大阪の渡船は楽し。(完全制覇編)

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現在の軌跡: 22 12 2019 06:56

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/12/22 06:56:12終了日時2019/12/22 10:41:35
水平距離36.93km沿面距離36.93km
経過時間3時間45分23秒移動時間2時間33分46秒
全体平均速度9.83km/h移動平均速度14.25km/h
最高速度33.51km/h昇降量合計60m
総上昇量30m総下降量30m
最高高度6m最低高度-1m

レポート概要

大阪にある渡船場を巡ってみた。

都市としての大坂は誰が開いたのだろうか?
最も古い記憶は、難波宮であっただろう、後にやや南に四天王寺が開かれた。
都市としての機能を持った町としては、最初にこの町を開いたのは本願寺の蓮如と云えるだろうか?
宗教都市としての大坂を開いたと云えるだろうが、都市としての大坂を開いたとは言い難い。

後に信長が本願寺との長い戦いの末この町の覇権を握ったが、すぐに死んだ・・その後の秀吉が大阪の街を大きく開いたといえるだろう。
湾岸地帯の芦が茂る海岸沼沢地に水路を開き土を掻き揚げて土地を造り、町割りを整えて全国の物品の値段を決める機能をこの町の特権として与え、日本最大の水路による商都の街が出来上がった。

江戸期には多くの渡船が行きかう都市であった、明治の中頃までは渡船は私有で世襲制の稼業であったが、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め、監督・取締りを行うようになった。

明治40年には安治川・尻無川・淀川の29ヶ所の渡船場が市営事業となり、大正時代に入ると請負制から市の直営方式に移行され、乗船料は無料となり、そして、昭和10年頃には、年間のべ乗船者数は5,700万人を超えるほどの重要な交通手段となった。

この渡し船、現在は大正区だけに8か所残っていて運賃は無料!同じ市営交通機関でも、バスや地下鉄では運賃を払う必要があるが、渡し船は無料。
一体この違いはなぜなのかは・・・「渡し船は、川や運河に囲まれた大正区内において、道路や橋と同じく、岸と岸を結ぶルートとして地元民にとってなくてはならないものだから」なのだそうだ・・管轄は交通局ではなく、建設局となっている理由はそこか?

そんな由緒歴史の深い渡船に乗って日曜日に自転車で渡船巡りをしてみた。

写真レポート

木津川(きづがわ)渡船場

2019/12/22 07:11:04

木津川(きづがわ)渡船場

大正区船町1丁目と住之江区平林北1丁目を結ぶ(岸壁間238メートル)唯一の港湾局管理の渡船である。昭和30年12月からカーフェリー(「松丸」134トン)が運航していた。乗用車から大型トラックまで運搬し得る能力を持っていたが、上流部に千本松大橋が開通した昭和48年の翌年からカーフェリーは廃止され、人と自転車のみを運ぶ渡船となった。利用者は大正区の工場に通う人や住之江区の木材関係で働く人がほとんどである。水がきれいになったためか、渡り鳥が飛来する姿が見られる。平成30年度現在1日平均約159人が利用している。

大阪市HPから転記

木津川飛行場

2019/12/22 07:13:32

木津川飛行場

『わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。』

現地口碑より

新木津川大橋

2019/12/22 07:13:33

新木津川大橋

関連リンク

新木津川大橋(しんきづがわおおはし)は、大阪市大正区船町1丁目と大阪市住之江区柴谷2丁目の間の木津川に架かるアーチ橋である。

中央部の橋長は495m、中央部のスパンは305m、総延長は2.4km、幅員は11.25m。アーチ橋としては完成当時日本最長で、また世界でも14位の規模を誇った。

工場萌え にはたまらない、大正区

2019/12/22 07:14:53

工場萌え にはたまらない、大正区

「新木津川大橋」は木津川に架かる橋で、大阪市大正区の府道173号線と大阪市住之江区の府道179号線を結ぶ橋です。

この近辺は、工場地帯でグリーンベルトもなくし写真を撮るのには最高の地区です。

船町(ふなまち)渡船場

2019/12/22 07:19:08

船町(ふなまち)渡船場

対岸に待機する渡船。

千本松(せんぼんまつ)渡船場

2019/12/22 07:42:47

千本松(せんぼんまつ)渡船場

大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
 このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところであった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。
 千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されている。平成30年度現在1日平均約922人が利用している。大阪市HP転記

