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開始日時 | 2020/04/05 07:13:03 | 終了日時 | 2020/04/05 10:12:17 |
水平距離 | 28.99km | 沿面距離 | 29.03km |
経過時間 | 2時間59分14秒 | 移動時間 | 2時間20分48秒 |
全体平均速度 | 9.72km/h | 移動平均速度 | 12.23km/h |
最高速度 | 38.74km/h | 昇降量合計 | 396m |
総上昇量 | 236m | 総下降量 | 160m |
最高高度 | 46m | 最低高度 | -53m |
2020/04/11 11:00:42
号は慈雲山。本尊は薬師瑠璃光仏。難波村の北端にある黄檗宗の寺。開基は鉄眼和尚。そのために鉄眼寺ともいう。境内に諸堂はすべて唐風に作られており、これに雪の積もった光景は日本離れしたものがあり、儒家、文人、画師が競って賞賛したという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 07:51:29
黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があります。
大阪HP転記
2020/04/11 11:00:44
現在は堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有することで知られている。架橋年代については豊臣時代に架橋されたのではないかといわれているが、『元亨釈書』に天平17年(745)僧行基が摂州に難波橋を架けたという記事もあり、正確なところは定かではない。 江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定され、界隈には諸藩の蔵屋敷が建ち並びそれを取り巻くように問屋街が形成され、西鶴の『日本永代蔵』にも「難波橋より西見渡しの百景、数千軒の問丸、甍をならべ、白土雪の曙をうばう。杉ばへの俵物山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし。上荷、茶船かぎりもなく川浪に浮かびしは、秋の柳にことならず。」とあるように大変な賑いをみせた。また納涼や花火見物、花見、月見にも絶好であったという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 08:10:31
落語「遊山船」の舞台。
真夏の夕暮れ時、大川に夕涼みに来た喜六、清八の二人連れ。浪花橋の上から大川を見ると、行きかう夕涼みの船でその賑やかなこと。
ちょうど稽古屋の連中を乗せた船が通りかかる。見ると碇(いかり)の模様のお揃いの浴衣を着て派手に騒いでいる。
清やんがこれを見て浪花橋の上からほめる。「さてもきれいな碇の模様」、すると船の上の女が、「風が吹いても流れんように」と、粋に洒落て返した。
感心した清やんは、喜イさんに、「お前のとこの嫁さんの”雀のお松”は、あんな洒落たことよう言えへんやろ」
喜六 「何言うとんねん。うちの嫁さんかてあれぐらいのこと言わいでか」と、二人で長屋へ帰った。
喜イさんはお松さんに「風が吹いても流れんように」と、言わせてみようと去年の祭りの時に着たきたない浴衣を引っ張りだし、女房はこれを着て行水のたらいの中に入る。清やんは屋根の天窓からこれを見てほめ言葉をかけるという趣向だ。
さて天窓から見た清やん、お松さんの着ている浴衣のきたないこと。思わず、
清やん 「さても、きたない碇の浴衣」
女房 「質(ひち)に置いても流れんように」
2020/04/11 11:00:46
宰相山稲荷祠の俗称をいう。嬪山稲荷祠ともいう。宰相山は元和の合戦(大坂冬の陣、夏の陣)の際に加賀宰相前田侯の陣のあったことから、真田山は同じく真田の塁があったことから名付けられたという。三光宮は数多ある末社の1つで、奥州青麻にある神の遥拝所。中風の快癒、さらにはその難を逃れる効があるとして参詣する者が絶えなかった。現在は真田山公園として整備されている。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 08:28:06
上町台地東端の真田山は宰相山とも称し、陸奥国宮城郡青麻(あおそ)の三光社の分霊を勧進したものです。
中風封じの霊効が庶民に信仰されて、生駒・金剛の連山の眺望とともに参詣者を集めました。
明治41年(1908)姫山神社と三光宮が合祀され、現社号の三光神社に改めました。
明治期には軍の墓地が隣接して作られた。
2020/04/11 11:00:48
大小橋命生誕の際に産湯をつかったことから名付けられた井戸。産湯清水とも称す。昔から名泉として知られ、甘味であったという。 この辺りは一面桃畑で、「弥生の初旬、花の頃は老若男女うち群れて野径に充満す」と『浪華の賑ひ』は伝えている。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 08:40:33
