浪花百景をライドルその 6

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プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/04/05 10:12:36終了日時2020/04/05 13:21:40
水平距離22.63km沿面距離22.64km
経過時間3時間09分04秒移動時間2時間12分31秒
全体平均速度7.18km/h移動平均速度10.08km/h
最高速度32.16km/h昇降量合計105m
総上昇量51m総下降量54m
最高高度20m最低高度2m

レポート概要

江戸時代後期から明治初期にかけて、大阪を中心に数多くの上方浮世絵師が活躍し、役者絵や風景版画にその業績を遺しました。また、江戸で活躍する浮世絵師も、商都浪花の繁栄ぶりや名所・旧跡に心を寄せ、様々な風景版画を描きました。

その中の一つに、浪花百景がその量と質に於いて抜きんでた作品である。
(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員・芳滝・芳雪による合作で、幕末に大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも云われる。

今現在浪花百景で描かれた場所がどうなってるのか?訪ねてみた。

枚数が多いので5-6回に分けて尋ねる計画である。

写真レポート

御勝山

2020/04/12 07:03:54

御勝山

元は岡山といったが、大阪夏の陣の時に徳川秀忠が陣を構えて勝利したことから、御勝山と称するようになった。  『摂津名所図会』には「岡山」として紹介されている。これによると、神功皇后近臣の雷大臣の子、大小橋命の墓で、命は藤原鎌足の10世の先祖という。実際のところ被葬者は不明である。 現在は大阪府史跡「御勝山古墳」として整備されている。

おおさかeコレクション転記



御勝山公園

2020/04/12 07:04:19

御勝山公園

現在は、かつての墳丘の真ん中を横切るように「勝山通り」という道路があり、この道路の北側が本項で紹介する御勝山公園、南側が御勝山南公園という別々の公園になっています。

生野区役所のHPによれば、1890年(明治23年)に現在の両公園を含めた広い範囲に大阪府農学校が設置されたのですが、前方部はその際に開削されたと書かれています。



舎利寺

2020/04/12 07:02:56

舎利寺

号は南岳山。昔、生野長者が一子を得たが、言葉が不自由であった。王寺を造営していた聖徳太子がこれを聞き長者を召したところ、太子は自分が前世において子に仏舎利を預けておいた。それを返しなさい、と言った。すると子の口から3つの仏舎利が出てきた。そのうちの1つを子に渡したところ、子は話せるようになったという。これによって一宇を造営したのが、この舎利寺である。かつて門前に太子御影松があった。

おおさかeコレクション転記



舎利尊勝寺

2020/04/05 10:24:30

舎利尊勝寺

 黄檗(おうばく)宗に属し、ふつう単に舎利寺(しゃりじ)と呼ばれている。昔、生野長者の子は口がきけなかったので、聖徳太子におすがりしたところ、子どもの口から仏舎利3粒を吐かせ、話せるようにしたという。太子は3つの舎利を、法隆寺・四天王寺と生野長者に分けて授けられた。長者はその屋敷内に一寺を建立、舎利を祭ったのが最初だとの伝承がある。

大阪市HP転記



河堀口

2020/04/12 10:17:30

河堀口

「こぼれぐち」という。四天王寺の南東部にあたり、河堀稲荷神社を中心としたこのあたり一帯の通称。「河堀口」の名は和気清麻呂が行った川を開き、堤を築く開墾工事に由来する。なお、この工事は結局未完に終わった。

おおさかeコレクション転記



河堀稲生神社

2020/04/05 10:37:00

河堀稲生神社

古代・景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。

続日本紀によれば、延暦7年(788年)3月、摂津太夫・和気清麻呂が農業の振興と水害の防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて西方の海に流し込む大規模土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀と改まった。

江戸時代初期、片桐且元の寄進により壮麗な権現造の拝殿に改まった。元禄2年(1689年)、素盞嗚尊を勧請し合祀する。

1907年(明治40年)、かつて大阪城内の屋敷の鎮守であってとされる清水谷の稲荷神社を合祀して、現在の社名に改まった。1945年(昭和20年)の大阪大空襲により江戸時代からの壮麗な社殿は焼失。現在の建物は1950年(昭和25年)に再建されたものである。

