播磨の國の石棺仏を訪ねる。

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2020-01-12 07-29

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/01/12 07:29:50終了日時2020/01/12 12:55:51
水平距離46.81km沿面距離46.86km
経過時間5時間26分01秒移動時間3時間16分23秒
全体平均速度8.62km/h移動平均速度14.11km/h
最高速度35.91km/h昇降量合計626m
総上昇量317m総下降量309m
最高高度102m最低高度38m

レポート概要

ウィキペディア(Wikipedia)より。

石棺仏のほとんどは近畿地方に分布し、その9割以上は兵庫県播磨地方、なかでも加古川流域を中心に加西市、加古川市と、その周辺都市に集中している。[1] しかし藤原時代等の古いものは大阪や奈良に散見することができる。
刻まれた仏像のほとんどが阿弥陀如来と地蔵菩薩であることから、浄土宗や浄土真宗の造形であることがわかる。主に阿弥陀如来は来世を、地蔵菩薩は現世を祈念している。
播磨地方の石棺仏の多くが、鎌倉時代、室町時代のもので、播磨地方の、浄土真宗の広がりと供に、民衆が、新田開発や盗掘、自然災害等で出土した石棺を信仰の対象や墓碑としたものである。
また厳密には石棺仏とは呼ばないが、石棺の蓋などを何も彫らずに立てかけて信仰の対象にしている場合もあり、石棺仏とは、石棺材に特別な霊力を認めての造形であろうと考えられる。[2]
これらは、日本の古墳時代と中世の、二つの息吹を同時に感じることができる、貴重な石造遺産である。

写真レポート

山伏峠石仏

2020/01/12 07:38:56

山伏峠石仏

山伏峠石仏(やまぶしとうげせきぶつ)は、兵庫県加西市玉野町の山伏峠にある2基の石棺仏。兵庫県指定文化財[1]。ひとつは兵庫県下最大の石棺仏



山伏峠石仏

2020/01/12 07:34:35

山伏峠石仏

山道寄りに立つ向かって右側の1基は、家型石棺の石英粗面岩製で、現高2.25m、幅1.24m、厚さ40cmあり、蓋石の内側には宝珠形の光背が陽彫され、蓮華座上に定印である阿弥陀座像が陽彫されている。建武4年(1337年)の刻印が確認されることから、制作年であると推定されている



山伏峠石仏

2020/01/12 07:34:35

山伏峠石仏

向かって左側、最後方の1基は長持型石棺で、現高2.1m、幅1.05m、厚さ18cmあり、蓋石の内面に地蔵半跏像が陽彫され、地蔵半跏像の左右両側には化仏である小像がそれぞれ3体ずつ、縦に3段に計6体が半肉彫りされている。さらに左右に2つずつ、計4つの縄かけ突起があるユニークな形状である。暦応元年(1338年)の刻銘が確認される。 加西市北条町小谷にある康永4年(1345年)作の小谷阿弥陀石棺仏(よばりこき地蔵)[4]との類似性が指摘されている



玉野阿弥陀石棺仏

2020/01/12 07:51:27

玉野阿弥陀石棺仏



玉野阿弥陀石棺仏

2020/01/12 07:52:07

玉野阿弥陀石棺仏

加西市指定文化財。加西市玉野町、玉田医院の南200mの道路沿いにあり、背後の林の中に毘沙門古墳があります。180×102×30cmの大型の家形石棺の蓋石の内面を長方形に彫り窪め、その中に阿弥陀座像を半肉彫りしています。

川勝政太郎先生は自著 「石造美術入門」「日本石造美術辞典」で豊倉弥陀石棺仏として紹介され、播磨で最も美しい石棺仏と述べられている。



春岡寺阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:10:39

春岡寺阿弥陀石棺仏




春岡寺阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:11:14

春岡寺阿弥陀石棺仏

春岡寺が建っている。その寺の境内にこの石棺仏がある。高さ、185cm、幅98cmの大きな家型石棺の蓋石に蓮華座に座す阿弥陀如来座像(像高60cm)を薄肉彫りする。
 胴体部分は肩幅が狭く、裾が広がった三角形の形になっている。その形が、四角の石棺とうまくマッチして、加西市の阿弥陀座像の石棺仏独特の世界を作り上げている。