千本松大橋

2019/12/22 07:44:10

千本松大橋

大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設された。両端部の2階式螺旋状坂路(720度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てることから、地元ではめがね橋の愛称で呼ばれる。「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来している。

車道と歩道があり、自動車・歩行者ともに通行可能。橋を通るバスも存在する。

ウィキペディア

サノヤス造船㈱に係留される公船

2019/12/22 07:49:06

サノヤス造船㈱に係留される公船

安治川沿いは江戸期から和船を造るメッカでもあった。その流れから日本の造船所で安治川沿いにそのルーツを持つ企業は多い。

中型船で強みを持つサノヤス造船もその一つで、その本願の地である安治川では、海上保安庁と国土交通省の公船が係留され補修を待っていた。

落合下(おちあいしも)渡船場

2019/12/22 07:57:05

落合下(おちあいしも)渡船場

落合下渡船場は、大正区平尾一丁目と西成区津守二丁目を結ぶ(岸壁間138メートル)。平成30年度現在、1日平均361人が利用している。毎年10月下旬から翌年4月下旬にかけて、数百羽のユリカモメが飛来する。

落合下(おちあいしも)渡船場

2019/12/22 07:58:38

落合下(おちあいしも)渡船場

大正区側の平尾地区は明和8年(1771年)に開発された平尾新田がルーツ。
西成区側の津守地区には津守新田の産土神である津守神社が鎮座しています。
京の横井源左衛門と金原源兵衛が木津川の州を幕府から購入し、元禄11年(1698年)から3年がかりで開発した72町歩に及ぶ新田です(津守小学校の校庭のところが新田会所跡)。
金1250両を幕府へ上納、元禄15年(1702年)、幕府検地で「所有地」と認められ、津守新田と称するようになったもの。

落合上(おちあいかみ)渡船場

2019/12/22 08:08:41

落合上(おちあいかみ)渡船場

落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ(岸壁間100メートル)。平成30年度現在、1日平均447人が利用している。上流にある木津川水門(防潮)が毎月1回程度開閉試運転のため閉まっているのが見られる。

大坂船手会所跡

2019/12/22 08:32:54

大坂船手会所跡

大坂船手は、大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することと、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和6年(1620)に設立された。その中心施設がこの地におかれた船手会所である。配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行う船番所が、会所の北側と春日出、三軒家の三箇所に置かれた。また船蔵が会所の脇と四貫島にあった。

 18世紀代には船出頭が小豆島などの代官を兼ねる事もあり、大坂における幕府の重要な役職のひとつであった。
 元治元年(1864)に廃された。
大阪市教育委員会

此花の防波堤沿いの紅葉

2019/12/22 08:45:28

此花の防波堤沿いの紅葉

防波堤に絡まる蔦が綺麗に紅葉していた。

天保山(てんぽうざん)渡船場

2019/12/22 08:56:10

天保山(てんぽうざん)渡船場

保山(港区築港三丁目)と此花区桜島三丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に天保山渡船場がある。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所管していた。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していたが、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってからは、天保山~桜島間を終夜運航した時代もあったが、昭和元年には現在のルートになった。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用された。昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗客53人の犠牲者を出す事故があった。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移され、現在にいたっている。昭和42年には1日平均1700人の利用者があったが、平成30年度現在1日平均約747人が利用している。

天保山(てんぽうざん)渡船場

2019/12/22 08:57:39

天保山(てんぽうざん)渡船場

天保山(てんぽうざん)渡船場は最も距離が長く400mある。

大阪のベイアリアにあり眺めがよい。

天保山(てんぽうざん)渡船場

2019/12/22 09:03:27

天保山(てんぽうざん)渡船場

結構利用客があってこの日2019/12/22AM10:00頃は20名位の利用客がいたが、6割くらいは外人さんでした、おそらくユニバーサルに務めるスタッフではないかと思う。