創建年代は定かではないが、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)の旧境内地であり、大小橋命(オホオバセノミコト)の産湯の井戸の付近にあって産湯稲荷(うぶゆいなり)神社と称せられ比売許曽神社の摂社であったのを、天正年間に織田信長が石山本願寺を攻めたときの兵火によりことごとく鳥有に帰し、比売許曽神社は境外摂社であった牛頭天王社を現在の社地に遷し奉ったが、後年当神社の旧知に再び奉祀せられた。
寛政 8 年出版の摂津名所図絵に、この建物を押絵に記載されているので、寛政以前の建造であることは明らかである。これらの社殿、社務所は第二次世界大戦の戦災により焼失し、戦後の混乱期の昭和23年、篤志の寄進によって社殿が建立されたが、大阪市の都市計画により境内隣接地に公園が建設せられ周辺の様相が一変したのを機会に産湯稲荷神社復興委員会(昭和38 年9 月)が設立し、翌年7 月に新社殿、社務所が竣工するとともに境内地も整備された。
この産湯稲荷は俗に桃山といわれ、明治 38・39 年の頃までは大阪屈指の大桃林があった。さらに、この祠の南に真田の抜け穴と伝えられた跡もあった。
産湯稲荷神社の境内には「式内 比賣許曾神社御旅所」の石碑がある。比賣許曾神社は延喜式にも記載のある由緒ある神社で、現在は玉造の東、東小橋町にあるが、石山の合戦で焼かれて現在の場所に遷座する以前は、この地に祀られていたという。社記によると、当地の開拓神である大小橋命(おほおばせのみこと)は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の十三世の後胤で、ここ味原郷に誕生、境内の玉井を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。隣接していた「味原池」は、比賣許曾神社の祭神下照比売命(したてるひめのみこと)が天の磐
船に乗って天降られた霊地とされている。
あなたの知らない天王寺「隠れた名所廻り」天王寺区未来わがまち会議 転記
2020/04/11 11:00:59
本尊は行基作で平景清の念持仏であったとされる十一面観音。遍明院とも呼ばれる。以前は近鉄上六駅に位置したが、大正13年(1924)現在の生野区巽北1丁目に移転した。 天平8年(736)秋8月、東大寺大仏開眼供養のため天竺から導師を、林邑から楽士を迎えるように聖武天皇が行基に命じ、難波の高津に堂宇を建てさせたのが起こりだという。そのあたりは東高津の野原の中だったため野中観音と呼ばれた。往時流行した浪華三十三所観音めぐりの第十三番の札所で『曽根崎心中』の観音めぐりの項にも登場し、また一帯は桃の名所として知られ、多くの参拝客で賑った。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 08:47:36
もと上本町にあった難波寺は、源平の合戦で奮闘した平景清の念持仏と伝える十一面観音を本尊とし、東高津の野原の中にあるため、「野中の観音」と呼ばれ親しまれました。
近鉄敷設の際に移転しました。
安永年間(1772~1780)以降、当地付近で桃の植林が始まり、次第に上町台地の東斜面は一面に桃の里となりました。春には山も川も谷も紅霞で覆われた見事な美観を見ることができましたが、明治以降、市街地開発が進み、今は面影もない。
2020/04/11 11:00:57
高津神社、生玉神社の東、今の城南寺町のあたりにあった梅林。江戸亀戸の梅屋敷を文化初年のころに模して開いた。 如月の盛りの頃は多くの人たちが繰り出し、詩を賦し、歌を詠じ、連歌俳諧狂歌を楽しんだという。『摂津名所図会大成』には、「弾あり諷ふあり打あり舞あり様々にて余るさむさに笑ひかねたる莟(つぼみ)まで遊宴の陽気につれて一時に開く思ひぞせらる」とある。 菊の頃にも花壇を設けて賑わったという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 08:57:09
近鉄上本町駅周辺、いわゆる上六界隈には梅屋敷という梅見の名所がありました。
園内に梅を植えつらね、樹下に席を設けて風流の士に供しました。
評判をとった江戸の亀戸にあった梅屋敷に倣って文化初年(19世紀初頭)に作られたといわれます。
四天王寺に向かう道すがら老若男女が早春の花を楽んだでしょう、往時このあたりは町の郊外にあたっていましたが、現在はビルの谷間となっています。
2020/04/11 11:01:01
かつては「郡戸(かうづ)」「古宇都(こうづ)」などと称した。『古事記伝』は、「難波の地形今も北ハ大坂より南へ住吉のあたりまで長くつづきたる岸ありて岸より東ハ高く西ハ低し古ハ此岸まで潮来りて船の着しなり難波津ハ岸の上なりけん故に高津とハ言なるべし」と地名の起こりを説明する。 江戸時代には高津神社の西側からの眺めがよく、正面に道頓堀の橋や芝居小屋、手前に南北御堂や今宮戎、そのむこうに安治川、天保山を望めたという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:09:27
