で、周囲より四尺ほど高い畑地があったとしているが、その畑地は現在大阪市立柴島中学校となっている。

「柴島晒(さらし)ゆかりの地」の碑

2019/08/13 08:05:04

「柴島晒(さらし)ゆかりの地」の碑

江戸時代、大坂の周辺では綿花の栽培が盛んで、それろ原料とした木綿業が発達していました。

柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を荒い、それを干して乾燥させ、陽にあてることで白く加工するという、晒業さらしぎょうが営まれていました。

「摂津名所図絵大成せっつめいしょずえたいせい」という書物には、淀川の堤防上に白く敷き詰められた木綿が、まるで雪が降り積もったようで、たいへん美しかったと記されています。

明治の末には、年間八百万反を生産し、大阪の主力産業のひとつでしたが、淀川の改修工事や柴島浄水場の建設などの影響もあり、むかしからの晒業はおとろえてしまいました。

大阪市教育委員会

宗禅寺場々

2019/08/13 08:22:17

宗禅寺場々

崇禅寺馬場とは、崇禅寺の西門から中島惣社のあいだと、その南側に広がる広大な松原
のことです。浪華百景の錦絵に描かれ、明治になって絵葉書にもなっています。

崇禅寺馬場の仇討

2019/08/13 08:15:22

崇禅寺馬場の仇討

関連リンク

崇禅寺馬場の仇討の方が有名かもしれません。

長柄三頭

2019/08/13 08:35:34

長柄三頭

長柄三頭は、淀川と中津川との分岐点付近の通称で、往時は北に向かって長く砂州が伸び、風光明媚な地として知られた。明治18年(1885)の淀川大水害を契機に、同29年から43年(1895~1910)にかけて淀川改修事が行われ、中津川の一部を利用して新淀川が開削されるとともに、市内を洪水から守るため毛馬閘門が設置され、旧淀川(大川)に注ぎ込む水量が調節されるようになったそのため景観は一変してしまった。平成22年(2010)その淀川改修完成から100年目にあたる。

長柄三頭

2019/08/13 08:22:17

長柄三頭

長柄三頭は、淀川と中津川との分岐点付近の通称で、往時は北に向かって長く砂州が伸び、風光明媚な地として知られた。明治18年(1885)の淀川大水害を契機に、同29年から43年(1895~1910)にかけて淀川改修事が行われ、中津川の一部を利用して新淀川が開削されるとともに、市内を洪水から守るため毛馬閘門が設置され、旧淀川(大川)に注ぎ込む水量が調節されるようになったそのため景観は一変してしまった。平成22年(2010)その淀川改修完成から100年目にあたる

毛馬

2019/08/13 08:35:39

毛馬

江戸時代中期の俳人・画家として知られる与謝蕪村の生誕地・毛馬は、淀川が中津川を 分岐して大きく湾曲するところの左岸に位置し、対岸の長柄と毛馬渡しで結ばれていた。
錦絵には、淀川を遡る三十石船が描かれているが、『淀川両岸一覧』によると、上り舟の 場合、天満川崎で水主は上陸し、そこから右岸の木材堤を長柄三ツ頭まで引っ張り、ここで 対岸の毛馬に渡って赤川まで引き、さらに右岸に渡って柴島から江口まで引き上げたという。 (「特別展 浪花百景ーいま・むかし」大阪城天守閣編集)より
 淀川は京伏見・大坂天満八軒家間を結ぶ交通の大動脈であった。三十石船は28人乗りで、 下りは流れにまかせて運航できるが、上りは流れに逆行するので、錦絵に描かれているように 人力で堤防沿いの道から肩綱を曳いて上流に引っ張り上げる方法がとられた。
 三十石 船の船客目当てに、毛馬からは飯・汁・酒を売る煮売茶船が出た。特にあぶった餅に味噌を まぶした「田楽餅」は名物であった。淀川を舞台に商う煮売り船では枚方の「くらわんか船」 がその名を今に伝えている。  

