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開始日時 | 2020/02/15 06:55:22 | 終了日時 | 2020/02/15 12:21:53 |
水平距離 | 61.14km | 沿面距離 | 61.28km |
経過時間 | 5時間26分31秒 | 移動時間 | 4時間01分13秒 |
全体平均速度 | 11.26km/h | 移動平均速度 | 15.11km/h |
最高速度 | 44.24km/h | 昇降量合計 | 875m |
総上昇量 | 467m | 総下降量 | 408m |
最高高度 | 131m | 最低高度 | 8m |
2020/02/15 07:06:27
道の駅かつらぎに車で輪行してポタリングを開始した。
車中泊の車がたくさんあった、綺麗な便所もあり人気があるようだ、JAの野菜販売もあるので帰りは、かーちゃん用に野菜をたんと買ってご機嫌取をしたのは言うまでもない。
2020/02/15 07:16:06
道の駅から 最古の官道と云われる竹ノ内街道に道を取る。
風情のある家並が続く。
2020/02/15 07:18:07
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。
この長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様としても、厚く信仰されています。
葛城氏HP転記
2020/02/15 07:33:06
この石仏は、鎌倉中期の特徴をもつ地蔵尊(じぞうそん)です。材質は凝灰岩、古墳の蓋(ふた)として用いられた石の内側に彫られています。したがって、その外側に縄掛け突起(なわかけとっき)が残っています。鎌倉時代に荒廃していた古墳の石材を使い、古墳被葬者(ひそうしゃ)の霊をとむらうとともに、地蔵尊を刻(きざ)むことで浄土往生(じょうどおうじょう)の願いを説いたのでしょう。
現地掲示板
2020/02/15 07:33:52
高さ175cm、幅1mの石棺内壁に蓮華座を刻み、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ像高79cmの地蔵立像を半肉彫りしたものである、鎌倉中期の造立とされる。
石棺の向かって右上部分と、顔の下部と錫杖が欠損している。
2020/02/15 07:34:43
小池寺門前の地蔵石仏群には野仏が集められていて、愛らしい石仏が多く参集している。
2020/02/15 08:05:08
橿原市北八木町にある『八木札の辻交流館』は、「東の平田家(旧旅籠)」として、市指定文化財に指定されているもの。向かいに建つ「西の平田家」とともに、旅籠として使用されていました。
八木の町は、古代からの幹線道路「横大路(伊勢街道)」と「下ツ道(中街道)」が交わり、伊勢参りや大峰山参詣で賑わいました。江戸時代の地誌である「西国三十三所名所図会」には、交差点に「高札(こうさつ)」が掲げられ、中央に六角形の井戸があった様子が描かれています。
2020/02/15 08:14:06
ここは中ツ道と横大路が交差する場所にあたる。
現在の定説では旧藤原京域の北東角に位置する。
直径1.4m、円座直径1.1m、厚み40cmの花崗岩製です。
藤原京内の寺院のものを持ち出したものか、あるいは「大和旧跡幽考」の云う「面堂」の遺構か詳らかにしない。
現地掲示板
2020/02/15 08:47:55
山の辺の道沿い、金屋の家並みの中にある保存収蔵庫に安置されており、格子越しに拝観できる。
高さ2.2m、幅79cm、厚さ21cmの2枚の泥板岩に釈迦如来(右)と弥勒如来(左)が浮き彫りにされている。
これらの像が彫られた時期については平安後期、鎌倉時代、天平末期と様々な説がある。
もとは平等寺にあったものを、明治維新の頃に廃仏毀釈のため村人が現在の場所に移した。国の重要文化財。
2020/02/15 08:48:40
やや風化していますが重厚な表情が印象的です。用材は石棺の板石を転用したとも言われています。 石仏は元々これより東に入ったミロク谷(三輪山の一部)の谷間に置かれていましたが、神仏分離で今の場所に移され、大木にもたせて置かれていましたが、好事家が拓本を取るなどして石仏が傷んできたので、屋形を造り錠前をかけ保存するようになったようです。
桜井市観光協会HP転記
2020/02/15 08:49:21
この収蔵庫の下に加工痕が残る出所地が不明の巨石が2石置いてあり「ミロク谷石棺」と呼ばれています。うち1石は珍しい阿蘇ピンク石製の家形石棺の蓋石で外面には4つの縄かけ突起があり、5世紀末頃のものと思われます。金屋の石仏との関係は、石材の種類が違うので関係は薄いと思われます。
桜井市観光協会HP転記
2020/02/15 08:55:45
僕らが子供の頃の八百屋はすべからくこのようなお店でした。
おばあさんが忙し気に青物を並べていた。
2020/02/15 09:16:45
