浪花百景をライドルその2

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2019-08-13 06-12-分割(002)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/08/13 09:25:23終了日時2019/08/13 13:13:47
水平距離40.60km沿面距離40.62km
経過時間3時間48分24秒移動時間2時間40分26秒
全体平均速度10.67km/h移動平均速度15.00km/h
最高速度49.78km/h昇降量合計122m
総上昇量60m総下降量62m
最高高度20m最低高度-1m

レポート概要

江戸時代後期から明治初期にかけて、大阪を中心に数多くの上方浮世絵師が活躍し、役者絵や風景版画にその業績を遺しました。また、江戸で活躍する浮世絵師も、商都浪花の繁栄ぶりや名所・旧跡に心を寄せ、様々な風景版画を描きました。

その中の一つに、浪花百景がその量と質に於いて抜きんでた作品である。
(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員・芳滝・芳雪による合作で、幕末に大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも云われる。

今現在浪花百景で描かれた場所がどうなってるのか?訪ねてみた。

枚数が多いので5-6回に分けて尋ねる計画である。

写真レポート

天満天神地車宮入

2020/03/01 17:17:21

天満天神地車宮入

主神は菅原道真、他には手力雄命、猿田彦命、野見宿禰、蛭子命を配祀し、天満、堂島、曽根崎、本田、松島等の氏神である。  以前この辺りは、孝徳天皇が長柄豊碕宮を設営した時に乾の位に魔除けの神大将軍を祀った祠のある「大将軍の森」と伝える。村上天皇の勅願で、天暦3年(949)社殿を創建、天満宮を勧請した。これは道真没後47年に当たる。  古くから文人にゆかりが深く、元禄14年(1701)の菅公800年祭には連歌所で万句が献ぜられ境内には1万個の灯明が点ぜられたという。

大阪eコレクション転記

天満天神

2019/08/13 09:27:28

天満天神

奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

神社HP一部転記

北妙けん堤

2020/03/01 17:18:29

北妙けん堤

天満地域には南北に延びる天満堀川が天満宮の西側にあり、南は堂島川につながり北は扇町公園付近で行き詰まりになっていました。この堀は天保9年(1838)東北方向に延長されて大川につなげられ、大小2つの池、女夫池が埋め立てられました。大塩平八郎の乱後の窮民救済を兼ねた事業であったといわれます。

妙見堂

2019/08/13 09:33:08

妙見堂

日蓮宗の寺で、1608年に梅ヶ辻で創建され、後に能勢家天満屋敷・妙見堂に移転。妙見大菩薩として今日に至る。江戸時代には「女夫池の妙見さん」と呼ばれ、宗派を問わず参拝者が多かった。

堀川備前陣家

2020/03/01 17:21:23

堀川備前陣家

天満堀川に沿った綿屋町に設けられたのが備前岡山藩の蔵屋敷で、錦絵画面の右奥には蔵屋敷に船を直接入れるための舟入の水門と、それをまたぐように設けられた舟入橋が見えます。堀端には桜が植林され、美しい景観をなしていました。

阪神高速道路守口線

2019/08/13 09:35:59

阪神高速道路守口線

北の大融寺

2020/03/01 17:25:33

北の大融寺

弘法大師・空海によって創建され、嵯峨天皇から贈られた千手観音像を本尊とします。その後、嵯峨天皇の皇子の源融が広大な境内に七堂伽藍を建立しましたが、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で全焼します。元禄年間に復興されたものの第二次世界大戦の大空襲で再び焼失してしまいますが、戦後、復興されて現在の姿となります。

北の大融寺

2019/08/13 09:39:24

北の大融寺

太融寺(たいゆうじ)は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の寺院。新西国三十三箇所第2番札所。

嵯峨源氏の祖である源融ゆかりの寺で、古くから当寺付近の地名にもなっている[1][2]。

「大融寺」と誤記されることもあり、中近世の文書に多い。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

浜村鬼子母神

2020/03/01 17:32:57

浜村鬼子母神

正式には日蓮宗慶住院。現在は摂津峡に移転したが以前は南浜村の内、源光寺の南に位置した。  『浪華の賑ひ』に「霊験あらたなりとて遠近より歩みをはこぶ人間断なく宝前の供物・献灯・香花の甚だしきは言ふも更なり。詣人むれて題目・自我偈方便品など唱ふる声いとかしがまし。」とあるようにかつては大いに賑い、周りには茶店や料理屋もできていたという。