 特に、この春岡寺の石棺仏のゆったりと座す姿は気品があり、玉野の阿弥陀石棺仏とともに、播磨の石棺仏を代表する秀作とされる。



加西市別府町の道標

2020/01/12 08:28:54

加西市別府町の道標

加西市別府町にあった街道沿いの古い道標、

右 やしろ   左 ふけ   天保七年 と刻む。



朝妻公会堂前の金鳥の古い看板。

2020/01/12 08:41:48

朝妻公会堂前の金鳥の古い看板。

朝妻公会堂は現在(20201/12)取りつぶされていた。

毎には集落のゴミ捨て場があってその横に古い金鳥の蚊取り線香の看板が掛けてあった。



延命尼寺跡阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:49:26

延命尼寺跡阿弥陀石棺仏

加西市の朝妻町には工業団地があり、椿本チェーンなどの会社の工場がある。

その工業団地から朝妻の集落へ下る道がある。

集落を南北に走る古い街道との三差路の手前30メーター南側の茂みの中にこの石棺仏はある。このあたりに延命尼寺があったという。



延命尼寺跡阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:49:26

延命尼寺跡阿弥陀石棺仏

高さ112cm、幅72㎝の石棺だと思われる石材に上品上生印の阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。光背は玉野や上宮木の阿弥陀石棺仏と同じ二重光背で、ほぼ同じ頃の作だと思われる。顔は、玉野や上宮木の石棺仏と較べると丸顔で愛らしい表情である。



上宮木阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:59:28

上宮木阿弥陀石棺仏

加西中学校の前の道から北へ少し入った、上宮木の旧道脇に、2基の石棺仏がある。1基は「キーリク」と阿弥陀仏の種子を薬研彫りした石棺仏である。



上宮木阿弥陀石棺仏

2020/01/12 08:59:28

上宮木阿弥陀石棺仏

さ120cm、幅75cmの組合せ式家型石棺の底石に、像高48cmの阿弥陀如来座像を薄肉彫りする。光背は玉野阿弥陀石棺仏と同じ二重光背で、古典的な蓮華座の上に整った端正な阿弥陀仏である。



清慶寺 阿弥陀三尊種子板碑

2020/01/12 09:17:22

清慶寺 阿弥陀三尊種子板碑

弥陀三尊種子板碑(県指定文化財、鎌倉時代後期 正和三年 1314年、凝灰岩、高さ 172.5Cm 幅 78.5Cm 厚さ 15Cm)

家形石棺の蓋石を使用する。上部に三つの宝珠、直下に大きく阿弥陀の種子「キリーク」を、左右下に勢至・観音の種子を刻む



密蔵院阿弥陀石棺仏

2020/01/12 09:28:00

密蔵院阿弥陀石棺仏

周遍寺の一院であった密蔵院が、北条鉄道「あびき」駅の北東、県道79号線と81号線の交差点の北東側にある。きれいに整備された寺で、81号線に沿った場所に広い駐車場がある。駐車場の西側に古い墓石や石仏を集めた一角があり、その一番下の段の中央に安置されているのがこの阿弥陀石棺仏である。



密蔵院阿弥陀石棺仏

2020/01/12 09:28:39

密蔵院阿弥陀石棺仏

小型の家形石棺蓋石の内側に上品上生印の阿弥陀座を薄肉彫りしたもので、大きな蓮華座の上に坐す。光背は円形に近い舟形で、四角形の穏やかな大きな顔と小さな手に特徴がある。



糠塚古墳

2020/01/12 09:37:17

糠塚古墳

加西市網引町糠塚の糠塚山西麓にあります。15基からなる群集墳で2005年の調査で6基が調査され、2、3号墳から横穴式石室が検出されました。4号墳は石室の石材がすでに露出しています。