起については資料が残っていません。鐘銘には天文年中(1531~1553)に円誉(賢公)上人が開山したとあります。また、天正12(1584)年に地元の豪族である、楊元範宣の本願により開基したとも伝えられています。
柳本は、慶長5(1600)年、織田信長の弟で茶人としても知られた織田有楽斎(ゆうらくさい)の知行地となり、さらに元和元(1615)年、有楽斎の五男尚長(ひさなが)が入部して、柳本織田藩が始まります。
専行院は、尚長の入部により、織田氏の菩提寺となりました。現在も有楽斎・尚長をはじめ歴代藩主の墓が残っています。
また東堂の東方には織田家の位牌堂があり、信長、有楽斎をはじめ柳本藩主、生母、奥方を含む34柱の霊位が奉安されています。
ちなみに東京・有楽町の名は、有楽斎が数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領したことに由来します。
天理市観光協会HP転記
2020/02/15 09:18:02
堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。
高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身に刻まれている。
2020/02/15 09:19:14
光蓮寺跡の健治二年阿弥陀石棺仏と同一作者とされる。
2020/02/15 09:24:17
古い街道である上ツ道沿いに北へ進む。
眺めの良い民家が目立つ街道で、趣がある。
2020/02/15 09:26:32
古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂屋がある。
此処は長岳寺への参道にあたる場所。
2020/02/15 09:26:52
仮屋の真ん中に石棺仏が祀られている、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。
面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、専行院の石棺仏と同一人物の作とされる。
2020/02/15 09:27:28
2020/02/15 09:27:50
ご尊顔は磨滅していて識別ができな無いが、裾や光背は残っている。
2020/02/15 09:30:16
長岳寺の西方約850メートルの境外地、上街道の近くに五智堂が建っている。構造は方一間、単層屋根宝形本瓦葺(たんそうやねほうぎょうほんかわらぶき)である。奈良朝の頃、善無畏(ぜんむい)三蔵という人が創建したと伝えられている。どこから見ても正面なので真面堂とも、支柱を除けば四方吹放しとなるから傘堂とも呼ばれ、形が小さいのでマメ堂ともよばれている。中央の太い心柱の上方に五智如来をまつっている。鎌倉時代の建築として、明治41年4月23日重要文化財として国の指定を受けている。
この種の建物は珍しく、江戸時代の好事家木村兼葭堂(けんかどう)も「雲綿随筆」のうちに傘堂のことを書いている。今はないが、江戸時代には床が張ってあって旅人の休息所になっていたようである。
この付近は柳本の名の起った所で、古い立派な寺のあったところであるから、宝塔の古材によって組み立てられたことも考えられる。いずれにしても珍しい建物である。
天理市HP転記
2020/02/15 09:39:35
長岳寺の北部の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂(寺でかつての公民館跡?)がある。
寺に沿うて山之辺の道があり十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。
ただ御不浄場の横にあたり・・これは頂けないなぁー
2020/02/15 09:40:09
鎌倉時代の作云われ高さ89cm・幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐しています像高31cmの定印阿弥陀像が半肉彫りされている穏やかで端正なお顔です。
時代の割にはご尊顔が残っていて繊細なお顔立ちが確認できる。
今は便所の横でぞんざいに扱われていますが、かつては屋内に祀られていたのでしょう。
2020/02/15 09:57:53
この楼門は、天長2年(825)弘法大師創建のままと伝えられ、平安時代の遺構をよく存しているが、下層部は数次の修繕を経て、鎌倉、室町時代の様式を残している。
この楼門は桁行一間、梁間一間、屋根入母屋造柿葺(こけらぶき)の鐘楼を兼ねている。上層は三間二間の吹放しの珍奇な建物である。
天理市HP転記
2020/02/15 09:58:27
江戸時代の天明3年(1783)に再建され、本尊である阿弥陀三尊、多聞天、増長天が安置されている。
野良猫君がたくさんおりました。
お堂には勝手に入る形式で、扉を開けると自動で電源が入り本尊を拝める、人っ子一人いない本堂は冷え切っていて唯一本堂前の廊下にたむろしている野良猫たちが生命のぬくもりを放っていた。
2020/02/15 10:01:50
長岳寺(ちょうがくじ)石造層塔(鎌倉時代後期、白色凝灰岩、高さ 約400Cm)
二上山の凝灰岩であろうか?