大阪eコレクション転記

南浜バス停

2019/08/13 09:52:43

南浜バス停

関連リンク

豊崎(とよさき)は、大阪府大阪市北区の町名。現行行政地名は豊崎一丁目から豊崎七丁目。

本項では町名の由来となった、かつての西成郡豊崎町(とよさきちょう)についても述べる。

現行住居表示の豊崎は、かつて存在した西成郡豊崎町の西部にあたる。孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の比定地であったことに由来するが、後年の発掘調査により、比定地は中央区法円坂が有力になっている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

十三中道

2020/03/01 17:38:26

十三中道

大坂からの西国街道が淀川にあたる所。淀川を越える渡があった。大きな街道筋のため人通りは多く、『摂津名所図会大成』には、「往還の旅人間断なし 名物とて焼餅を売家多し」と記している。明治11年(1878)に私設木橋の十三橋が建設され、渡は廃止された。

十三大橋

2019/08/13 10:00:19

十三大橋

十三という地名は、旧成小路村(現在の淀川区新北野付近で)の字名の一つで、十三の名の起こりは条里制の十三条に由来するという説もあるが、淀川の渡しのうち、上から数えて13番目であったこととする説が有力で、江戸時代以前から”十三渡”があったとされる。

大阪市HP

北瓢亭

2020/03/01 17:41:13

北瓢亭

蜆川で分けられた堂島の北にあるのが曾根崎。宝永5年(1708)に当地から上福島の間が新地となり、次第に繁栄して曾根崎新地となった。北の新地ともいう。『摂津名所図会大成』には「紅顔雪肌のともがらゆききして楼上には琴曲絲絃の音うるわしく四時ともに賑わし」とある。現在もキタの繁華街として賑わいをみせている。

大阪eコレクション転記

曽根崎新地

2019/08/13 10:15:19

曽根崎新地

1685年(貞享2年)に開始された河村瑞賢による堂島川・曽根崎川の改修に伴って堂島で新地開発が行われ、1688年(元禄元年)に堂島新地が誕生した。堂島新地は大坂城下の北端、または、船場の北に位置することから「北の遊里」と呼ばれた。1697年(元禄10年)には、それまで豪商淀屋の邸宅前、淀屋橋南詰の路上で開かれていた米市が堂島新地で開かれるようになった。

西成郡曾根崎村領内となる曽根崎川の北岸でも新地開発が行われ、1708年(宝永5年)に曾根崎新地が誕生し、大坂三郷に編入された。一方、堂島新地は「商いの場」へと変わり始め、1730年(享保15年)に堂島米会所が開設される頃には遊里のほとんどが曾根崎新地へ移転した。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

堂じま米市

2020/03/01 17:45:02

堂じま米市

蜆川と堂島川に挟まれた一帯を堂島といい、貞享2年(1685)河村瑞賢の両川改修後に開発され、天満舟を造る舟大工が多く住み、舟小屋ができ発展していった。元禄年間(1688~1703)頃には遊所町となり、その後遊所は曽根崎新地に移り、堂島には米市場が開かれ、享保15年(1730)に米相場会所がつくられ、また諸藩の蔵屋敷も多く立地し商業の中心地となっていった。  名前の由来については、聖徳太子が四天王寺建立の際、風水害が起こって諸材尽く散じてここへ流れ着いたため堂の島といったという説、流水南北に分かれ、その中にある地なので胴島といったという説などいくつかの説がある。

大阪eコレクション転記

堂島

2019/08/13 10:17:31

堂島

江戸時代より新地・米市場・蔵屋敷地として栄え、中央に南北幹線の四つ橋筋が通るが、この四つ橋筋を挟むように高層ビルが立ち並び、大企業の本社や支社が集まるオフィス街となっている。一方、北新地に包含される北東端は歓楽街の色彩を帯びている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

大江ばしより鍋しま風景

2020/03/01 17:48:40

大江ばしより鍋しま風景

現在大坂高等裁判所のある辺りには佐賀藩松平肥前守35万7千石の蔵屋敷があり、辺り一帯を鍋島浜と呼び、夕涼みに絶好の地であった。米市場が近いため周辺には奥州弘前の津軽大隈守10万石、対馬の宗対馬守10万石、尼崎松平遠江守4万石、佐伯毛利安房守2万石の蔵屋敷も並んだ。元禄年間(1688~1703)に架けられたといわれる大江橋から眺める佐賀藩蔵屋敷の白壁は見事なものであった