社伝によれば、貞観8年(866)、大坂城付近、仁徳天皇難波高津宮の故地に創建したと伝えられています。その後東高津を経て、秀吉の築城に際し、天正11年(1583)現在地に移されたといわれます。社の西の断崖からの展望は難波津全体から六甲の山なみや須磨浦までを見渡せる名所でした。
2020/04/11 11:01:03
かつては「郡戸(かうづ)」「古宇都(こうづ)」などと称した。『古事記伝』は、「難波の地形今も北ハ大坂より南へ住吉のあたりまで長くつづきたる岸ありて岸より東ハ高く西ハ低し古ハ此岸まで潮来りて船の着しなり難波津ハ岸の上なりけん故に高津とハ言なるべし」と地名の起こりを説明する。
江戸時代には高津神社の西側からの眺めがよく、正面に道頓堀の橋や芝居小屋、手前に南北御堂や今宮戎、そのむこうに安治川、天保山を望めたという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:15:37
元禄5年(1692)に創業し明治末年まであった植木屋で、その敷地は3千坪に及んだ。和漢の名木にあふれ、特に吉助牡丹は有名で、船便で全国に発送し、その名声は江戸の植木屋にも匹敵するものであった(説明板より)
2020/04/11 11:01:04
高津神社の鳥居の西にある坂。この坂を登ったところ左右に寺院があり、それらがすべて真言宗の寺だったことから名づけられた。これらの寺にはそれぞれ弘法大師の御影堂があって、「浪花大師めぐり」の札所となっているために参詣者が絶えなかったという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:19:50
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、一番北に位置し、かつ唯一南北に通る。北側の上り口は千日前通の南(阪神高速高津入口付近)に通じ、上り口に真言坂の顕彰碑があり、正式名称は真言坂。南向きに坂を上ると生國魂神社の北の鳥居・石段の前へ至る。
坂の名の由来は、このあたりに生國魂神社の神宮寺だった法案寺をはじめとした真言宗の仏教寺院が十坊(「生玉十坊」と呼ばれた)あったことに由来する。これらの寺院は明治時代初頭の神仏分離により撤去され、現在は周辺はマンションやラブホテルが建ち並んでいる。真言坂の両脇もマンションである。
現在の坂は自動車が通れる石畳となっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
2020/04/11 11:01:06
創建は古く、社伝によると神武天皇が難波津上陸の際に生島、足島の両神を祀ったのが始まりという。中世期には荒廃し、明応4年(1495)に蓮如が修復するが織田信長と石山合戦で焼失。豊臣秀吉が現在の地に移転の上、改築させた。 本社の後ろに舞台が設けられ、西の方をみれば市中の甍が波のごとく連なり、そのむこうの海には数多くの船を望むことができた。このため、茶店が軒を連ね、大いに賑わっていた。 井原西鶴は二度この神社の境内で矢数俳諧を催し、2度目の延宝8年(1680)には一昼夜に4000句を詠んだ。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:22:38
祭神は国土の霊といわれる生島神・足島神を主神として、大物主神を配祀。「延喜式」にも載る由緒のある神社である。古代には「難波大社」といわれ、朝廷と関係深く、平安から鎌倉にかけて難波津でおこなわれた八十島祭には生島巫も参加していた。元々は上町台地の北部に石山本願寺に近接してあり、本願寺の鎮守的立場だった。しかし天正年間に石山合戦で全焼し、豊臣秀吉が大坂城を建設するためにこの地に移されて社領を与えられ、慶長3年(1598)に豊臣秀頼により再建された。
絵馬堂は社殿の西側にあって、遠く淡路島や明石の山並みまで見えた。
2020/04/11 11:01:07
創建は古く、社伝によると神武天皇が難波津上陸の際に生島、足島の両神を祀ったのが始まりという。中世期には荒廃し、明応4年(1495)に蓮如が修復するが織田信長と石山合戦で焼失。豊臣秀吉が現在の地に移転の上、改築させた。 本社の後ろに舞台が設けられ、西の方をみれば市中の甍が波のごとく連なり、そのむこうの海には数多くの船を望むことができた。このため、茶店が軒を連ね、大いに賑わっていた。 井原西鶴は二度この神社の境内で矢数俳諧を催し、2度目の延宝8年(1680)には一昼夜に4000句を詠んだ。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:25:22
生国魂神社の東門の前には、かつては池があり、中央の島に弁天宮が祀られていたため一般に弁天池と称せられました。
現在は幼稚園になっていました。
2020/04/11 11:01:10
