浪花百景をライドルその 4

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現在の軌跡: 21 03 2020 09:00

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/03/21 09:00:05終了日時2020/03/21 13:02:32
水平距離44.37km沿面距離44.38km
経過時間4時間02分27秒移動時間3時間06分30秒
全体平均速度10.98km/h移動平均速度14.14km/h
最高速度33.64km/h昇降量合計158m
総上昇量79m総下降量79m
最高高度22m最低高度-1m

レポート概要

江戸時代後期から明治初期にかけて、大阪を中心に数多くの上方浮世絵師が活躍し、役者絵や風景版画にその業績を遺しました。また、江戸で活躍する浮世絵師も、商都浪花の繁栄ぶりや名所・旧跡に心を寄せ、様々な風景版画を描きました。

その中の一つに、浪花百景がその量と質に於いて抜きんでた作品である。
(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員・芳滝・芳雪による合作で、幕末に大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも云われる。

今現在浪花百景で描かれた場所がどうなってるのか?訪ねてみた。

枚数が多いので5-6回に分けて尋ねる計画である。

写真レポート

三井呉服店

2020/03/21 13:46:07

三井呉服店

延宝元年(1673)江戸本町1丁目、京都室町通薬師町で三井高利によって営業を開始した三井越後屋呉服店(現在の三越の前身)は、元禄元年(1687)大坂は高麗橋2丁目に江戸駿河町越後屋として出店、たちまち好評を博し、半町にも及ぶ広い店先は呉服をもとめる人々で賑った。店の向い側に糸店、紅白粉店、鼈甲店、塗道具店等支店を設け、嫁入りの誂えをすべて調えられるようにしたことや、薄利多売・現金掛値なしの商法は当時画期的で、人々の信用を得た。三井高利の父である三井越後守高俊は元々武士の生まれで、伊勢の松阪で武家を捨て酒屋を営み「越後殿の酒屋」として親しまれていた。

おおさかeコレクション転記

三井呉服店跡

2020/03/21 09:50:18

三井呉服店跡

延宝元年(1673)に三井高利が江戸に呉服店・越後屋を開業し、その後元禄4年(1691)に大坂に進出しました。当初は高麗橋1丁目で両替商と呉服店を興し、大塩の乱でいったん全焼しましたが、再興、明治になって高麗橋2丁目堺筋角に移転しました。

今橋つきぢの風景

2020/03/21 13:46:46

今橋つきぢの風景

大川が天神橋を抜けて東横堀川に入る西の部分は昔小山をなし、山の鼻と称していた。天明3年(1783)に築地を設け人家が建ち連なるようになり、蟹島と称されるようになり、やがて単に築地というようになったという。『大阪府誌』には「紅楼翠閣相連なり眺望の景優遊の具備はり、誠に紅塵界裡の一仙洞なり」とある。  今橋はこの辺り、東横堀川に架かる橋で、橋の西側が北浜となり、江戸時代の金融の中心地であった。

おおさかeコレクション転記

今橋つきぢの風景

2020/03/21 10:01:19

今橋つきぢの風景

現在はすっかり様変わりして、横堀川の上には阪神高速がはしり、かつての風景を想像する事すら難しい。

今橋つきぢの風景

2020/03/21 09:58:27

今橋つきぢの風景

現在の今橋の下にかつての橋の欄干がぽつねんと置いてあった。

京橋

2020/03/21 13:47:21

京橋

現在の橋は寝屋川が大川に合流する少し手前に架かっている。江戸時代は旧の大和川と猫間川の合うところに架かっていた。橋の南側が大阪城で、そこへの登城の橋。さらに北詰の東側が京街道にあたる重要な橋のために公費によって管理される公儀橋であった。  北詰には川魚問屋もあり、魚を扱うありさまはたいへん賑やかであったという。

おおさかeコレクション転記

京橋

2020/03/21 10:09:44

京橋

現在の京橋は北詰で土佐堀通りと交差していますが、交差点の名前は「寝屋川橋東詰」となっています。???

 京橋北詰には、「京橋川魚市場跡」の石碑が立っています。

筋鐘御門

2020/03/21 13:47:48

筋鐘御門

豊臣秀吉が天正11年(1583)から工事を始めた巨城。後に居城とした。大阪冬の陣、夏の陣で天守閣等を焼失するが、寛永6年(1629)に再建された。江戸時代の大坂城には城代が置かれ西国大名の動静を監視した。『摂陽群談』には「金は七宝の初、土中に朽ちず、火も焼くこと能わず。よってもって世俗金城と祝し奉る」とある。『浪華の賑ひ』には「城郭の結構、守護の厳重は申すも恐れ多し。城外の風景ことさらに美観なり」と記している。  「金城」とはいわれたが、再建された天守閣も寛文5年(1665)に落雷のために焼失し、復興は昭和6年(1931)であった。  明治維新後に鎮台が置かれ、明治19年(1886)に第四師団に改められた