大阪eコレクション転記

裁判所付近

2019/08/13 10:20:52

裁判所付近

佐賀鍋島藩の蔵屋敷があり、川べりは鍋島浜と呼ばれていました。
堂島川から船が入り込むところが舟入で、裁判所構内で遺構の一部が発掘されました。

大阪あそ歩転記

三大橋

2020/03/02 18:10:15

三大橋

天神橋は大川に架かる大橋。天満宮への参詣にあたる道に架けられた橋であるところから名付けられた。明治18年(1885)に流失後、明治21年(1888)にアーチ式の鉄橋となった。現存は昭和9年(1934)に改築されたもの。  天満橋は大川の谷町筋に架かる橋で、江戸時代には谷町筋より一つ東側の筋に架けられていた。江戸時代には、天満橋、天神橋、難波橋の三大橋がそろって架けられ、いずれも「公儀橋」に指定され幕府の直轄管理となった。  その後度重なる流失を経て、明治21年(1888)天神橋と共に鉄橋化される。  難波橋は、現在は堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有することで知られている。  江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定され、界隈には諸藩の蔵屋敷が建ち並びそれを取り巻くように問屋街が形成され大変な賑いをみせた。

大阪eコレクション転記

難波橋

2019/08/13 10:30:24

難波橋

両詰に置かれたライオンの石像から、「ライオン橋」の愛称で親しまれている橋。歴史は古く、745年に僧・行基が摂州に難波橋を架けたという記述が見られるほど。これは伝説としても、江戸時代の初めには公儀橋に指定されていた。現在の難波橋は他の大阪の橋と比べて装飾的で、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、そしてライオン像と公園に降りる華麗な石造りの階段など、水都大阪の栄華を象徴する橋といえるだろう。

蛸の松夜の景

2020/03/02 18:16:27

蛸の松夜の景

中之島の久留米御蔵屋敷の浜にあった松。大樹老松で枝葉が四方に伸びてまるでタコの様子だったので名付けられた。『浪華の賑ひ』には月の夕べ、雪の朝には川面に写る松の姿が「雅俗きそひてこれを賞す」とある。木は明治10年(1877)頃に切り倒されたという。

大阪eコレクション転記

田蓑橋より望む

2019/08/13 10:38:54

田蓑橋より望む

 田蓑橋は元禄時代、堂島開発によって架けられた橋の一つである。それぞれの橋には大坂に古くから伝えられた由緒ある橋の名や歌枕として有名な地名などから採って付けられたが、田蓑は古代の大阪にあったとされる八十八島の一つ、田蓑島に由来する。

 橋の周辺は各藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。南西側にあった広島藩の蔵屋敷の塀際には、蛸の松という姿の良い松の巨木があり、名所になっていた。

玉江橋景

2020/03/02 18:26:37

玉江橋景

堂島川に架かる橋。川幅が広く、両岸が諸大名の蔵屋敷というところに美しい太鼓橋が架かっており「風景絶唱」と称えられた。南詰の東側に理宝院という薬師堂があり、この橋を渡る参詣者も多かったという。ここから南東にあるはずの天王寺の塔を真南にみることができ、「浪花の一奇観」とされた。

大阪eコレクション転記

玉江橋

2019/08/13 10:40:36

玉江橋

玉江橋は大江橋や渡辺橋と同様に、元禄期の堂島開発によって架けられた橋である。この時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活されたが、のちに玉江橋と変更されている。玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。

 江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝院という薬師堂があり、縁日には大層賑わった。

福しま逆櫓松

2020/03/02 18:29:10

福しま逆櫓松

文治元年(1185)源平合戦の折り、源頼朝の命を受けた義経は、屋島に布陣する平氏を急襲するべく福島にて準備を進めます。この時、頼朝がつけた参謀格の梶原景時が船の前後進を可能にするため船首にも櫓(逆櫓)をつけることを進言、戦う前から退却の準備をすることを嫌い受け入れない義経はこの意見を退けましたが、納得しない景時は義経に「猪のしし武者」と罵声を浴びせました。2人の間の激論がこの松の下で行われたといわれます。

大阪eコレクション転記

現在の逆櫓の松

2019/08/13 10:42:59

現在の逆櫓の松

平家物語』の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓 (オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」とべた。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気ねてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所がこの辺といわれている。
この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
大阪市教育委員会(現地説明板)