毛馬

2019/08/13 08:35:34

毛馬

淀川大堰は大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目と東淀川区柴島2丁目にまたがる、一級河川・淀川本流に建設された堰である。 国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同で管理を行う可動堰で、1964年に完成した長柄可動堰を改造して1983年に完成した淀川最下流にある河川施設である。 ウィキペディア

覚満寺之夕景

2019/08/13 08:35:39

覚満寺之夕景

鶴満寺は、慈覚大師円仁作と伝えられる木造阿弥陀如来立像(大阪府指定文化財)を本尊とする天台真盛宗の寺院。江戸時代には境内の糸桜が有名で、花の盛りの時期には文人墨客が多数訪れ、風流に興じたという。こんにち本堂に向かって右側に建つ三層八角塔形の楼閣造りの御堂は、子安聖観音を祀る観音堂で、両脇段には西国、秩父、坂東のいわゆる観音霊場百ヶ所巡りの本尊模刻像百体が安置され、地下には戒壇巡りも設けられていた。

覚満寺之夕景

2019/08/13 08:48:26

覚満寺之夕景

奈良時代に大和国で創建されたと伝わる。

寛保3年(1743年)大坂の豪商上田宗右衛門広久が譲り受けて当地に移し、京都の上善寺の僧忍鎧を招いて宝暦3年(1753年)堂宇を完成させたという。

境内は桜の名所として知られ、樹下に各地の巡礼所の観音仏を安置して百体観音と称し、崇敬を集めていたが、1885年に発生した明治十八年の淀川洪水で流されてしまった。
ウィキペディア

天満樋の口

2019/08/13 08:48:26

天満樋の口

当初綿屋町付近で堀留となっていた天満堀川は、その北端部で塵芥がうずたかく積り、「ごもく山」と呼れるまでになっていたが、天保9年(1838)堀川を東へ延伸し、大川に通じさせたところ、水は澄み、屋形船が通ずるようになった。『浪華の賑ひ』は、「げにその始めを知るものはそこにあらざるや疑ふばかりの景地となれり」と評している。この川が大川に通じた地点が樋之口で、対岸の桜宮とともに桜の名所として知られた。その堀川も昭和三、四十年代には埋め立てられ、川筋は阪神高速守口線に変わってしまった。今は樋もなくなっている。

天満樋の口

2019/08/13 08:55:30

天満樋の口

『浪花百景』によると「樋の口は天満のほり河に落とす樋」で、桜の名所。
天満堀川が東北に延び、淀川と合流する地点にあたる。
現在も、大阪市北区に樋之口町がある。
今でも桜のシーズン大川の流れに映えて美しい。

源八渡し口

2019/08/13 08:55:30

源八渡し口

源八渡は、天満源八町と対岸の中野村を結ぶ渡しで、昭和11年に源八橋が架橋されるとともに廃止になった。渡し口からは名高い中野村の梅林が眺めることができた。与謝蕪村は「源八をわたりて梅のあるじかな」とい一句を遺している。錦絵は中野村から源八方面を眺めたもので、三十石船を水主が引く堤上には多くの桜樹が見られる。樋之口から源八渡付近一帯は木村堤と称されて桜の名所として著名であった。

源八渡し口

2019/08/13 08:59:01

源八渡し口

江戸時代元禄末(1700ころ)、すでに存在していた記録が残る。名の由来も人名から来たとする説、地名にちなむ説といろいろで不詳である。左岸の都島側は農村であったが、京街道にも近く、また右岸は天満組で大坂城代配下の与力などの役宅が並んでいた。さらに桜の名所があることから大へん賑わったという。上流の「平田の渡し」(淀川・江口コース参照)と共に有名であった。
 昭和11年6月架橋され、それによって渡しの使命は終ったが、橋名にその名を残している。