おおさかeコレクション転記

筋鐘御門 跡

2020/03/21 10:11:48

筋鐘御門 跡

現在の筋鉄門は常時解放されており通行ができます。
訪問日は天気が良くコロナの影響もあり奥外で遊ぶ人で賑わっていました。
門の両側は、大阪城の石垣の上に赤レンガの壁が建っています。砲兵工廠時代に築かれたものでしょう。

錦城の馬場

2020/03/21 13:48:20

錦城の馬場

豊臣秀吉が天正11年(1583)から工事を始めた巨城。後に居城とした。大阪冬の陣、夏の陣で天守閣等を焼失するが、寛永6年(1629)に再建された。江戸時代の大坂城には城代が置かれ西国大名の動静を監視した。『摂陽群談』には「金は七宝の初、土中に朽ちず、火も焼くこと能わず。よってもって世俗金城と祝し奉る」とある。『浪華の賑ひ』には「城郭の結構、守護の厳重は申すも恐れ多し。城外の風景ことさらに美観なり」と記している。  「金城」とはいわれたが、再建された天守閣も寛文5年(1665)に落雷のために焼失し、復興は昭和6年(1931)であった。  明治維新後に鎮台が置かれ、明治19年(1886)に第四師団に改められた。

おおさかeコレクション転記

錦城の馬場跡

2020/03/21 10:25:05

錦城の馬場跡

大阪城の南西の一角に現在も「馬場町」の地名が残っています。

NHKや大阪府警が在るあたり一帯が馬場だったんでしょう。

森の宮蓮如松

2020/03/21 13:49:00

森の宮蓮如松

森之宮神社は鵲之森之宮を略したもので、推古天皇時代吉土盤金が朝鮮から持ち帰った鵲を献上し、この森で飼ったのでその名がついたといわれる。社伝によると、崇峻帝2年(589)7月に聖徳太子は父である用命天皇の追善のため自像を刻んで社伝を営んだのが起こりで、他に穴穂部間人皇后なども祠られている。  古くは蓮如が下に座り信者に説法し、あるいは宗門の発展を祈ったともいわれる蓮如松(明治18年(1885)枯死)が境内にあった。また天王寺七名泉の一つ「亀井」も近く、江戸期には神社の東田圃の中に入湯屋があり繁盛していたという。

おおさかeコレクション転記

鵲森宮

2020/03/21 10:32:05

鵲森宮

森之宮神社は正式には「鵲森宮(かささぎもりのみや)」といい、聖徳太子創建の神社。祭神は、聖徳太子の両親の用明天皇と穴穂部間人皇后、後に聖徳太子も祭神とされました。

かつては境内地は広く、本殿は現在のJR森ノ宮駅近くにありましたが、市電の建設による玉造筋の拡幅に伴い、本殿は昭和7年に現在地に移築されたとのことです。周辺は戦災により大きな被害がありましたが、本殿は焼失を免れ、修理されて現在に至っています。

両本願寺

2020/03/21 13:49:25

両本願寺

北御堂の本尊は安阿弥作の阿弥陀仏。御堂筋、備後町から本町の間にある。  慶長2年(1597)に准如が石山本願寺に擬して立てた寺院。当初は大寺院ではなかったが、元禄頃より拡張を始めた。享保9年(1724)の大坂の大火により焼失した。  南御堂の本尊は安阿弥作といわれる阿弥陀仏。  慶長元年(1596)教如が道修町1丁目に小堂を建て、慶長3年(1598)に現位置へ移った。当時は十五間四面の本堂であったが、大坂城落城後外郭の用石を貰い受け、地盤を盛り上げ南北御堂いずれも大本堂となった。難波別院の名はこの地を以前上難波村と呼んだことによる。

おおさかeコレクション転記

北御堂

2020/03/21 10:47:04

北御堂

浄土真宗本願寺派の寺院です。天正19年(1591)に大阪の地でお念仏の灯を護るため、門徒によって坊舎が建てられます。慶長2年(1597)に津村郷と呼ばれていた現在の地に移り、北御堂と呼ばれるようになりました。南御堂(難波別院)と並んで大阪の人々に親しまれていますが、昭和20年(1945)大阪大空襲により全焼します。昭和39年(1964)に近代的大殿堂として再建され、現在に至ります。なお南北両御堂を結ぶ道は、この両御堂にちなみ御堂筋と呼ばれるようになりました。


大阪観光局HP転記

南御堂

2020/03/21 10:52:51

南御堂

文禄5年(1596)本願寺第12代教如上人は、渡辺の地に大谷本願寺を建立し、慶長3年(1598)現在地に移りました。同7年、京都に東本願寺が建立されるまで真宗大谷派の本山でした。昭和20年に戦火により焼失、同36年再建されました。境内に松尾芭蕉の最後の句を刻んだ碑があります。