『ウィキペディア(Wikipedia)』




茶臼山雲水

2020/04/12 10:22:11

茶臼山雲水

昭和45年(1970)統国寺と改称、釈迦を本尊とし、仏殿・楼門など諸堂全てが中国風に造られた黄檗宗万福寺末寺で、以前は和気山邦福寺と称した。  寺伝によると開創は聖徳太子によるもので、不思議山深妙院念仏寺と称した法相宗であったが、宝永6年(1709)法源和尚が師の黄檗四世獨湛上人を開祖に再興、近くの和気清麻呂が開いた和気堀に因んで和気山の山号をつけたと伝える。以後は多くの雲水(諸国行脚の修行僧)がここで修行したため雲水寺あるいは雲水庵とも呼ばれた。方丈座敷からの眺望は素晴らしく、また境内で出された普茶料理も名物となり、来観者が絶えなかったという。

おおさかeコレクション転記



和気山統国寺

2020/04/05 10:42:50

和気山統国寺

関連リンク

統国寺の創立は詳らかではないが、聖徳太子の開創と伝え、かつては深妙院念仏寺と号し、法相宗に属していたという。伽藍諸堂宇(がらんしょどうう)は元和元年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって焼失したが、元禄16年(1703)法源和尚によって大雄殿が再建された。寺は近代に入って衰退した時期もあったが、現在は統国寺と名を改め、境内の整備もすすめられている。

大阪市HP転記



茶臼山

2020/04/12 10:29:21

茶臼山

一心寺の北にある。「荒陵」と呼ばれ、もともと前方後円の古墳であったとする。大坂冬の陣、夏の陣で陣営にもなった。夏の陣では真田幸村がここに陣を置き、東軍と戦い戦死した茶臼山の合戦の地となった。現在は天王寺公園の中にあり、隣に大阪市立美術館が建っている。

おおさかeコレクション転記



茶臼山 古墳

2020/04/05 10:46:58

茶臼山 古墳

茶臼山は大坂冬ノ陣(1614)の際に徳川家康の本陣があったところですが、もとは前方後円墳と考えられ、河底池は周濠の痕跡とみられていました。また、四天王寺の別名「荒陵(あらはか)寺」も茶臼山古墳に由来し、境内にある長持形石棺の蓋も茶臼山に納められていたものと推測されていました。

昭和61年(1986)に発掘調査が行われ、家康の本陣跡の建物や堀割が確認されましたが、従来いわれてきた全長200mの大前方後円墳という説には疑問符が付くことになりました。ただ、平安時代以前に築かれた盛土が古墳の築造時によく用いられた工法と類似するものであることが明らかにされ、古墳の可能性は残されています。

大阪府HP転記



四天王寺

2020/04/12 10:35:35

四天王寺

号は荒陵山、敬田院と称す。難波寺、難波大寺、御津寺などともいう。創建は聖徳太子。金堂、講堂、五重塔を備えた大寺で、年中参詣者は絶えない。特に4月の涅槃精霊会、春と秋の彼岸会、8月の千日詣は雲霞の如く参拝者が押し寄せる。

おおさかeコレクション転記



四天王寺西門

2020/04/05 10:51:13

四天王寺西門

関連リンク

四天王寺西門に立つ石鳥居は、国の重要文化財に指定された建造物であり、永仁2年(1294)に忍性(にんしょう)によって建立されたものである。石鳥居ではあるが、柱を繋ぐ梁にあたる部材、すなわち島木(しまぎ)と貫(ぬき)については、重量の軽減化をはかるためか、石ではなく、木製の心材を銅板で覆うという構造をとっている。

大阪市HP転記



四天王寺伽藍

2020/04/12 10:42:27

四天王寺伽藍

号は荒陵山、敬田院と称す。難波寺、難波大寺、御津寺などともいう。創建は聖徳太子。金堂、講堂、五重塔を備えた大寺で、年中参詣者は絶えない。特に4月の涅槃精霊会、春と秋の彼岸会、8月の千日詣は雲霞の如く参拝者が押し寄せる

おおさかeコレクション転記



四天王寺伽藍

2020/04/05 10:53:13

四天王寺伽藍

境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。

『ウィキペディア(Wikipedia)』



西照庵月見景

2020/04/12 10:47:35

西照庵月見景

生玉寺町の南端、月江寺の裏手にあった料亭。  天保11年(1840)、大阪の料亭番付『浪花料理屋家号附録』において西の大関に位置付けられ、座敷からの風景は『浪華の賑ひ』に「座敷より向ふを眺望(のぞめ)ば浪花の市町(まちまち)より西海まで見えわたりにて絶景なり」と絶賛されている。とりわけ、紅葉の名所として名高かった。