このあたりは播磨風土記にも記載があるので古くから人が住んでいただろう、多くの古墳群が存在する。



ハメ塚石棺仏

2020/01/12 09:41:01

ハメ塚石棺仏

奥の林中には状覚山古墳群があります。



ハメ塚石棺仏

2020/01/12 09:41:01

ハメ塚石棺仏

加西市南網引町、県道79号線南網引交差点の北200m道路沿いにある状覚山1号墳の裏にあります。106×72×21cmの石棺底石に地蔵立蔵が浮彫されています。模式化の進んだ南北朝前期頃の作風で、顔面は磨滅していますが、衣装、台座が丁寧に彫られている。



住吉神社前石棺仏

2020/01/12 09:51:56

住吉神社前石棺仏

参道より離れた山裾にあり、ちょっと見た目では解りにくい場所にあります。薄めの石棺に彫られた仏を見ることが出来ますが、輪郭こそわかりますが細やかな部分は風化などにより見にくい印象です。




住吉神社前石棺仏

2020/01/12 09:51:56

住吉神社前石棺仏

地蔵半跏像が彫り出されています。
損壊が激しいですが、地蔵菩薩としては珍しい姿で、造形も力強さを感じます。
南北朝前期頃のものだそうです。



周遍寺旧参道地蔵石棺仏

2020/01/12 10:03:17

周遍寺旧参道地蔵石棺仏

加西市の南、加古川市との境界近くに周遍寺という無住寺があります。無住寺とはいいながら加西市の 観光20選に選ばれているという変わったお寺です。

この石仏はその周遍寺への古い参道沿いにあります、今は廃道になった参道に ぽつねん と佇んでいます。



周遍寺旧参道地蔵石棺仏

2020/01/12 10:03:50

周遍寺旧参道地蔵石棺仏

この石仏が最も雰囲気がありました、この道はどこへ行くのだろう?と想像力を掻き立てられる雰囲気に包まれていました。

この石棺仏から北へ細い山道を行くと白雉2年(651)法道仙人が、堂宇を建立したことにはじまるという古刹周遍寺がある。左手の山向こうになるのでしょう。今では、野原になり、参道の面影はない。
高さ180cm、幅95㎝、厚さ35㎝の家型石棺の蓋石の内面に、地蔵菩薩をやや厚く薄肉彫りする。
周りの風景にとけ込み石棺の美しさを十分生かした石仏である。
夏には、石棺仏が隠れるほどに草が茂り、また違った雰囲気をかもし出すそうである。

周遍寺は無住で、密蔵院がお世話をしているそうである。



倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏

2020/01/12 10:25:53

倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏

倉谷町の北側の林の中に薬師堂があり、堂内厨子の中に石棺仏がまつられている。施錠された堂内にあるために、通常は拝観できなかったが、訪問日に近くの公民館で集まりがあり、爺様に声を掛けると、講のおばさんを呼んでくれて堂のカギを開けてくれました。

石棺の底を利用した石棺仏のようでした。



倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏

2020/01/12 10:26:30

倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏

訪問日の翌日が「講」の日らしくてこの日掃除をして綺麗にしたそうです。



善坊交差点北の道標

2020/01/12 10:37:23

善坊交差点北の道標

善坊交差点は旧道と新しい国道が複雑に交差しています。丹波道、北条道に加え、巡礼道などの古道と、近年の道路整備による新しい交差点もあり、このような複雑な交差点が出来上がったものと思います。

この道標は善坊交差点北西の微高地の中にありました。



北条鉄道播磨下里駅

2020/01/12 10:44:42

北条鉄道播磨下里駅

大正4年に建てられた駅舎は、長・法華口と共に2014年4月『国登録有形文化財』に登録されました。
善防山、笠松山、古法華自然公園へのハイキングに行かれるお客様が多く利用いただいております。
その他、2名のボランティア駅長が、毎月、2回、駅舎内で教室を行っている。「お絵かき会」、「下里庵」。
ホームには40tの石を使った石庭があり、乗客を出迎えます。
駅駐車場周辺には、春になると梅と桃の花が綺麗に咲き誇り訪れた観光客を楽しませてくれます。

