浪花百景をライドルその3

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プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/08/13 11:03:18終了日時2019/08/13 13:13:47
水平距離25.12km沿面距離25.13km
経過時間2時間10分29秒移動時間1時間32分41秒
全体平均速度11.56km/h移動平均速度16.10km/h
最高速度38.28km/h昇降量合計102m
総上昇量52m総下降量50m
最高高度20m最低高度0m

レポート概要

江戸時代後期から明治初期にかけて、大阪を中心に数多くの上方浮世絵師が活躍し、役者絵や風景版画にその業績を遺しました。また、江戸で活躍する浮世絵師も、商都浪花の繁栄ぶりや名所・旧跡に心を寄せ、様々な風景版画を描きました。

その中の一つに、浪花百景がその量と質に於いて抜きんでた作品である。
(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員・芳滝・芳雪による合作で、幕末に大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも云われる。

今現在浪花百景で描かれた場所がどうなってるのか?訪ねてみた。

枚数が多いので5-6回に分けて尋ねる計画である。

写真レポート

茨住吉

2020/03/04 06:23:18

茨住吉

寛永元年(1624)、九条島開発に際し産土神として勧請された神社。祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命。  初め、この地に茨が多かったために茨住吉と呼ぶようになったというが、一説には莵原郡の住吉大社を勧請したため、莵原(うばら)が訛って茨になったとも言われている。  『浪華の賑ひ』には、境内の池には杜若が多く植えられ、花盛りの頃は多くの人で賑わったとある。

大阪eコレクション転記



茨住吉神社

2019/08/13 11:28:33

茨住吉神社

九条島では寛永元年(西暦1624年)ごろこあら新田の干拓工事が始められ、その完成とともに東西二十五間(45メートル余)南北七十五間(136メートル余)の境域が区画され、社殿が造営されて、産土神として新田・河川の守護神として住吉大神が祀られました。

神社HP一部転記



あみだ池

2020/03/04 06:26:20

あみだ池

和光寺本堂の北。池中に宝塔があり、阿弥陀三尊を安置している。池の表には蓮が多く、盛りの時は蓮の香りが四方に広がるという。  和光寺の号は蓮池山。本尊は阿弥陀仏。  仏教伝来時に物部尾輿、中臣鎌子が日本は神国として仏像を難波堀江に焼き捨てたが、本多善光が捨てられた仏像を拾い上げて、これを本尊として開いたのが長野の善光寺である。元禄11年(1698)に智善上人が、善光寺と同体の本尊を安置したのが和光寺で、難波堀江の跡が阿弥陀池と縁起にある。

大阪eコレクション転記



あみだ池和光寺

2019/08/13 11:37:26

あみだ池和光寺

和光寺は元禄十二年(1699)に信濃の善光寺から全長約四十五センチの金銅阿弥陀仏を本尊として移し祀った浄土宗の尼寺として知られる大阪の名刹である。
 堀江の地は、元禄期の都市再開発により新たに市街地となったいわゆる新築地で、江戸時代の初めのころは、まだ難波領の田地であった。しかし、長堀・道頓堀・西横堀・木津川に囲まれたこの地の川沿い、特に長堀沿いには土佐藩蔵屋敷との関連で材木市やその問屋が早くから盛んな商いをしていた。

一般財団法人
大阪市コミュニティ協会HP転記



新町廓中九軒夜桜

2020/03/04 06:27:47

新町廓中九軒夜桜

近松の「夕霧阿波鳴渡」に登場する吉田屋は九軒町にあり、道路沿いに桜堤の石垣があって、人々遊里の夜桜を楽しんだ。その堤はこの碑の辺りからなにわ筋を越えて、吉田屋があった現フーセンウサギ本社屋の南側道路へ続いていた。夜桜見物は昭和初期まであったという。



新町店つき

2020/03/04 06:27:49

新町店つき

新町橋西側一帯の大坂で唯一の公認の遊所。江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊所の1つであった。この廓中一番賑わっていたのが瓢箪町。瓢箪町の由来については『摂津名所図会』には伏見の浪人木村亦次郎が廓の長を務めた折、瓢箪の馬印を拝領し常に玄関にかざっていたため、と記している。

