亀岡街道を往く。(大阪府になりたかった村と北摂キリシタン遺構探訪)

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プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/10/18 07:52:52終了日時2014/10/18 13:24:38
水平距離55.87km沿面距離56.17km
経過時間5時間31分46秒移動時間4時間37分06秒
全体平均速度10.16km/h移動平均速度12.10km/h
最高速度48.95km/h昇降量合計2091m
総上昇量1006m総下降量1085m
最高高度483m最低高度32m

レポート概要

明智光秀は、天正5 年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8 年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」が起こります。

亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15 年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

亀山城は、明治維新以降廃城処分となり、所有者が転々とします。紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。石垣は大本によって修復されており、総合受付で見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣を見学することが可能です。

一般社団法人亀岡市観光協会HP転記

宗教活動に対して、日本の内務省が行った統制[1]。大本弾圧事件とも呼ばれる。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある[1]。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』


今年2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主人公にした  麒麟がくる と云うのがタイトルになっている。時代も変わり戦前であれば明智光秀を主題にした物はあり得なかったでしょう、いい意味で過去の人物の再評価がされる時代になったと云う事ですね。

亀岡の町はいろんな意味に於いて時代を震撼させた人物と深い関りを持つ。(大本の影響については津本陽氏の黄金の天馬が詳しい)

亀岡の町は大消費地である京と大坂を控えて、後背地の農産物提供場であり続けてきたので、街道が古くから通じていた、江戸期の大坂側の起点は天満の青物市場(現在の天神橋商店街付近)にあたる。
また亀岡街道は高山右近の領地であった北摂(茨木/高槻)を通過する、高槻では400年間以上信仰を守り続けた隠れキリシタンの里を訪れた。

そんな亀岡街道をポタる。

2020年追記再掲載

写真レポート

明智光秀

2014/10/18 08:02:29

明智光秀

戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも[10]、致命傷を受けて自害したともされる[11]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。

光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 9]。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽『絵本太功記』や歌舞伎『時桔梗出世請状』をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。

画像:明智光秀像(本徳寺蔵)

スタート地点 亀岡駅

2014/10/18 08:02:27

スタート地点 亀岡駅

旧丹波国の最南端に位置し、山城国・摂津国の境目となっています。旧丹波国の中では人口は一番多く、その中心都市として名高い場所でした。戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を築き、それが現在の亀岡市の礎となっています。

旧山陰道

2014/10/18 08:09:49

旧山陰道

古い家並みが残り、歴史遺構なども熱心に残そうとしている町の様子です。

辻の堂と道標

2014/10/18 08:47:31

辻の堂と道標

旧市街の外れには、小さなお堂と道標があった。

右 かめやま 左あたご道

霧にむせぶ

2014/10/18 08:49:07

霧にむせぶ

天気がいいと田園地帯が広ろがる景色でしょうが、この日は霧がすごい事になっています。

妙見宮御供米田地の碑

2014/10/18 09:18:02

妙見宮御供米田地の碑

亀岡街道沿いには 能勢妙見さんへの 道標が非常に沢山ある。
江戸後期に妙見信仰は非常に流行り特に商人と水商売関係者の信仰を集めたそうだ。

この板碑は妙見さんへの御供米田である事を示している。

霧が晴れて

2014/10/18 09:19:38

霧が晴れて

霧が晴れて豊能地区のすばらしい棚田が広がる。

妙見さんへの道標

2014/10/18 09:21:07

妙見さんへの道標

イングランド風の建屋

2014/10/18 09:29:06

イングランド風の建屋

関連リンク

日本の農村風景に突然現れる イングリッシュガーデン 風景に溶け込んでいました。

たまごかけご飯

2014/10/18 09:40:31

たまごかけご飯

関連リンク

卵かけごはん大盛り450円を注文しました。

卵は幾らでも食べ放題・ご飯のお代わりは大盛り¥200くらいだった。
9:30から営業しているとの事だった。

新鮮卵

2014/10/18 09:40:31

新鮮卵

飯は炊きたて、卵はすごく鮮度がよくて、濃厚な味のするので、結局4個も食べてしましました。
朝飯にしては食べすぎ・・

いやしかし・・これはうまいわ。

県境(府境か?)

2014/10/18 09:57:31

県境(府境か?)

卵を堪能した後、しばらく走ると大阪府と京都府の県境(府境)がある。

大阪府になった村

2014/10/18 09:59:41

大阪府になった村

関連リンク

(記念碑)
当部落は、旧藩時代旗本領に属し、牧村といったが、明治22年、自治制発布に伴い、京都府南桒田郡西別院村字牧となった。以来60年余り、部落民は大阪府への合併希望を潜在意識として常に持ち続けて来た。丁度、町村合併促進法の施行によって表面化し、亀岡市誕生にも極力反対したが、諸般の情勢上、一応、昭和30年1月1日、亀岡市西別院町牧となった。その後も大阪府への合併実現に努力し、遂に、昭和33年4月1日、宿願の大阪府豊能郡東能勢村牧となった。

