⑧ 西国巡礼道を走る。(21番穴太寺~22番総持寺)

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20151231-181632(1)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2015/12/31 07:03:26終了日時2015/12/31 15:35:57
水平距離87.39km沿面距離87.72km
経過時間8時間32分31秒移動時間7時間02分04秒
全体平均速度10.27km/h移動平均速度12.38km/h
最高速度46.92km/h昇降量合計3282m
総上昇量1460m総下降量1822m
最高高度465m最低高度-16m

レポート概要

今回のミッシンは21番穴太寺~22番総持寺までの順礼道を走る。
前回終了した20番善峰寺からすごい勾配の坂道を上がり・・田舎道を快走して亀山へと向かう、電波の入りが悪くて地図の確認ができない地点が多い。
番善峰寺から亀岡間は地図を用意しないとやばいかも知れない。

亀岡からは、のどかな田園地帯を走り大阪方面へと快走する。

石門心学の祖石田梅岩の故郷を抜けて北摂に至る。
石門心学とは江戸時代に石田梅岩(いしだばいがん,1685~1744)が創始した庶民のための生活哲学です。石門とは,石田梅岩の門流という意味です。陽明学を心学と呼ぶこともあり,それと区別するため,石門の文字を付けました。梅岩は,儒教・仏教・神道に基づいた道徳を,独自の形で,そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説きました。そのため,「町人の哲学」とも呼ばれています。
松下幸之助や稲盛和夫に大きな影響を与えたと云われる。

北摂の家並に溶ける総持寺を訪ねる旅。

写真レポート

善峰寺奥の駐車場前

2015/12/31 07:27:19

善峰寺奥の駐車場前

今回のミッションは前回終了した善峰寺から21番穴太寺を経由して22番総持寺までをポタるコース。

特に善峰寺から2kmほどある杉谷集落までの坂は超激坂で競技選手かエキスパートクラスの人しか足つきなしでは登れないでしょう。

また亀岡に入ってから鍬山神社までは、閉鎖された廃道に近い旧道を進むので、難度の高い巡礼道となるが、車の走らない非常に静謐な道を走る事になり、ある意味巡礼道らしい雰囲気を残すみちである。

携帯の電波が届かない場所が多く、善峰寺から亀山と桜峠近辺は地図を用意する必要がある。

杉谷集落のピーク

2015/12/31 07:56:47

杉谷集落のピーク

善峰寺からの超激坂を2kほど上ると杉谷集落がある、民家が5・6軒ほどの集落の中ほどに東海自然歩道の指標と善峰寺への古い町石道標があった。

大都会京都から一山越えるだけで、「こんなに田舎?」と思うほど人気の無い場所で行きかう人も無く、車と出会うことも無かった。

ここから中畑バス回転場までは、快適な下りが続く。

大原野森林公園

2015/12/31 08:09:19

大原野森林公園

関連リンク

杉谷集落からしばらく下ると大原野森林公園へ至る。

ここまでついに人に出会わなかった、道沿いの杉林の中にある泥場にいのししのぬたった跡がたくさんあったので、この辺りはいのししが出るのだろう。

関西電力西京都変電所

2015/12/31 08:18:03

関西電力西京都変電所

道を快適に走ると大原野外畑辺りに突然巨大な変電所が現れる。

関西電力西京都変電所で15年ほど前に大きな停電事故を起こして新聞ねたになっていた。
変電所独特な『ブーン」と言う音がしていて近辺住民は大変だろうな。

大阪府へ

2015/12/31 08:21:45

大阪府へ

この辺りは大阪府と京都府・兵庫県が複雑に錯綜している地域です。
天領とか?大名の領地とか複雑に絡んでいたのでしょう?か。

中畑バス回転場

2015/12/31 08:22:21

中畑バス回転場

高槻市最北の集落「中畑」にある高槻市営バスの回転場です。

南つつじヶ丘桜台横の閉鎖路

2015/12/31 08:45:11

南つつじヶ丘桜台横の閉鎖路

古の巡礼道は南つつじヶ丘桜台にて分枝しているのですが、巡礼道側は厳重に閉鎖されていました。
南つつじヶ丘桜台へ上がってゆく道の左側に平和池水害のモニュメントがありその脇から巡礼道側へ出ることができたが、かつてあった平和池の脇を進む道であるようで、手入れもされず荒れた道であった。