梅津川と呼ばれていた小溝を慶長19年(1614)に安井道頓が拡げたのが道頓堀川のはじまりといわれている。元来大坂城排水のため設けられた東横堀川・西横堀川の南側が堀留となり汚濁が進んだため、慶長17年(1612)豊臣家から新川奉行を命ぜられた道頓により起工された。大坂夏の陣で道頓は戦死するが従弟の安井九兵衛道卜らによって元和元年(1615)完成、「南堀」と名づけられる。その後大坂城主松平忠明によって「道頓堀」と改められる。 道頓堀川西岸に町立てされた川八丁にはじまり、南岸は承応2年(1653)芝居名代五株が公認されてから歌舞伎・義太夫・見世物などが賑わい、宗右衛門町や九郎右衛門町の色町と相まって町人文化の核となった。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:35:03
道頓堀は、東横堀川と西横堀川の汚濁を解消するため、慶長17年(1612)に、成安道頓によって起工され、元和元年(1615)に完成しました。当初は新川と呼ばれていましたが、当時の大坂城主松平忠明が大坂夏の陣で戦死した道頓を悼んで「道頓堀」と命名したと伝えられています。
その後、成安道頓の徒弟であった安井道卜は、南組総年寄に取り立てられ、道頓堀沿岸の開発をすすめ、寛文3年(1626)に、勘四郎町(中央区安堂寺橋佐野屋橋筋以西)にあった芝居を道頓堀南側に移したことで、道頓堀には芝居小屋が立ち並ぶようになりました。そこで、小屋の乱立を防ぎ、格式を持たせるため、承応元年(1652)に「名代制度」が導入されます。名代とは興行権のことで、名代を官許された印として劇場正面には櫓(やぐら)が高く掲げられました。『摂陽奇観』によれば、承応元年(1652)に中之芝居の塩屋九郎右衛門・角之芝居の大坂太左衛門・大西芝居の松本名左衛門の三名代が許可されています。
最盛期には、歌舞伎六座、浄瑠璃五座、からくり一座の計十二座が軒を並べていました。天保13年(1842)の改革令で、「筑後の芝居(大西の芝居)」・「中の芝居」・「角の芝居」・「若太夫の芝居(若太夫座)」・「竹田の芝居」の五座に減らされますが、川側の通りには芝居茶屋が立ち並び、芝居街として大いに賑わいました。明治時代には、筑後の芝居(大西の芝居)が「浪花座」に、中の芝居が「中座」に、角の芝居が「角座」に、竹田の芝居が「弁天座」へと改称され、「朝日座」とあわせて、「道頓堀五座」と呼ばれるようになりました。
2020/04/11 11:01:11
道頓堀川に架かる橋で、名は南詰東角で歌舞伎小屋を開いた大坂太左衛門という興行師に由来する。昭和33年(1958)に架け替えられ、戎橋、相合橋と合わせてミナミを代表する橋となっている。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:37:09
橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。
太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。
以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。
太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。
昭和33年に架け替えられた橋は、規模は江戸時代のものとほとんどかわらないが、3径間連続の合成桁という最新の技術が試された実験的な橋である。
2020/04/11 11:01:14
長町は日本橋3~5丁目の堺筋沿いをさす。 長町筋の左右には旅籠屋・木賃宿が建ち並び、なかには『東海道中膝栗毛』にも登場する分銅河内屋・ひょうたん河内屋など名高い宿もあり、また傘職人も軒を並べ、浪花の名物と評され大変な賑いであったという。 難波御蔵は享保17年(1732)に幕府が年貢米の集散と災害時の救援米貯蔵の役割を兼ねて、旧大阪球場付近に設けたものである。安政の大地震の時にはこの蔵から1万石を放出したという。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 09:41:45
樹木がしげり、人の往来も少なかったこの辺りに蔵が建ったのは享保17年(1732)。敷地は東西七十軒(126m)、南北八十軒(324m)、八棟の米蔵が建ち、幕府による年貢米の集散と災害時の救援米蔵の役割の担っていた。現在のなんばパークス辺り。
長町は日本橋から南へ、日本橋3~5丁目の堺筋沿いに文字通り細長く伸びる町並み。
町に沿って堺へ向かう紀州街道が通るため往来激しく、街道左右には有名な旅籠屋や木賃宿が並びます。またここは傘職人が多く住む町で、天気の良い日には地面に埋めた竹筒に傘を差し込んで乾燥させるのが常でした。現在は電気機器の専門店街となっています。
2020/04/11 15:41:06
四天王寺東門の北に位置する。号は是心山。浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀仏。寺内には糸桜、僧坊の庭前には楓の大樹があり、花の頃、紅葉の時節には人々が集ったという。文政7年(1824)の『花のしおり』にも、大坂の紅葉の名所として紹介されている。
おおさかeコレクション転記
2020/04/05 10:07:06
壽法寺は、別名もみぢ寺と言われていました
毘沙門池と言う大きな池があり、そのほとりに沢山もみぢ(2000本とも3000本とも)があったそうです。