大阪観光局HP転記

「南御堂」 建替事業として、「積和不動産関西南御堂ビル」が、2019年11月1日にグランドオープンしました、東急ホテルが入居していて凄いことになっております。

長堀石浜

2020/03/21 13:50:07

長堀石浜

関連リンク

現在の長堀通にあたる長堀川は、元和8年(1622)(寛永2年(1625)の説もある)京都伏見の三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田心斎らによって開削された江戸期大坂の幹線河川の一つで、諸国物産の集散地として利用されていた。  沿岸には土佐の問屋をはじめ材木商が軒を並べ、店の前を市売場所とし「浜」と称し、長堀材木浜として大いににぎわった。また旧心斎橋と佐野橋との間には石屋の密集地域があり、長堀川を通って運ばれた各地名産の石が名もない名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、道標、石仏、石臼、鉢など様々な作品に姿を変えた。

おおさかeコレクション転記

長堀石浜跡

2020/03/21 10:58:31

長堀石浜跡

関連リンク

長堀川は諸国物産の集散地として利用され、四ツ橋以西の長堀川沿岸は材木商が軒を並べて木材市として賑わいました。また心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、京都の白川石、紀伊の大崎石、近江の木戸石など、全国各地の名石が集積し名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、手水鉢、道標、石仏、石臼など様々な商品に姿を変えていきました。ただの石が彫刻されて姿形を変えていく有様は、まるで魔法のような光景で浪花名所として非常に有名でした。その石浜を模したモニュメントがクリスタ長堀東端にあります。

大阪あそ歩転記

現在も市岡辺りの尻無川河口には石材店が多くある。

松屋呉服店

2020/03/21 13:50:33

松屋呉服店

江戸期心斎橋筋は松屋をはじめ数々の呉服店で賑っていた。享保11年(1926)創業の松屋呉服店は大丸の前身である。大の字を丸で囲う商標を掲げ、享保2年(1717)京都伏見で大文字屋呉服店として発祥、大坂店の屋号「松屋」はつぶれかけていた名跡を譲り受けたものと伝えられる。創業者下村彦右衛門は律儀で誠実な性格で、「現金正札販売」をモットーに豪商となっても先義後利の人であったという。大塩平八郎の乱の際にも義商であることから襲撃を免れたと伝えられる。

おおさかeコレクション転記

大丸

2020/03/21 11:02:30

大丸

大丸の創業は、享保2年(1717)京都伏見で下村彦右衛門正啓が大文字屋呉服店として開店したのが始まりで、後に大坂心斎橋の松屋を引継ぎ、名古屋で正式に「大丸屋」と名乗る。

長堀財木市

2020/03/21 13:52:05

長堀財木市

現在の長堀通にあたる長堀川は、元和8年(1622)(寛永2年(1625)の説もある)京都伏見の三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田心斎らによって開削された江戸期大坂の幹線河川の一つで、諸国物産の集散地として利用されていた。  沿岸には土佐の問屋をはじめ材木商が軒を並べ、店の前を市売場所とし「浜」と称し、長堀材木浜として大いににぎわった。また旧心斎橋と佐野橋との間には石屋の密集地域があり、長堀川を通って運ばれた各地名産の石が名もない名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、道標、石仏、石臼、鉢など様々な作品に姿を変えた。

おおさかeコレクション転記

大阪木材市売市場発祥の地

2020/03/21 11:09:33

大阪木材市売市場発祥の地

元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まり, やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。土佐ばかりでなく, 日向, 紀州, 阿波, 尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり, 西長堀橋南詰から富田屋橋, 問屋橋, 白髪橋にかけての浜側は, 江戸時代から昭和にいたるまで, 年中材木市が開かれてた。
 戦後, 長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ, また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。今でも北堀江の東側には, 材木商の看板があちこちに残っている。

現地掲示板

下安治川随見山

2020/03/21 13:52:43

下安治川随見山

貞享年間に安治川を新鑿した際に土砂を集めてできた人工山。波除山は洪水の際に高波を防ぐためということで名づけられた。工事を指揮した河村瑞賢の名を取って俗に瑞賢山ともいう。ちなみに安治川も瑞賢の名「安治(やすはる)」に由来する。この傍らに茨住吉神社(現 西区)のお旅所があり、旧暦6月晦日の夏祓いの神事には神輿渡御で賑わう。

おおさかeコレクション転記

波除山跡の碑

2020/03/21 11:30:26

波除山跡の碑

昔、淀川の河口付近の九条島には池山新兵衛によって開かれた池山新田がありました。しかし、この新田は九条島が淀川の流れをはばみ、川水を逆流させるため、しばしば水害に見舞われていました。幕府の命を受けた川村瑞賢は、当時上流から流れてくる土砂で川底が浅くなった淀川の流れを変える工事を行いました。この工事は、貞亨元年(1684年)に着工、同4年に竣工し、川は「安治川」と名づけられました。(一説には20日間の突貫工事で完成したとも)