北条鉄道㈱HP転記



大村石棺仏

2020/01/12 10:53:51

大村石棺仏

加西市指定文化財。多聞寺の西100m、加西市大村町の大村バス停そばにあり、石棺側石を使った二体の石棺仏が並んでいます。右側は141×56×15cmの大きさで、阿弥陀座像を半肉彫りしていて、康永元年(1342)の銘があります。小谷石棺仏と作風が似ており、年代も近いため同じ作者のものと思われます。左側は77×47.5×13cmの大きさで、観音像を半肉彫りしています。これも同時期、同作者と思われますが、市内で観音像の石棺仏は唯一の例です。



大村石棺仏

2020/01/12 10:53:51

大村石棺仏



多聞寺・三界萬霊碑

2020/01/12 10:58:57

多聞寺・三界萬霊碑

加西市尾崎町の多聞寺境内にあります。大型で肉厚の家形石棺蓋石を転用した三界萬霊碑です。縄掛突起のないシンプルな形状です。



多聞寺

2020/01/12 11:00:11

多聞寺

多門寺は黒田官兵衛の息子、長政の家臣、後藤又兵衛の菩提寺です。又兵衛は、官兵衛に見出されて長政の幼少期から仕え、福岡黒田52万石へと長政を支えてきたものの、如水亡き後、長政との軋轢から黒田家を出奔、その後の「大阪の役」では真田幸村らと共に「大阪城五人衆」に数えられた猛将、大阪夏の陣にて大和と河内の国境、大和川沿い国分での戦いで散っていきました。後に又兵衛の縁者によってその菩提をここ多聞寺で弔われたということです。後藤又兵衛はその生まれが加西市山下町とも姫路市山田町ともいわれ、そういった縁から出生地に近いこの多聞寺にて菩提が弔われていくこととなったのでしょうか。



坂元阿弥陀堂五重石塔

2020/01/12 11:24:43

坂元阿弥陀堂五重石塔

阿弥陀堂の東傍に南面して建つ。凝灰岩製で相輪部を失う。基壇上からの現高1.92メートルをはかる。
一重の基壇上に比較的背の高い台石をたて、その上に軸部を上端やや背高に造り出した五層の笠をのせる。笠の軒口は心持ち内側に切られ、軒反りは両端で軽く反る。屋根の勾配はゆるやかで最上層の笠には軽いむくりがみられる。
総じて、古い様式を持つ供養塔婆で、この種の多くが造立意趣を示す刻銘が見られるのに、これが全くの素文であるのは珍しい。
近くの加西市吸谷町、慈眼(じげん)寺石造五重塔(弘安6年(1283)、県指定重文)と、ほぼ同時期の鎌倉時代のものと思われ、県下における数少ない石造多層塔婆の一つとして貴重である。

加西市文化財資料第3号「加西の文化財」(改訂版)より転記



福居町清明井戸石棺

2020/01/12 11:30:38

福居町清明井戸石棺

加西市福居町の集落ほぼ中央の道路沿いに、いきなり大型の家形石棺の蓋が立てられていて驚きます。

井戸に落ちないように立てられた衝立の役目なのでしょうか?井戸の一部として地域に溶け込んでいることを感じさせますが、石棺蓋石としても大型で立派な造形で、大きな縄掛突起も残っています。下側は埋め込まれています。

井戸の中はやや濁った下水の溜りになっていました、二匹の金魚が寒そうに泳いでいた。



吸谷五重石塔

2020/01/12 11:41:11

吸谷五重石塔

慈眼寺観音堂 ここに吸谷廃寺があったという。

7世紀後半に建立されたと推定される法隆寺式伽藍配置を持った古代寺院が、鎌倉時代まで健在あったと推定されている。
加西市の3度にわたる発掘調査でほぼ明らかにされている。
その遺物である礎石などが、慈眼寺の境内に残されている。
また、慈眼寺の1283年銘の刻まれた石造層塔も残されている。



吸谷五重石塔

2020/01/12 11:42:24

吸谷五重石塔

県指定文化財、鎌倉時代中期 弘安6年(1283) 凝灰岩、高さ 189cm
基礎石正面に七行にわたって、「諸行無常・・・」の涅槃経の偈が彫られているのが、僅かに判る。兵庫県下の在銘石塔では、弘安三年(1280)の今念寺五重石塔(姫路市安富町)の次に古いそうです。