おおさかeコレクション転記



西照庵

2020/04/05 11:02:25

西照庵

 江戸時代、生玉さんの近くにあった有名な料亭。座敷からは大坂市街や大阪湾までが望まれ、殊に夕陽が美観だったそうです。
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』にも、この料亭が登場します(表記は「西昭庵」)。
小説では、鳥羽伏見の戦いから戻った新撰組の土方歳三が、大坂で再会したお雪を伴い訪れたのがの西照庵でした。

上町台地今昔タイムズ2018春夏号転記



勝曼院愛染堂

2020/04/12 15:40:55

勝曼院愛染堂

本尊は愛染明王。例年旧暦6月朔日に本尊の開帳があり、愛染祭と称する。多くの人々が群集し、『摂津名所図会大成』には「就中傾城遊女俳優をはじめ衆人の愛をうけんと欲するもの歩を運ひて愛敬を祈るがゆへに往来花麗にしていと賑わし」とある。現在は「宝恵かご」「浴衣まつり」で知られ、大阪の夏の祭りの最初を飾る。

おおさかeコレクション転記



勝曼院愛染堂

2020/04/05 11:08:29

勝曼院愛染堂

四天王寺の四箇院のひとつである「施薬院」として推古天皇元年(593)に、聖徳太子によって建立されました。施薬院とは、仏教の教えによって設けられたもので、薬草を栽培し、あまねく人々に病に応じてそれを与える福祉施設でした。後に聖徳太子が勝鬘経を人々に講ぜられ、経に登場するシュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像を本堂に祀ったことから、当院は「勝鬘院(しょうまんいん)」と呼ばれるようになりました。また金堂には本尊として、良縁成就・夫婦和合で有名な愛染明王が奉安されていることから、「愛染堂(あいぜんどう)」としても親しまれています。境内には、豊臣秀吉が再建した桃山時代の代表作である多宝塔(国の重要文化財)のほか、飲むと愛が叶うといわれる「愛染めの霊水」があり、若い女性に人気です。毎年6月30日、7月1・2日には、大阪の三大夏祭りのひとつとして有名な愛染祭が行われます。
大阪観光局HP転記



増井浮瀬夜の雪

2020/04/12 15:44:50

増井浮瀬夜の雪

新清水の坂の下にある料亭。西南方向に眺望がよく、庭には花が植えられた景勝の地であった。  元々は所蔵する大きな鮑で作った盃の名前であったが、この盃になみなみと注いだ七合半を飲み干した人の名をとどめていたところ、これが名物となり、店の名前にもなった。  店は明治まであったらしいが、詳しいことはわかっていない。織田作之助の父鶴吉が一時期浮瀬の板前をしていたとか。

おおさかeコレクション転記



浮瀬亭

2020/04/05 11:24:08

浮瀬亭

新清水寺の北隣りにあった浮瀬は、江戸時代大阪を代表する料亭であった。当初、清水の茶屋とも晴々亭とも呼ばれていたが、所蔵するアワビ貝の奇盃「うかむ瀬」が有名となるにつれて、料亭の名もいつしか浮瀬と呼ばれるようになったようだ。

愛染坂の途中に解説看板がありました、名所図会等を見ると一本南の清水坂寄りに茶寮はあったようだ。




天王寺増井

2020/04/12 15:59:11

天王寺増井

興禅寺のすぐ北、新清水崖下の増井清水は、亀井・玉出・相坂・安井・有栖・金龍とともに「天王寺七名泉」あるいは「逢坂清水」に数えられた。江戸時代、大坂市中の井戸水は塩気を含んで飲めないため、川から水を汲んで来たり、水屋から川水を買ったりして飲水としていたが、天王寺近辺だけは良質の井戸に恵まれたといわれる。曲亭馬琴の『羇旅漫録』に「増井の清水、その外天王寺邊の井戸の水を汲みにゆくもの、夕方より引もきらず」とあり、往時の賑いが窺われる。

おおさかeコレクション転記



天王寺七名水 増井 

2020/04/05 11:30:35

天王寺七名水 増井 

関連リンク

増井(ますい)の清水(しみず)は天王寺の七名水の一つである。元井戸は2か所にあったが、現在では1つの屋形を残すのみである。江戸時代、湧水中の時は水溜場が上下2段に分かれ、上段は侍方、下段は町人方に分けられていたという。
 この付近はちょうど上町台地の西崖線にあたり、豊富に湧水した。そのうち特に良水の井戸は大切にされていた。