大阪市HP引用

さくらの宮景

2019/08/13 08:59:01

さくらの宮景

関連リンク

桜宮は、浪花百景のほか多くの文献に取り挙げられています。『摂津名所図会大成』には「当社其初ハ野田の小橋故大和川の堤の字(あざな)を桜野といふ所にありしを後世こゝに?(まわ)すゆへに旧地の名を以て桜野宮と号せしがいつしか境内のほとりに数百株の桜を植しより今ハ桜の宮と称して花ゆへなづけし如くなる」「浪花において花見第一の勝地なり」とあり、『摂津名所図会』には「この社頭に神木とて桜多し。弥生の盛りには、浪花の騒人ここに来つて幽艶を賞す。淀川の渚なれば、きよらなる花の色、水の面にうつるけしき、塵埃を避けて神慮をすずしめ奉るなり」「咲くからに見るからに花の散るからに」と賞され、文人に愛される桜の名所でした。

さくらの宮

2019/08/13 09:03:40

さくらの宮

兵火洪水の難などに遭ったため神宝記録が紛失し、詳しい創建は不詳であるが、元は東生郡(東成郡)野田村「小橋」櫻の馬場字「宮田」に氏神として奉斎したのが始まりとされる。

慶長18年(1613年)の冬に再建されたが、元和6年(1620年)の大和川の洪水により社殿が流出し、現在の中野町に当たる中野村に漂着したため同地に祀った。その後も寛文6年(1666年)と延宝2年(1674年)の2度にわたり水禍にかかったため、大坂城代の許しを得て現在の地に還座した。

ウィキペディア

あみ嶋風景

2019/08/13 09:03:40

あみ嶋風景

天満紙屋治兵衛と曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春の悲恋を描く近松門左衛門の名作「心中天の網島」で知られる網島は、眼前の大川の清き流れを船が行き交い、東に信貴生駒の山並みを一望できる景勝地で、「摂津名所図会」では「難波最上の名境なるべし」と絶賛され、行楽の人々が繰り出しました。 東の野田村の漁師が網を干す所だったことからついた地名で、かつては大川・寝屋川・平野川が合流し、たびたび水害を起こしていました。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられると地勢が安定し、過書船監視のための番所も置かれました。

あみ嶋風景

2019/08/13 09:09:34

あみ嶋風景

100景は天満橋を渡る人々を描いています。
その人物たちの後ろの桜堤は現在公園とマンションになっています。

天神祭り夕景

2019/08/13 09:09:39

天神祭り夕景

大阪天満宮は菅原道真を祭神とし、村上天皇の勅願により天暦年間(947~957)に創祀されたと伝えられる。天神祭はこの大阪天満宮の夏祭で、江戸時代には旧暦の6月25日、現在は毎年7月25日に執行される。京都の祇園祭、江戸(現在は東京)の山王祭あるいは神田祭とならんで日本三大祭一つに数え上げられ、こんにちでは見物人が140万人を超え、大阪の夏を彩る一大ページェントとなっている。

川崎ノ渡シ月見景

2019/08/13 09:09:39

川崎ノ渡シ月見景

こんにち造幣局のある一帯は、川崎村と呼ばれ、大坂三郷の一つ天満郷の東に隣接していた。この川崎村と大川の対岸備前島とを結ぶ渡しが川崎渡しで、鯰江川に架かる備前島橋、寝屋川に架かる京橋を経て、そのこうに大坂城の勇姿を望むことができた。渡しは昭和20(1945)年6月の空襲で施設が破壊されて以降廃止され、かわって昭和53(1976)年に歩行者・自転車専用の川崎橋が架けられた。現在はその下をアクアライナーがくぐって行く。

天満橋

2019/08/13 09:11:59

天満橋

天満橋(てんまばし)は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天満と中央区天満橋京町の間を結んでいる。

上下階式構造の橋で、上層は「天満重ね橋」とも呼ばれ、土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。Osaka Metro谷町線が天満橋の地下を通過している。