うらえ杜若

2020/03/02 18:36:42

うらえ杜若

了徳院。号は如意山。真言宗東寺派の寺院。本尊は准胝観音。  聖天堂にある歓喜天が有名で浦江聖天と通称される。『浪花の賑ひ』には「歓喜天堂」と称され、参詣者が間断なく訪れるところとして紹介されている。  境内の池は杜若で知られ、松尾芭蕉の句碑がある。

大阪eコレクション転記

了徳院

2019/08/13 10:50:46

了徳院

洪水のために記録が失われ、創建年月は不明。元文元年(1736年)3月、高野山善寿院の宥意上人が入寺して再建を企て、元文4年(1739年)10月に竣功。
その後また衰えていたのを天保5年(1834年)僧某が堂宇を再建する[1]。
古来伏見宮の祈願所で、本堂に十一面観世音菩薩(大聖歓喜天)を安置する。この大聖歓喜天は浦江がまだ海岸だった折、漁師の網にかかって海中から出現したと伝えられる。
子宝、縁結びを願う信仰に支えられ、浦江聖天、福島聖天と呼ばれ親しまれた。当地はいくつかの水路が流れ込み、境内の水辺には杜若が群生し、花の時期には参拝客で溢れた[2]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

野田藤

2020/03/02 18:40:43

野田藤

「のだふじ」は、豊かな房が特徴で、平成7年に区の花に制定されました。
 この「のだふじ」は、今から約600年前(南北朝時代)からその美しさで知られ、江戸時代には「吉野の桜」「高雄の紅葉」とともに三大名所と言われ、野田の藤見物が盛んでした。
 江戸時代には、野田村の「藤之宮」と呼ばれた春日社(玉川2丁目)周辺が、藤の名所であったことは「摂津名所図会」に「野田藤春日の林中にあり 昔より紫藤名高くして」と紹介されています。

福島区HP転記

大阪市福島区野田近辺(春日社周辺)

2019/08/13 11:00:35

大阪市福島区野田近辺(春日社周辺)

関連リンク

「野田藤」発祥の地である大阪市福島区では、「のだふじの会」の方が熱心に色々と研究されています。

安治川ばし

2020/03/02 18:48:01

安治川ばし

安治川に架けられた橋。富嶋1丁目と安治川1丁目を結んだ。橋の西の2丁目は俗に新堀と呼ばれる賑わい場であった。『摂津名所図会大成』には「いづれの舟着の泊茶屋軒をつらね昼夜絃哥の声絶ず紅顔雪肌のともがら徘徊してすこぶる賑わし」とある。  明治に入って、居留地への入口として新しい安治川橋が架けられたのが明治6年(1873)。マストの高い舟が航行する際には橋げたの中央部分が旋回する可動橋で、その様子から人々は「磁石橋」とも称した。  明治18年(1885)の大洪水をきっかけに撤去された。現在はトンネルを通って西区と福島区の行き来がおこなわれている。

大阪eコレクション転記

安治川橋 梁顕彰碑

2019/08/13 11:09:31

安治川橋 梁顕彰碑

江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり、洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため貞享元年(1684)幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地の開発に伴い初めて架設された。

 江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として、準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。

 明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。
 この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。

 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗し、よく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。  大阪市HP転記

川口雑喉場つきじ

2020/03/02 18:56:01

川口雑喉場つきじ

木津川、安治川の分流する地点をいう。『摂津名所図会大成』には朝に東風が吹いて出帆によく、夕方に西風が吹いて入船によいために「日本第一の大湊」であると紹介されている。千石、二千石の海船が行き交い、「初春の乗りぞめより歳暮の泊船にいたるまで四時ともに賑わしく新艘の船おろし出帆の送別入津の嘉びいづれも競ひの祝い酒新堀幸町の旅舎に絃歌の声囂し」といわれた。

大阪eコレクション転記

大坂船手会所跡

2019/08/13 11:10:37

大坂船手会所跡

大坂船手は、大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することと、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和六年(1620)に設立された。その中心施設がこの地におかれた船手会所である。配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行う船番所が、会所の北側と春日出、三軒家の三箇所に置かれた。また、船蔵が会所の脇と四貫島にあった。十八世紀代には船手頭か小豆島などの代官を兼ねることもあり、大坂における幕府の重要な役職のひとつであった。元冶元年(1864)に廃された。