大阪市HP転記

現在は個人地になっている様子で中には入れない。2020/4/4



新清水紅葉坂滝

2020/04/12 16:07:12

新清水紅葉坂滝

号は有栖山。本尊十一面千手観音。勝鬘院の南にあって、当初は有栖川寺と称した。寛永17年(1640)に聖徳太子作と伝えられる十一面千手観音を、京都清水寺から移したことから享保年中(1716~1736)に新清水寺と称するようになったという。京都清水寺と同じように舞台を設けており、南西方向の遠山滄海を遥かに望むことができた。北の石段下に有栖の清水があって、清泉のためお茶の水として重宝された。

おおさかeコレクション転記



新清水の滝

2020/04/05 11:30:35

新清水の滝

京都の有名な清水寺を模して建立された寺です。寛永十七年(1640年)に延海大阿闍梨が、観音菩薩のお告げを受けて、京都清水寺から聖徳太子作と言われる十一面千手観世音菩薩を迎えて本尊とし、新清水寺とも呼ばれてます。
天台宗系の和宗の寺院で山号は有栖山です。近所にはこの寺の名前が起源の天王寺七坂の一つ、清水坂があります。

下から上がると山門がありその奥に瀧があります、看板には滝行以外の人は立ち入らないでください。とあった。



安居天神社

2020/04/12 16:13:43

安居天神社

社伝によると、昌泰4年(901)菅原道真大宰府左遷の折、河内の道明寺に向かう途中に四天王寺を参拝した際、この辺りで休息したとされたため、道真没後約40年に当たる天慶5年(942)この地に招魂することとなり、道真が安らいだことに因んで安居天神社と定めたといわれる。また別に、四天王寺の僧が夏安居(げあんご)を修業する安居院(あんごいん)がここにあったことに名前の由来があるともいわれている。 天王寺七名泉の一つ「安井」もほど近く、境内は天神森や安井森などと呼ばれた景勝地で、特に桜の季節には花見客で賑った。また真田幸村が最後を遂げた地としても知られ、大坂の陣でひどく廃朽したのを、松屋呉服店(大丸の前身)店主下村彦右衛門が寛延3年(1750)修復に乗り出し、営繕し拡張を行った。

おおさかeコレクション転記



安居神社

2020/04/05 11:41:50

安居神社

少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社です。昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母の覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)しました。当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらいました。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれています。安居神社は、その道真の死後の天慶5年(942)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたものです。また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったといいます。境内には、道真も口にしたといわれる天王寺七名水のひとつ「かんしづめ(癇鎮め)の井」のほか、大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村の記念碑が建てられています。
大阪観光局HP転記



四天王寺合法辻

2020/04/12 16:17:08

四天王寺合法辻

聖徳太子と物部守屋がお互い信ずる法について論じ合ったためとか、合邦という修行者が済んでいたためとか、四天王寺の学校があり「学校が辻」が訛ったためとか、地名に関する俗説は多い。ここに閻魔王の石造を安置する小堂があった。  浄瑠璃「摂州合邦辻」はこの閻魔堂を舞台にしたもの。  閻魔堂は現在は西方寺境内に移され、国道25号線と松屋町筋の交差する北西付近にある。西方寺は、号は暁月山で、本尊は阿弥陀仏。

おおさかeコレクション転記



閻魔堂と西方寺

2020/04/05 11:41:50

閻魔堂と西方寺

関連リンク

合邦辻(がっぽうがつじ)は、現在の松屋町筋(下寺町筋)と国道25号線(竜田越奈良街道)の交差点(公園北口交差点)を指す[1][2]歴史的な呼称。合邦ヶ辻などとも表記される。

古くは「合法辻」と書かれ[3]、聖徳太子が物部守屋と仏法について合論した地であると伝わる[1][4]ほか、「四天王寺の学校があったことから「学校が辻」と言っていたものが訛った」[4]など、地名については多くの俗説がある[4]。

江戸時代には大坂市街の南郊、摂津国東成郡天王寺村の一角であった[5]。合邦辻は四天王寺西門の西方に位置しており、逢坂(天王寺七坂のひとつ)の上り口に当たる。すなわち竜田越奈良街道はここから東へ、四天王寺門前まで上町台地の斜面を上っており、坂に向かって右手に一心寺、左手に安居神社がある[5]。
『ウィキペディア(Wikipedia)』