今から60年ほど前にここに平和池と言う灌漑用の人工池を作ったが、大雨で決壊して100人ほどの犠牲者が出る大水害があったそうだ、そういう謂われのせいではないのだが、何か暗い雰囲気の道でおまけに霧も出てきて不安な感じの道でした。

南つつじヶ丘桜台横の閉鎖路

2015/12/31 08:52:11

南つつじヶ丘桜台横の閉鎖路

荒れたかつての巡礼道を進むと「ほんとにこの道で正解かな??」と思ってしみますが、不安にあるような分枝地点には、NPO法人が現地調査して張り付けた指標があって不安を解消してくれました。

茱萸谷池横の閉鎖路

2015/12/31 09:03:44

茱萸谷池横の閉鎖路

南つつじヶ丘桜台横から強引に入った巡礼道はやがて茱萸谷池の脇に沿うような形で進む、めったに人が通らない道になっているようで、僕が進むと驚いた水鳥たちがあわてて羽音をたてて逃去っていく。
閉鎖路区間は手入れされておらず、ロードでは走行が無理、まあ、徒歩かMTBがあればOKでしょうが、人が来ないので単独行はやめた方が懸命であろう。

特に上矢田町の閉鎖路出口は高いフェンスがあってチャリを持ち上げておろしてから自分がもう一度フェンス越えをしなければならず、アクシデントリスクが高く危険でもある。

南つつじヶ丘桜台横から上矢田町までの閉鎖路(鍬山神社大鳥居の手前付近)間では迂回路を選択したほうがいいだろう。

鍬山神社鳥居

2015/12/31 09:15:44

鍬山神社鳥居

走行困難な閉鎖路を越えると、鍬山神社の大鳥居が見えてくる、大鳥居を過ぎて住宅団地を左手へ入りゴルフ練習場の横の急階段をチャリを持って降りて、田んぼのあぜ道を進むと出雲大社京都分院のほうへ進める、ここまでくると後は難しい道は無い。

鍬山神社は非常に古くから鎮座する神の様子で、社伝によると和銅二年(709)の創祀。
式内社・鍬山神社の比定される古社で鍬山大明神とも矢田社とも呼ばれた神社。
往古、当地は大蛇の住む泥湖であった。
そこで祭神・大己貴命が、八神を黒柄山に集めて協議し、みずから鍬を持って浮田峡(保津峡)を切り開き、肥沃な農地としたという。里人は、その神徳を慕い、天岡山の麓に大己貴命を祀ったのが起源とされる。

西国巡礼道道標(曽我部町重利の道標)

2015/12/31 09:32:10

西国巡礼道道標(曽我部町重利の道標)

西国札所は20番の善峰寺、21番穴太寺、22番茨木の総持寺の順ですが、江戸期の人気コースは、19番札所京都・行願寺革堂から愛宕神社へ参り、そこから穴太寺、善峰寺、総持寺へ巡るのがはやっていたようです。

その関係からか亀岡には街道が交錯していて多くの道標がありました。

稗田野神社

2015/12/31 09:46:02

稗田野神社

篠山街道(丹波街道・山陰道)沿いにある稗(草冠がつく)田野神社、社伝によると、和銅元年(708)大神朝臣狛麻呂が丹波国守として派遣され和銅二年(709)五穀の守護神として創祀したという。
式内社・?田野神社の比定される古社。

がん封じにご利益があるそうで個人的にお参りに立ちよりました。

穴太寺山門

2015/12/31 10:14:54

穴太寺山門

穴太の集落の中心とも云う様な場所に忽然と山門が現れる。
町の風景に溶け込んでいて、他の西国33箇所の大寺にありがちな大上段に振りかぶったような雰囲気が無いこじんまりしたお寺でした。