大阪市教育委員会

戎嶋天満宮御旅所

2020/03/02 19:07:29

戎嶋天満宮御旅所

かつて、天神祭の船渡御は、神輿が難波橋から船に乗り楽を奏して川を下って御旅所まで往復していた。天満宮の御旅所は延宝年間頃に雑喉場からこの戎島に移転している。  天神祭の日は屋形船に御迎人形を飾り、太鼓、三味線、笛などのお囃子が華麗で、この光景をひと目見ようと多くの人たちが押し寄せてきたという。  明治以後に御旅所は松島に移転した。

大阪eコレクション転記

西区川口1

2019/08/13 11:12:35

西区川口1

今は、市立本田小学校(西区川口1)になっている。
対岸の民家の間に石碑が ぽつねん と佇んでいる。

雑喉場

2020/03/02 19:05:19

雑喉場

天満の青物市場、堂島の米市場と並ぶ大阪の三大市場の1つ。毎朝遠近の浦々から集められた魚を商う市が郡をなして立てられた。慶安・承応年間に安土町・備後町辺りにあったが、夏場には魚が腐ることもあったので、鷺島と呼ばれるあたりに市が立った。その場に多くの魚が集まったので、鷺島という名は消えて、雑喉場と呼ばれるようになった。  かつては、雑喉場に天神祭の御旅所があった。  昭和6年(1931)に大阪市中央卸売市場ができた際に消滅した。

大阪eコレクション転記

雑喉場跡

2019/08/13 11:15:02

雑喉場跡

雑喉場市場跡は延宝年間(1673~81)に鷺島の生魚市場の名称を雑喉場と改め、大坂三郷の中央部に所在していた魚市場を移転させて以来、昭和六年(1931)に市営の中央卸売市場に統合されるまで、実に二百五十年以上ものあいだ大阪における魚類取引の中心をなしたところである。

一般財団法人
大阪市コミュニティ協会HP転記

松のはな

2020/03/02 20:28:16

松のはな

現在の松島公園の北端付近、木津川分流点の岸の突端に見事な松があったことから、この辺りは「松の鼻」あるいは「松が鼻」と呼ばれ、江戸期には水辺の景勝地として親しまれた。『浪華の賑ひ』にも「名木の松ありて、蒼々たる枝葉、川の面にうつる景色斜ならず。夏の頃は舟行の遊人この松の下掉さしよせて、涼風を賞し、花火を焼きて楽しむなど、その瞻望また比ひなし。」とあり、当時の景観を窺い知ることができる。

大阪eコレクション転記

松島橋

2019/08/13 11:25:00

松島橋

旧松島(西区本田一丁目)辺りは、尻無川の分流点にあたり、江戸時代には寺島と呼ばれていた。川沿いには造船所が多く、時々進水の祝いがあって賑やかであったという。寺島の北端には松の古木があって松の鼻とも呼ばれ、この風景を賞するため遊客を乗せた船が集まった。

 明治の初めに川口に居留地が造られたこともあって、松島には市中の遊所を集めて、大阪最大の遊所が開かれた。この開発を促進するため明治2年に松島橋が架けられた。この橋は明治18年の大洪水によって流されたため、直後に鉄杭をもった木桁橋が架けられた。

大阪市HP転記

2020/03/02 20:46:52

茨住吉

寛永元年(1624)、九条島開発に際し産土神として勧請された神社。祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命。  初め、この地に茨が多かったために茨住吉と呼ぶようになったというが、一説には莵原郡の住吉大社を勧請したため、莵原(うばら)が訛って茨になったとも言われている。  『浪華の賑ひ』には、境内の池には杜若が多く植えられ、花盛りの頃は多くの人で賑わったとある。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 11:28:33

茨住吉神社

九条島では寛永元年(西暦1624年)ごろこあら新田の干拓工事が始められ、その完成とともに東西二十五間(45メートル余)南北七十五間(136メートル余)の境域が区画され、社殿が造営されて、産土神として新田・河川の守護神として住吉大神が祀られました。

神社HP一部転記

2020/03/02 20:52:44

あみだ池

和光寺本堂の北。池中に宝塔があり、阿弥陀三尊を安置している。池の表には蓮が多く、盛りの時は蓮の香りが四方に広がるという。  和光寺の号は蓮池山。本尊は阿弥陀仏。  仏教伝来時に物部尾輿、中臣鎌子が日本は神国として仏像を難波堀江に焼き捨てたが、本多善光が捨てられた仏像を拾い上げて、これを本尊として開いたのが長野の善光寺である。元禄11年(1698)に智善上人が、善光寺と同体の本尊を安置したのが和光寺で、難波堀江の跡が阿弥陀池と縁起にある。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 11:37:26