天満市場

2019/08/13 09:18:45

天満市場

天満市場は承応2(1653)年からこの地において営業を開始した。大坂で唯一の青物市場である。四季を問わず、毎朝数万人の商人が新鮮な野菜や果物をもとめて集まったという。ただし、秋の松茸、冬の蜜柑などは夜市が開かれ、こうこうと輝く松明や提灯の明かりの中で取引がおこなわれた。昭和6(1931)年、大阪中央卸売市場が開設され、移っていった。画面手前の橋は当時大坂の三大橋の一つに数えられた橋で、天満天神社が維持管理した天神橋である。

天満市場跡

2019/08/13 09:23:31

天満市場跡

天満橋北詰から西へ天神橋までの間にあった青物市場は、その繁盛の様子が「摂津名所図会」にも描かれている。最初は石山本願寺を対象に自然発生し、その後場所の移動もあったが、ここに集まる前は京橋北詰付近にあった。承応(じょうおう)2年(1653)当地に移ったが、野菜や果物の供給市場として、市内の相場を左右するほとであった。昭和6年(1931)中央卸売市場に吸収されるまであった。

大阪市HP転記

八軒屋浜夕景

2019/08/13 09:09:34

八軒屋浜夕景

八軒家浜は、天神橋と天満橋の中間南岸の地名。古来、寺社参詣のため淀川から熊野街道に入る旅の中継地で、八軒の宿が軒を並べていました。
 ここには京都へ行き来する様々な船の船着き場があり、船頭・馬子・旅宿の客を集める声や乗客たちの口論する罵声など、昼夜を問わず人々の喧騒に包まれ、まさに大川水運の一大拠点でした。
 ちなみに、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんを乗せた三十石船と呼ばれる川船は、京都伏見から大坂までを半日で、大坂から伏見までは丸一日で航行しました。
 明治になると蒸気船に変わり、鉄道が開通すると船着き場の役割は低下し、衰えました。

八軒屋浜夕景

2019/08/13 09:21:51

八軒屋浜夕景

八軒屋は、天神橋と天満橋の中間南岸の地名。古来、寺社参詣のため淀川から熊野街道に入る旅の中継地で、八軒の宿が軒を並べていました。
 ここには京都へ行き来する様々な船の船着き場があり、船頭・馬子・旅宿の客を集める声や乗客たちの口論する罵声など、昼夜を問わず人々の喧騒に包まれ、まさに大川水運の一大拠点でした。
 ちなみに、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんを乗せた三十石船と呼ばれる川船は、京都伏見から大坂までを半日で、大坂から伏見までは丸一日で航行しました。
 明治になると蒸気船に変わり、鉄道が開通すると船着き場の役割は低下し、衰えました。

川崎御宮

2019/08/13 09:15:28

川崎御宮

大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、翌元和元(1616)年4月17日にこの世を去った。遺体は即日久能山に葬られ、翌年(元和2=1617) 4月17日、日光に移された。この日光改葬と同じ日に、夏の陣後の大の復興にあたっていた家康の外孫松平忠明(まつだいらただあき)が、家康ゆかりの織田有楽斎(おだうらくさい)別邸の跡地に社殿を建て分祀したのが川崎東照宮で、毎年4月と9月の17日には権現祭りが執行され、「浪花随一の紋日」と喧伝された程大層な賑わいを見せたという。明治6(1873)年に廃社された。 現在の大阪市域には4ヶ所の東照宮があったことが知られている。それぞれ家康にまつわる話を持っている。天満川崎は前述の通り。西淀川区の佃の田蓑神社の境内にあるのは、徳川がその譜で源氏を名乗り、その源氏の祖を祀った多田神社に参詣するとき、漁船で神埼川を渡したことが機縁となった。その後此処の漁民が江戸佃島に移住し、佃煮を作って現在も食卓を賑やかにしている。また、大坂冬の陣の折、現在北区の豊崎の民家で休憩したことが縁で民
家屋敷に祭られたが、今は豊崎神社に移されていると云う。四つ目は四天王寺だが、大坂の陣で焼亡した四天王寺を家康が再興に尽くしたことで境内に祀られたらしいが、現在はなくなっているということだ。

川崎御宮

2019/08/13 09:15:28

川崎御宮