2020/02/15 10:04:13
長岳寺本堂から東南の丘の上にかなり急な階段の上り路を上がると、この石仏がまつられている。
高さ2.4m、幅1.8m、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。
風化も少なく、美しく保存されている、他の石棺仏とは作風に一線をかくする、おそらく寺の意向を受けた名人級の作者が刻んのであろうか?
2020/02/15 10:04:34
大きくて雄大な感じがする石仏である。
2020/02/15 11:26:17
正楽寺の境内、コンクリート製の覆屋の中に祀られている。
板状の凝灰岩(高さ 230.0cm、幅 95.0cm、厚さ 15.5cm)に、阿弥陀如来坐像を浅く線刻している。
銘文は記されていないが、緩やかに波打つ線条は優美で、平安時代後期頃の特色が認められる。
香芝市で同時期の石仏は他に類例がなく、県内でも広陵町南郷の石造伝弥勒菩薩坐像が知られているにすぎない。
なお、この板状石は、古墳に伴う石棺の棺台石を転用したものではないかとする説もある。
香芝市HP転記
2020/02/15 11:26:53
古墳石棺の棺台を転用したと思われる高さ230cm、幅95cmの板状石に、二重蓮華座の上に上品上生印を結んで端座する定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。
2020/02/15 11:27:31
年号は記されていないが、繊細な造形とおおらかな曲線の表現に平安時代後期頃の作風を残すとされる。
石棺を利用した石仏では最も古い遺品であるとされている。
平野塚穴山古墳のすぐ横にあたる。
2020/02/15 11:30:11
奈良県西部、明神山から派生する低丘陵上に営造された古墳群である。これまでに6基が確認されている。現在は3基(1・2・5号墳)のみが遺存し、それら3基で調査が実施されている。
古墳群のうち2号墳は主体部の埋葬施設を横穴式石室とする。全長約10.6メートルを測る大型石室であり、北葛城地域の終末期古墳では最大級の規模になる[1]。石室の一部に二上山凝灰岩が使用される点(大部分は花崗岩)、棺台として土製の?と受台が使用される点で特色を示す古墳になる[1]。2号墳に続く塚穴山古墳(5号墳)は、主体部の埋葬施設を横口式石槨とする。全ての部材を二上山凝灰岩の切石とする石槨としては最古級の例であり、天皇・皇族級の墓として注目される古墳である。
この平野古墳群は、古墳時代終末期の7世紀代の営造と推定される。当地では前時代の古墳の築造は知られず7世紀代に突如として営まれるようになった古墳群であるが、各古墳の様相の秀逸さから被葬者としては王族級の人物、特に敏達天皇系王族の茅渟王一族とする説が挙げられている[2]。また横穴式石室から横口式石槨への変質を追うことが可能な古墳群であるとともに、付近では尼寺廃寺跡(香芝市尼寺)があり、同一の造営氏族による終末期古墳と古代寺院の併存例としても重要視される古墳群である[2]。
ウィキペディア(Wikipedia)
2020/02/15 11:30:55
平野の丘陵に沿った崖沿いに6基の古墳があったとされる。
そのどれもが巨大な玄室を持つ王級の墳墓であってもおかしくないそうだ。
正楽寺の石棺仏はそれらを転用したのかは解っていませんが、このあたりがかつては王家の谷であったことは間違いないようだ。
2020/02/15 12:05:24
当麻北墓 石造十三重石塔(中将姫の墓塔と伝わる)(鎌倉時代末期、花崗岩製、高さ 285Cm)
初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、鎌倉時代末期の様式である。
横に建つ石造三重塔は、平安時代後期の作で、高さは156cmである。
2020/02/15 12:06:18
当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その入口付近に中世の十三重石塔などと共に、このいかにも古そうな五輪塔がランドマークのように存在している。
僕は最初に当麻寺付近をポタっていてこの共同墓地にある五輪塔を8年前位に発見したのだが、そのあまりに強烈で圧倒的な存在感に打たれてしまい、近辺に立ち寄ることがあると必ず対面する事にしている。
石造物の中では強烈で圧倒的存在感で人格すら感じさせる五輪塔で、国の重要文化財にしてされているが、さもありなんですわ。
2020/02/15 12:10:51
当麻寺の創建については詳しいことは解っていない。但し「上宮太子拾遺記」と「建久後巡礼記」にある当寺院縁起と本堂、東塔、西塔等の建築物の検証等から、飛鳥時代の有力氏族の一人である当麻氏の氏寺として、天武天皇(672-685)期の末期頃に着工し、順次伽藍が整備されていったのであろうと推定されている。