小谷石仏

2020/01/12 11:54:54

小谷石仏

小谷の集落の突き当たりの辻に地蔵堂があります「よばりこき地蔵」とも呼ばれているそうです。



小谷石仏

2020/01/12 11:54:54

小谷石仏

周囲に縁取りのある家形石棺の蓋石の内側に彫られている。阿弥陀坐像は定印で、両脇の六体の地蔵は半肉彫りしてあるが摩滅や欠失が見られ悔やまれる。「康永四暦乙酉八月」(1345)と南北朝の年号。「一結衆之人造」とある。伝承があり「よはりこき地蔵」と呼ばれ子供の夜尿症やよだれたらしの平癒祈願の参詣者多かったという。像の横下にある小型石棺で作られた阿弥陀坐像はこれも南北朝から室町期と推定されている。



羅漢寺

2020/01/12 12:08:37

羅漢寺

この石仏を訪ねる誰もが「いつ頃、誰が、何のために」造ったかを知ろうとします。
しかし、これに答えうる史実も資料も、たしかな言い伝えも何ひとつとして存在していないのです。”とある。
さてこれらの羅漢は392体あり、頭部以下の彫りは簡略で、両手は陰刻線のみで小さく表す像が多い。
面部の彫りも素朴で顔および眉と眼の間を狭くして、切れ長の目を一本線で表す。鼻と口も小さく独特な表現方法である。
先祖に遭いたりゃー五百羅漢に遭いに行け と伝わる。



羅漢寺

2020/01/12 12:11:08

羅漢寺

素朴な石仏達がただ佇んでいる。



住吉神社

2020/01/12 12:27:37

住吉神社

播磨国三の宮、 住吉酒見神社とも云う。

当地は摂津国一宮の住吉大社の神領であった。当社は「住吉大社神代記」に記された「住吉大神の宮九箇処」の一社。明治時代に住吉酒見神社から住吉神社に改名した。
 東に隣接して酒見寺(さがみでら、さがみじ)がある。745年に住吉酒見神社に参詣した行基に神託があり、45代聖武天皇に奏上して酒見寺を建立した。

神仏習合の時代の様子を伝える貴重な神社と寺(神宮寺)。



2020/01/12 12:30:53

酒見寺

行基菩薩がこの地を訪れ酒見神社に詣でたところ、『寺を建てよ』とのお告げを得、このことを聖武天皇に奏上し、天正17年(745年)に聖武天皇の勅願寺として創建されたのがこの寺で、このとき、寺号を酒見寺としたと伝えられている。



2020/01/12 12:33:01

酒見寺多宝塔(国重文)

酒見寺は行基菩薩の開創と伝える真言宗の寺院で、天正年間兵火にあって焼亡し、そのあと再興されたのが現在の伽藍であるという。 多宝塔は相輪伏鉢の刻銘などから寛文二年の建立と思われる。 この塔は大型で安定した外観をもち、構造手法が正統的で古風なところが見られ、この時代の多宝塔としては重要な遺構である。



2020/01/12 12:44:54

北条の町並

北条地区は古くは酒見寺や住吉神社の門前町として、また、小谷城主赤松祐尚が開いたといわれる「古市場」以来の市場町として、又、丹波・丹後・但馬方面への街道筋の宿場町・商業町として古くから町場を形成していた。



2020/01/12 12:47:04

北条の町並(道標)

江戸時代中期、現在のような地図がなかった時代、旅人にとって道標が唯一の道しるべでした。

旅の無事を祈り、無き人への思いを寄せ建立されました。

旅人が迷うことなく旅をつづけられたのは、このような道標のおかげです。

三基の一番奥が市内で最も古く享保13年(1728年)、手前が天保7年(1836年)です。

歩いて旅する時代、この地が交通の要衝で、ましてや京・大阪への道しるべがあるなんて、なんとロマンがあることでしょう。

現地掲示板転記



2020/01/12 12:55:41

アラジンスタジアムで撤収

ここに車でピックアップして帰宅した。