今宮蛭子宮

2020/04/12 16:20:48

今宮蛭子宮

天照皇大神、事代主命、素盞鳴命、月読命、稚日女命を祭る。聖徳太子の創建と社伝は伝える。毎年正月10日に多くの人が参詣し、『摂津名所図会』にも「笹の枝は家の内に插して、冨貴繁昌の先表とする事風俗(ならわし)とするなり。この日浪花の市中稼穡を休みて十が六、七は参詣す」とある。現在でも、正月の宵戎、十日戎、残福では多いに賑わい、毎年100万人を超える人々が参詣する。

おおさかeコレクション転記



今宮戎神社

2020/04/05 11:47:04

今宮戎神社

 「商売繁昌じゃ笹もってこい」のかけ声で著名な今宮戎神社の十日戎は、大阪の年頭最初の祭礼で、
1月9日の宵戎から11日の残り福まで、毎年約100万人の参拝客で賑わう。今宮は中世今宮浜と呼ばれた漁村で戎神は豊漁をもたらす神として信仰されたが、四天王寺西門前の浜市と結びつき市神として祀られてから商売繁昌の神として信仰を集めることとなった。十日戎は、元禄年間(1688~1704)頃には現在の形態を整えていたといわれる。

(「特別展 浪花百景ーいま・むかしー」大阪城天守閣編集)より



広田社

2020/04/12 16:25:04

広田社

祭神は天照大神。創建年代は不明。今宮戎神社の北に位置し、古くから四天王寺の鎮守として知られた。  地元の木津は古くから漁師町として栄え、漁師の信仰が厚かった。境内には桜や萩が多く、大変見事であったという。この辺りは以前うっそうとした松林に囲まれており、広田の森、蛭子の松原と呼ばれていた。

おおさかeコレクション転記



広田神社

2020/04/05 11:48:36

広田神社

もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神(うぶすなのかみ)ですが創建年代は不詳です。古い由緒を持つとともに江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。
 当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。桜の木も多く美しい社であったとのことです。無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ(関西ではアカエ)を神使とするユニークな神社で、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されています。

浪速区HP転記



広田星カ池稲荷

2020/04/12 16:28:04

広田星カ池稲荷

祭神は天照大神。創建年代は不明。今宮戎神社の北に位置し、古くから四天王寺の鎮守として知られた。  地元の木津は古くから漁師町として栄え、漁師の信仰が厚かった。境内には桜や萩が多く、大変見事であったという。この辺りは以前うっそうとした松林に囲まれており、広田の森、蛭子の松原と呼ばれていた。

おおさかeコレクション転記



赤土稲荷

2020/04/05 11:50:31

赤土稲荷

廣田神社の南には、かつて星ヵ池という池がありました。
池は大正末には完全に埋め立てられたようです。かつて星ヵ池に在った稲荷社は現在、廣田神社内に境内社として赤土稲荷が鎮座しています。



住吉岸姫松

2020/04/12 17:21:34

住吉岸姫松

昔、帝塚山の南に位置するこの辺りは紀州街道の東側まで波の押し寄せる岸であった。風景はいたってよかったという。名義についてはよくわかっていない。

おおさかeコレクション転記



岸の姫松 (岸の五本松) 

2020/04/05 12:20:59

岸の姫松 (岸の五本松) 

関連リンク

和歌に岸の姫松と歌われるように、この辺り一帯は古来より海岸沿いから続く松林が群生する地であった。海岸線が西に後退した後も、景観と防風のため、次々と松が植え足されていったが、戦後急速にその姿を消すことになる。岸の五本松はかつての岸の姫松の名残で、現在は四本が残る。



天下茶やぜさい

2020/04/12 17:27:26

天下茶やぜさい

ぜさいは「是斎」と書く。近江梅の木村(現 滋賀県栗東町)で売っていた「和中散」を寛永年間(1624~1644)に津田宗右衛門が当地で売り始めた。『摂津名所図会大成』には「床椅数脚をならべ往来に人を憩わし薬を湯に立て施す事四時間断なし」とあり、繁盛していたことを伝える。現在の天下茶屋公園にあたり、東口横にこのことを示す碑が立っている。 (明治天皇聖躅の裏)