「波除山」はこの工事で出た土砂が、安治川の南岸一帯に積み上げられてできた高さ15メートルの小山のことです。その後、松が植えられて九条島の沖を航行する船の目印となりました。以来、この山は「波除山」あるいは「瑞賢山」ともいわれ、明治の終わりまで今の弁天埠頭のあたりにありました。現在はその面影もなく、弁天東公園に「波除山跡」の碑が残るのみです。当碑は、安治川開さく300年を記念し、昭和59年12月18日、建立されたものである。

港区HP転記

天保山

2020/03/21 13:56:49

天保山

天保年間に安治川の土砂を浚ってできた人工の山。『天保山名所図会』には入津する船の目印のために築かせたもので、故に目標山(めじるしやま)と名付けたというが、通称の天保山が今では一般的となっている。現在は公園として整備されている。

おおさかeコレクション転記

天保山

2020/03/21 11:52:12

天保山

大阪市港区の天保山、今は海遊館などのある人気スポットだ。標高4.53mで、国土地理院発行の地形図に表示される山としては、日本で2番目に低い。

 江戸時代、安治川など川の流砂が河口にすい堆積し、廻船の航行に支障が出るようになったため、幕府の命により、天保2年(1831)から2年間「御救大浚(おすくいおおさらえ)」の大工事が行われた。その残土を盛り上げてできた山である。

 船の出入りの目印になったことから「目印山」と命名されたが、後に、山が築かれた時代名から「天保山」と呼ばれるようになった。

天保山

2020/03/21 11:55:59

天保山

手作りの木製看板よ横に菜の花が咲いていた。

天保山

2020/03/21 11:57:06

天保山

中国人観光客が激減していつも賑わっているはずの天保山はとにかく静かで、桜/梅/菜の花が咲いていた。

しりなし漆づつみ甚兵衛の小家

2020/03/21 13:57:18

しりなし漆づつみ甚兵衛の小家

大川の支流で江之子島の北から南西に分流して海に注いでいる。両岸に蝋をとるための黄櫨を植えたため、紅葉の頃はその錦が川に映じて美しく、墨客などが多くうちむれたという。また、春の潮干には蛤、蜆を取る人たちで大いに賑わった。

おおさかeコレクション転記

甚平渡船場

2020/03/21 12:11:47

甚平渡船場

昔、尻無川の堤は紅葉の名所であった。 「摂津名所図会大成」 に 「大河の支流にして江之子じまの北より西南に流れて、寺島の西を入る後世この河の両堤に黄櫨の木を数千株うえ列ねて実をとりて蝋に製するの益とすされば紅葉の時節にいたりては河の両岸一圓の紅にして川の面に映じて風景斜ならず騒人墨客うちむれて風流をたのしみ酒宴に興じて常にあらざる賑ひなり河下に甚兵衛の小屋とて茶店あり年久しき茅屋にして世に名高し」 とあり、甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は 「蛤小屋」 と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったという。

甚平渡船場

2020/03/21 12:17:22

甚平渡船場

現在も甚兵衛渡船場は健在で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結び(岸壁間94メートル)、朝のラッシュ時は2隻の船が運航している。平成30年度現在1日平均約1,096人が利用している。

甚平渡船場

2020/03/21 12:18:53

甚平渡船場

この日2020/3/21も土曜日の昼時間にも関わらず、20名位の利用者がいた、数百年間も利用される渡船って・・すごいですね。

木津川口千本松

2020/03/21 13:58:06

木津川口千本松

その河口は難波の湊として開かれており、諸国の船の入津する要港であった。天保3年(1832)、ここに約870間の堤を築いた。これを石波戸(いしばと)という。ここに松が植え連ねられ、俗に千本松というようになった。  青い海に突き出た松原の風景は天橋立、三保の松原と並ぶほどの名所といわれた。自ら釣った魚や漁夫の得た魚を料理し、終日酒宴をはって大変賑わっていたという

おおさかeコレクション転記

千本松大橋

2020/03/21 12:35:45

千本松大橋

今の木津川の両岸は江戸時代に新田として開発され、護岸工事として川の両岸に多くの松が植えられました。その松は「千本松」と呼ばれていた、千本松は、天橋立や三保の松原と並ぶほどの美観だったとも記されています。

画像の対岸右側に千本松を植えた護岸(堤)が伸びていた。

千本松渡船場

2020/03/21 12:47:20

千本松渡船場

大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
 このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところであった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来する。

安治川沿いはかつて千石船の修理が盛んに行われていた関係で日本の造船会社の発祥地になっている会社が多くある、画像にあるクレーンはサノヤス。