天保山

2019/12/22 09:10:20

天保山

この日私は冬季単独天保山自転車登頂を果たした。

標高4.53mの築山。国土地理院発行の地形図に山名と共に掲載されており、山頂には二等三角点がある[1]。大阪市ホームページ内[2]では日本一低い山と記載があり、天保山山岳会でも日本一低い山[3][4]としている。しかし、2014年4月9日の国土地理院の調査で、日和山(宮城県仙台市)の標高が震災の影響で変化したことにより、日本で2番目に低い山となった。ウィキペディア

甚兵衛(じんべえ)渡船場

2019/12/22 09:34:59

甚兵衛(じんべえ)渡船場

昔、尻無川の堤は紅葉の名所であった。「摂津名所図会大成」に『大河の支流にして江之子じまの北より西南に流れて、寺島の西を入る後世この河の両堤に黄櫨の木を数千株うえ列ねて実をとりて蝋に製するの益とす されば紅葉の時節にいたりては河の両岸一圓の紅にして川の面に映じて風景斜ならず 騒人墨客うちむれて風流をたのしみ酒宴に興じて常にあらざる賑ひなり 河下に甚兵衛の小屋とて茶店あり年久しき茅屋にして世に名高し』とあり、甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったという。
 現在も甚兵衛渡船場は健在で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結び(岸壁間94メートル)、朝のラッシュ時は2隻の船が運航している。平成30年度現在1日平均約1,096人が利用している。

甚兵衛(じんべえ)渡船場

2019/12/22 09:46:12

甚兵衛(じんべえ)渡船場

ここも日曜なのに利用客が多くて10人くらいが乗船していた。

千歳(ちとせ)渡船場

2019/12/22 09:59:27

千歳(ちとせ)渡船場

千歳の渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられた。昭和30年7月にそれまでの民営から港湾局の所管とし(同32年6月直営化)、同39年建設局に移管された。大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目(岸壁間371メートル)間を運航している。平成30度現在1日平均約530人が利用している。

千歳橋 ブレースドリブアーチ橋(美しい橋)

2019/12/22 10:05:55

千歳橋 ブレースドリブアーチ橋(美しい橋)

千歳橋(ちとせばし)は、大阪市大正区の大正内港に架かる橋。2003年(平成15年)4月開通し、土木学会田中賞を受賞した。

千歳橋は、大正区鶴町?同 北恩加島間への架橋により、市内中心部への交通を遠回りせざるを得なかった鶴町地区の交通の便を改善するとともに、大正通の交通混雑を緩和する目的で設置された。 大浪通を延長する形で架橋され、大正通の終端に接続している。

主橋梁部はアーチ橋とトラス橋が融合した2径間連続非対称ブレースドリブアーチ橋であり、鮮やかな青色に塗られている。

ウィキペディア

中山製鋼のガスタンク

2019/12/22 10:17:20

中山製鋼のガスタンク

紆余曲折・・いろいろあった企業です。
関西系の電気炉製鋼所でしたがなかなかうまくゆかなくて今は確か再生支援中でしたか?
先ほどの工場萌え  と関連しますが、朽ちて行く美しさを見たいならここです。

中山製鋼の 工場萌え 

2019/12/22 10:19:42

中山製鋼の 工場萌え 

中山製鋼の 工場萌え 

2019/12/22 10:20:02

中山製鋼の 工場萌え 

眺めていると、ある類似した感情を思い出した。

蒸気機関車を眺めているときの感情に一番近いかな?

木津川(きづがわ)渡船場

2019/12/22 10:24:31

木津川(きづがわ)渡船場

結局最後は家の関係から木津川(きづがわ)渡船場を利用して家へ帰った。

木津川(きづがわ)渡船場

2019/12/22 10:25:42

木津川(きづがわ)渡船場

渡船場が残る大正区は昭和日本を支えた重工長大産業そのものであった。

今は安価なアジア諸国に押されて明らかに斜陽産業の集合体であり、ある意味老兵を眺めるような感覚が伴う。

ただこの国は、若かりし頃のこの老兵の集団に養ってもらい、教育を伸ばし・健康を底上げし・取り合えず老後路頭に迷うことなく・世界に冠たる国民国家を作り上げた事は事実でありそのことに感謝しつつ渡船に乗って帰宅した。

父母のしきりにこひし雉子の声..


カモメが鳴いていた。