あみだ池和光寺

和光寺は元禄十二年(1699)に信濃の善光寺から全長約四十五センチの金銅阿弥陀仏を本尊として移し祀った浄土宗の尼寺として知られる大阪の名刹である。
 堀江の地は、元禄期の都市再開発により新たに市街地となったいわゆる新築地で、江戸時代の初めのころは、まだ難波領の田地であった。しかし、長堀・道頓堀・西横堀・木津川に囲まれたこの地の川沿い、特に長堀沿いには土佐藩蔵屋敷との関連で材木市やその問屋が早くから盛んな商いをしていた。

一般財団法人
大阪市コミュニティ協会HP転記

2020/03/02 20:56:50

新町廓中九軒夜桜

新町橋西側一帯の大坂で唯一の公認の遊所。江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊所の1つであった。この廓中一番賑わっていたのが瓢箪町。瓢箪町の由来については『摂津名所図会』には伏見の浪人木村亦次郎が廓の長を務めた折、瓢箪の馬印を拝領し常に玄関にかざっていたため、と記している。

大阪eコレクション転記

2020/03/02 20:58:47

新町店つき

新町橋西側一帯の大坂で唯一の公認の遊所。江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊所の1つであった。この廓中一番賑わっていたのが瓢箪町。瓢箪町の由来については『摂津名所図会』には伏見の浪人木村亦次郎が廓の長を務めた折、瓢箪の馬印を拝領し常に玄関にかざっていたため、と記している。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 11:42:43

新町九軒桜堤の跡

京都の島原・江戸の吉原とともに、近世三大遊里の一つと称される大坂の新町は、明暦のころ(1655頃)一応成立したと考えられている。当時としては、大坂唯一の公認の遊所であった。九軒町の名は、玉造の九軒茶屋を移したからといわれている。
 西鶴や近松の作品に登場する吉田屋は、戦災前まであった。また九軒町の夜桜としても有名であった。
大阪市HP転記

2020/03/02 21:02:46

永大浜

明和4年(1767)頃に永代堀に設けられ、特に干鰯の集散場として有名であった。干鰯は鰯の外、いかなごや、いかなどから油を絞ったあとの滓で、これが田んぼの肥料として重宝された。北国から集まってきて、これをさばく問丸の市の建っていたことが『摂津名所図会』からもうかがえる。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 11:48:57

靱海産物市場跡

鰹節、干鰯などの干魚を商う海産物市場で、豊臣の時代には海産物の市場はひとつで、今の北浜のあたりにありましたが、江戸時代のはじめ、元和4年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、生魚の市場が本町のあたりに移りました。
 元和 8年(1622)には、干物などを扱う市場も、この靱の地に移ってきました。

現地碑より

2020/03/02 21:08:08

四ツ橋

四ツ橋は南北に延びる西横堀川と東西に延びる長堀川が交差するところにロ字状に架けられていた四つの橋、すなわち北側の上繋橋、南側の下繋橋、西側の吉野屋橋、東側の炭屋橋を総称していう。架橋年代は定かではないが、元和8年(1622)長堀川開削ののち数年後といわれる。  銅吹屋(銅製錬所)が近いこともあり辺りには炭屋が多かった。江戸期には納涼や観月、または市街の景勝地として親しまれ、名物であった煙管屋が軒を並べた。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 12:07:02

四ツ橋跡

南北に流れていた西横堀川と東西に流れていた南堀川が交差していた所で、4ヵ所に橋が架かっていたのは四ツ橋と呼ばれていた。西横堀川の北の橋は「上繋橋」、南は「下繋橋」で、長堀川の東の橋は「炭屋橋」、西は「吉野屋橋」と言った。昭和39年に西横堀川の埋め立てにより、2橋は撤去あれ、同様に昭和45年には長堀川の2橋も撤去された。

現地碑転記

2020/03/02 21:12:15

二軒茶や風景

現在は玉造駅東に「二軒茶屋跡」の碑が残り、「この道の両側に明治の中頃まで、つる屋ます屋の二軒の茶店があった、市中から暗越奈良街道へ旅立つ人の多くは、ここで見送りと別れを惜しんだ」と記されている。「つる屋」「庄屋(のちにます屋となる)」という二軒の茶店は旅人の休息所、酒宴の会場として名所となるほど繁盛した。ます屋は明治に入り廃業、つる屋は大正年間(1912~1926)まで存続した。

大阪eコレクション転記

2019/08/13 12:23:04

二軒茶屋跡

江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。

現地碑より