大阪eコレクション転記




新町九軒桜堤の跡

2019/08/13 11:42:43

新町九軒桜堤の跡

京都の島原・江戸の吉原とともに、近世三大遊里の一つと称される大坂の新町は、明暦のころ(1655頃)一応成立したと考えられている。当時としては、大坂唯一の公認の遊所であった。九軒町の名は、玉造の九軒茶屋を移したからといわれている。
 西鶴や近松の作品に登場する吉田屋は、戦災前まであった。また九軒町の夜桜としても有名であった。
大阪市HP転記



永大浜

2020/03/04 06:32:10

永大浜

明和4年(1767)頃に永代堀に設けられ、特に干鰯の集散場として有名であった。干鰯は鰯の外、いかなごや、いかなどから油を絞ったあとの滓で、これが田んぼの肥料として重宝された。北国から集まってきて、これをさばく問丸の市の建っていたことが『摂津名所図会』からもうかがえる。

大阪eコレクション転記



靱海産物市場跡

2019/08/13 11:48:57

靱海産物市場跡

鰹節、干鰯などの干魚を商う海産物市場で、豊臣の時代には海産物の市場はひとつで、今の北浜のあたりにありましたが、江戸時代のはじめ、元和4年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、生魚の市場が本町のあたりに移りました。
 元和 8年(1622)には、干物などを扱う市場も、この靱の地に移ってきました。

現地碑より



解船町

2020/03/04 06:57:07

解船町

江戸期以前は笹町と呼ばれた。『宝暦町鑑』に「あハざぼり南側浜側の丁、西よこほりより西は太郎助ばし」の町とある。阿波堀川の南岸に位置し、その名のとおり古船を解体してその板柱や加工品を商う家が軒を並べ、大坂では珍しいこともあって繁盛した。文人らも見物に足を運び、堀端に古板を立て並べた様子は切り立った山岳を連想させ、雪の積もった朝はあたかも山水画のようであったという。

大阪eコレクション転記



本町通

2019/08/13 11:53:01

本町通

本町通りはかつての阿波堀川を埋めたてた道路になる。
阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区にあった堀川(運河)の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百間堀川に流入していた。
 昭和31年9月、大阪府の防潮工事などのため全部埋め立てられた。



四ツ橋

2020/03/04 06:33:23

四ツ橋

四ツ橋は南北に延びる西横堀川と東西に延びる長堀川が交差するところにロ字状に架けられていた四つの橋、すなわち北側の上繋橋、南側の下繋橋、西側の吉野屋橋、東側の炭屋橋を総称していう。架橋年代は定かではないが、元和8年(1622)長堀川開削ののち数年後といわれる。  銅吹屋(銅製錬所)が近いこともあり辺りには炭屋が多かった。江戸期には納涼や観月、または市街の景勝地として親しまれ、名物であった煙管屋が軒を並べた。

大阪eコレクション転記



四ツ橋跡

2019/08/13 12:07:02

四ツ橋跡

四ツ橋は南北に延びる西横堀川と東西に延びる長堀川が交差するところにロ字状に架けられていた四つの橋、すなわち北側の上繋橋、南側の下繋橋、西側の吉野屋橋、東側の炭屋橋を総称していう。架橋年代は定かではないが、元和8年(1622)長堀川開削ののち数年後といわれる。  銅吹屋(銅製錬所)が近いこともあり辺りには炭屋が多かった。江戸期には納涼や観月、または市街の景勝地として親しまれ、名物であった煙管屋が軒を並べた。

大阪eコレクション転記



二軒茶や風景

2020/03/04 06:36:20

二軒茶や風景

現在は玉造駅東に「二軒茶屋跡」の碑が残り、「この道の両側に明治の中頃まで、つる屋ます屋の二軒の茶店があった、市中から暗越奈良街道へ旅立つ人の多くは、ここで見送りと別れを惜しんだ」と記されている。「つる屋」「庄屋(のちにます屋となる)」という二軒の茶店は旅人の休息所、酒宴の会場として名所となるほど繁盛した。ます屋は明治に入り廃業、つる屋は大正年間(1912~1926)まで存続した。

大阪eコレクション転記



二軒茶屋跡

2019/08/13 12:23:04

二軒茶屋跡

江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。

現地碑より