納経を済ませてご朱印を受けているときに、たいそうなおじいさんがやってきて、「奥さまは、いてはりまっか、○○のもんですけど、頼まれもん届けにきたけど家にいてしまはりませんよって、こちらによせてもらいました。」てなのどかな会話をしておられました。

地元の生活に溶け込んで、混ざりこんだいい感じのするお寺でした。

穴太寺宝塔

2015/12/31 10:18:52

穴太寺宝塔

文化元年(1804年)に建てられたものといわれており、亀岡市では唯一の木造塔であり、他の建造物と同様、古寺としての雰囲気によくとけ込んでいる。

穴太寺(あなおじ)多宝塔(府指定文化財、江戸時代中期

穴太寺本堂

2015/12/31 10:18:52

穴太寺本堂

現存の本堂は享保20年(1735年)に上棟、再建されたものといわれている。
「本堂」は再建後二百数十年を経過したといわれ正面近くから見た「本堂」は古寺の風格をよく醸し出している。

内陣に鎌倉時代の作とされる木彫釈迦涅槃像が安置され、体の部分をさわると参拝者の病気がよくなると伝わります。

札を打つ

2015/12/31 10:27:08

札を打つ

「札を打つ」その語源は、その昔巡礼者はお寺に納める札に木札を使っていました。
その木札をお堂の柱や壁などに打ち付けたので、ここから札を打つというようになりました。
近世では、木札のかわりに紙の札を納めますが、そのまま打つという言葉を使っています。

現在は紙の札を貼り付ける事も禁止されていて、納め札を奉納する形式へと変化している。

記録好きな日本人はこのような形で訪問の証を示したのだろう、これに変わる行為として私はこの巡礼記録を残しているのかも知れない。

与能神社

2015/12/31 10:43:00

与能神社

祭神として事代主命(えびすさん)建御名刀命(諏訪さん) 天照皇大神(お伊勢さん)天児屋根命(春日さん)の四神を祀る。
「諸国鎮座神秘抄」によると奈良時代に四道将軍丹波道 主命を国家の平和鎮護の為祀った与能神宮寺が起源 とされる。

この神社前から旧道が分枝している。

石田梅岩

2020/03/08 10:01:24

石田梅岩

丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれる。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働く。1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時、受講に際し紹介が一切不要で、かつ性別も問わない無料の講座を自宅の一室で開き[1]、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説いた。すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。1744年、60歳で死去。

主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。『ウィキペディア(Wikipedia)』

石田梅岩 心学の道

2015/12/31 10:43:00

石田梅岩 心学の道

神社のすぐ近くで道が二手に分かれ、左の細い道を行きますが「石田梅岩心学の道」の碑が入口に立ってます。

亀岡市曽我部町寺から東別院町東掛に抜ける古道です。江戸時代の偉人「石田梅岩(いしだばいがん)」が京都に赴くときに通ったと言われる道だそうで現在は石田梅岩心学の道として整備されています。

石田梅岩 心学の道

2015/12/31 11:01:34

石田梅岩 心学の道

石田梅岩とは、江戸中期の心学者。丹波国生。名は興長、通称は勘平。石門心学の祖。師は小栗了雲。商業観・人間観において自由さと清新さを示し、京の町人層に歓迎された。大坂・河内・和泉などにも出講し、手島堵庵・斎藤全門・富岡以直らの人材を得て心学興隆の基礎を築いた。著書に『都鄙問答』『斉家論』などがある。延享元年(1744)歿、60才。