リンクHP参照

山間の旧家

2014/10/18 10:09:08

山間の旧家

道は国道と同化したり、それたりしながら並走する。
旧道には、かまえの良い旧家が並ぶ。

秋

2014/10/18 10:18:50

柿が色付いて深い秋の空とのコントラストが美しい。

高山右近

2014/10/18 10:31:05

高山右近

右近がキリスト教と出会ったのは永禄7年(1564年)、12歳の時。父の勧めで奈良県の沢城で受洗し、「ジュスト」という洗礼名を受けます。天正元年(1573年)の21歳の頃に高槻城主となり、城下町を整備する一方、20を超える教会を建設。当時人口2万5千人のうち、7割強がキリスト教信者であったともいわれています。
 さらに織田信長や豊臣秀吉といった天下人にも仕え、黒田官兵衛や蒲生氏郷といった有名な武将なども入信に導きました。
 右近は武人としての才にも長けており、天正10年(1582年)の明智光秀との山崎合戦では、秀吉方の先鋒として活躍。天正18年(1590年)の小田原北条氏攻めの際は、前田利家の下で働きました。
 また、高岡城や金沢城の設計に関わった名築城家といわれるほか、文化人としての教養も高く、茶の世界では千利休の弟子、「利休七哲」の一人に数えられています。

高槻市観光協会HP転記   画像:カトリック中央協議会

茨木市へ至る。

2014/10/18 10:31:04

茨木市へ至る。

道はいよいよ北摂地区の茨木市へと入っていく。

杉木立の道を行く。

2014/10/18 10:44:24

杉木立の道を行く。

植林された杉木立の杣道を走る、鬱蒼として暗い道。

茨木市立キリシタン遺物史料館

2014/10/18 10:46:53

茨木市立キリシタン遺物史料館

関連リンク

僕は泉州の堺生まれで、ザビエル公園の近くの学校へ通っていたのですが。
かの有名なザビエルの肖像画がここから発見された事は知らなかった。

ザビエル画(複製)

2014/10/18 10:46:53

ザビエル画(複製)

この付近はかつてキリシタン大名として有名な高槻城主・高山右近の領地であった影響で、当時キリスト教信者となった領民が多く、キリスト教禁制後も隠れキリシタンとなり、山奥のこの地で信仰を密かに守りつづけた人々がいた。

大正時代になってこの地区のキリシタン信仰が公になり、民家(東家)の梁にくくりつけられていた「あけずの櫃」に収められて代々厳重に封印されていたものが世に出されたそうです。

豊臣秀吉・徳川時代のあの過酷な弾圧をよく耐え忍んで信仰を続けたものだと素直に関心する。

展示資料

2014/10/18 11:07:49

展示資料

キリシタン信徒の墓石と拓本

新名神高速の橋脚

2014/10/18 11:16:07

新名神高速の橋脚

キリシタン資料館をでて道を下ると、新名神高速の橋脚が見えて来た。
この辺りに新名神高速とサービスエリアができるので今あるあるキリシタン遺跡はほとんど無くなる様子です。

北摂の街遠景と棚田

2014/10/18 11:27:22

北摂の街遠景と棚田

更に道を下ると、突然北摂の街遠景と棚田が見えてくる。

北摂福井城跡

2014/10/18 11:29:44

北摂福井城跡

関連リンク

福井城は建武元年(1334)楠木正成が築いた山城である。

所々に残る道標

2014/10/18 11:34:57

所々に残る道標

市街域にくると街道風情が少なくなってくる。
所々にある道標のみがこの道が街道であった事を示す。

中川原の道標

2014/10/18 11:37:16

中川原の道標

掲示板
この地は、茨城市内を東西に走る西国街道 と、南北に走る亀岡街道 が交差するところです。町名を「中河原町」といい、茨城の城主として名を連ねている「中川清秀」が生まれたといわれる由緒地です。
 中川清秀は、中川佐渡守重清公の長男として生まれました。『中川史料集』によると、天文十一年壬寅(一五四二年)「城州所詳らかならずに於て、御誕生御名虎之助、後瀬兵衛尉と称し奉る」とあり、生まれた詳しい場所はわかりませんが、清秀の菩提寺である梅林寺の蔵書に、摂州島下郡中河原とあることから、この辺りであるとも考えられています。

所々に残る道標

2014/10/18 12:00:21

所々に残る道標

右 たん波 妙見

所々に残る道標

2014/10/18 12:34:27

所々に残る道標

右 勝尾寺 総持寺

左 大坂

所々に残る道標

2014/10/18 12:35:43

所々に残る道標

右 茨木総持寺 京 富田 高槻

吹田の渡し跡

2014/10/18 12:38:59

吹田の渡し跡

かつてはここに吹田の渡しがあった。
現在は斜張橋が架かる。

現在の道標

2014/10/18 12:46:19

現在の道標

大阪市が設えた新しい道標がある。

亀岡街道掲示板

2014/10/18 12:55:41

亀岡街道掲示板

淀川のほとりに大阪市が設置した亀岡街道の説明掲示板があった。
亀岡街道は明治の中ごろに整えられたとの事。

天神橋商店街へ至る。

2014/10/18 13:12:35

天神橋商店街へ至る。

道はやがて天神橋商店街へ至る。
かつてはこのあたりは天満の青物市場があった。江戸期には青果物(野菜・果物)の取り扱いを独占していたのがこの市場である。

おそらくは桂川の保津峡を川舟は下れなかった事だろうから、上流部の丹波地方の農産物を亀山(亀岡)で下ろして亀岡街道を運んで来たのでしょう。

今でも休日はすごい人出である。

高麗橋

2014/10/18 13:23:50

高麗橋

終点です。