近代の名経営者松下幸之助や稲盛和夫にも影響を与えたとされる。

周囲は松茸山のようで入山禁止の看板が出ていました。

桜峠

2015/12/31 11:15:12

桜峠

桜峠は古い道でかつては巡礼道として利用されていた様子です。

亀岡側からの道は植林された杉林を抜けて峠へ至る北向きの斜面であるので、暗い雰囲気が漂う道である。
桜峠は山の頂で日が当たる明るい場所である。

清坂街道の道標

2015/12/31 11:42:46

清坂街道の道標

大阪府と京都府の境にある清坂峠には、明治9年謹製の道標には、旧分国名と新府県名が併記されていた。

府県では京都府と大阪府になりますが、旧分国では京都府は山城國と丹波國の二つを合わせた領域となるのでこのような形になったのでしょう。

新名神高速道路

2015/12/31 12:01:32

新名神高速道路

清坂峠を越えて道を下ると大きなコンクリート橋梁が建設中でした。
新名神高速道路の橋脚のようです、大規模な工事で取り付き道路を含めて広範囲にわたり工事をしていました。

冬空のスカイブルーにコンクリートの白が美しいコントラストを醸しています。
以前四国でお世話になった会社が施工している様子だった。

安威城跡

2015/12/31 12:27:08

安威城跡

北摂の山を下り古墳地帯の丘を降りてくると安威の集落へ至る。古くからある集落らしくて大きな古い家がたくさんありました。人が住みやすい場所であった様子で城跡がありました。



この城は土豪安威氏によって築かれた城(居館跡)で、北の花園山頂にある砦と一対のものと考えられています。
安威氏の記録は「六波羅密寺文書」貞治2(1363)年の中に記されていることから、鎌倉時代の終わり頃には在地領主としていたと考えられ、城もこの頃に築かれたのではないかと考えられます。
・・掲示板転記・・

総持寺山門

2015/12/31 12:45:08

総持寺山門

比較的新しい山門があった、中の金剛力士像は江戸期の作品だそうです。

都会の中にありこじんまりとしたお寺ですが、ひっきりなしにお参りの人が立ち寄っていました。

総持寺本堂

2015/12/31 12:45:08

総持寺本堂

本堂は1603年に豊臣秀頼の命により再建されました。
風格のある建屋ですね、この年は徳川家康が征夷大将軍になり江戸幕府が開かれた年で豊臣家は坂道を転がっている最中でしたね。

総持寺は納経所も近代的な建物で都会的な感じがする一面、中世の瓦釜あとが保存されていたりする不思議な感じがするお寺でした。

郡山宿場(椿本陣)

2015/12/31 13:20:57

郡山宿場(椿本陣)

総持寺を後にして西国街道を西へと進むと郡山宿場がありふるい家並が残っている、ひときわ立派な構えの家がかつての本陣跡で、現在も居住されている様子です。

京都と西国を結ぶ重要な道である西国街道の中間点に位置する郡山宿の本陣は、江戸時代には参勤交代の時などはもちろん、大名のほか宮家、公家、幕吏、僧侶などによく利用された。その御成門(正門)の脇にあった五色の椿(現在は2代目)から「椿の本陣」とも呼ばれている。母屋は約290年前に再建されたものが現存しており、入母屋造り本瓦葺きで歴史的な風格がある。付近一帯は景観に配慮した舗装がされるなど、情緒ある風情がある。なお、この本陣は国の史跡に指定されている。
・・大阪府の景観つくりより転記:・・

勝尾寺大鳥居

2015/12/31 13:37:03

勝尾寺大鳥居

次回はこの場所から始める事としよう。

西国街道筋に石造りの大きな鳥居が立っています。 1245年、当時は粟生や萱野の材木が使って建てられ、その後数回にわたって修理や再建が行われました。 この大鳥居を起点とし、勝尾寺まで続く道が表参道です。勝尾寺まで1町(約109m)毎に町石という道のりを示した石が立っており、大鳥居の脇に36町石が立っていることから、ここから勝尾寺まで約4kmだと分かります。 鎌倉時代の歌人藤原定家の「明月記」には、有馬の湯に出かけた帰りに、この鳥居からはるか勝尾寺を拝んだという逸話も残っています。
・・箕面市観光ガイド転記・・