おおさかeコレクション転記



天下茶屋公園 明治天皇聖躅碑の裏

2020/04/05 12:27:11

天下茶屋公園 明治天皇聖躅碑の裏

天下茶屋公園は「是斎屋」があった跡である。
寛永年間に津田宗右衛門というひとが製薬を始めたのが起こりらしい。宗右衛門は近江国梅ノ木村(今の滋賀県栗東町の六地蔵あたり)の出で、和中散は元々六地蔵で名の知られた薬であったという。

近江の和中散は、江戸へ下るシーボルトが「江戸参府紀行」にも記されている。
天下茶屋是斎屋の様子は、浪花100景や摂津名所図会に店頭の様子が残されており、非常に賑わったのであろう。



住吉反橋

2020/04/12 17:48:00

住吉反橋

祭神は一の神殿は底筒男命、二の神殿は中筒男命、三の神殿は表男筒命、四の神殿は神功皇后。摂社、末社、名所旧跡が多い。大小の祭祀は年に75回に及び、その中でも特に2月の祈念穀祭、6月の御田植、7月の大祓、10月の宝の市、11月の新嘗祭は著名で多くの参詣者で賑わいをみせる。

おおさかeコレクション転記



住吉反橋

2020/04/05 12:36:36

住吉反橋

通称で「太鼓橋」とも呼ばれる。橋の長さは約20m、幅は約5.8mの木造桁橋である。橋中央部の高さは4.4mで、中央部を頂点として半円状に反っている。最大傾斜は約48度となっている。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っている構造になっていると考えられている。

橋は浪速の名橋50選に選定されている。また夜間ライトアップもおこなわれていて、関西夜景百選にも選定されている。

橋は川端康成の小説『反橋』(1948年発表)の舞台となった[1]。橋の南東には、『反橋』の一節が刻まれた川端康成の文学碑が設置されている。

「そりばし」ではなく「そりはし」が正しい名称である。
『ウィキペディア(Wikipedia)』



2020/04/12 17:56:19

住吉本社

祭神は一の神殿は底筒男命、二の神殿は中筒男命、三の神殿は表男筒命、四の神殿は神功皇后。摂社、末社、名所旧跡が多い。大小の祭祀は年に75回に及び、その中でも特に2月の祈念穀祭、6月の御田植、7月の大祓、10月の宝の市、11月の新嘗祭は著名で多くの参詣者で賑わいをみせる。

おおさかeコレクション転記



2020/04/05 12:44:59

住吉大社

社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている[1]。中世には主に「住吉大神宮」と見える[1]。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている[2][1][3]。

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった[1][4][5][6][7]。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている[1][4][6]。本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている[4](類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>[6][8])。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある[4]。

元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文[原 1]では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている[4][9]。一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている[10][6][7][8]。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ[11][12]、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている[7][8]。



2020/04/12 18:04:05

住よし五大力

祭神は一の神殿は底筒男命、二の神殿は中筒男命、三の神殿は表男筒命、四の神殿は神功皇后。摂社、末社、名所旧跡が多い。大小の祭祀は年に75回に及び、その中でも特に2月の祈念穀祭、6月の御田植、7月の大祓、10月の宝の市、11月の新嘗祭は著名で多くの参詣者で賑わいをみせる。

おおさかeコレクション転記



2020/04/05 12:47:52

住吉五大力

五大力さんは仏教でいうところの、五人の明王を指します、不動明王を中心に各方角を五人が守っているのです。
◆ 不動明王(中心)
◆ 大威徳(だいいとく)明王(西)
◆ 軍荼利(ぐんだり)明王(南)
◆ 降三世(ごうざんぜ)明王(東)
◆ 金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王(北)
これを探してお守りにするのが江戸より流行ったそうだ。



2020/04/12 18:12:12

浅沢の弁才天

住吉神社から東南に2丁ほどのところにある浅沢神社のそばにあり、かつては杜若で有名であった。和歌の名所としても知られていたが、後年荒廃していた。『摂津名所図会大成』によれば宝暦13年(1763)に大炊頭某が新たに杜若をここに植え、旧に復したという。池中に弁才天の小祠を祀る。現在、杜若は住吉区の花に指定されている。  池の辺を浅沢小野といい、江戸期にはすでに田圃となっていた。

おおさかeコレクション転記



2020/04/05 12:59:40

浅沢神社

【浅沢神社】(あさざわじんじゃ) 。古くはこの付近は池沼も多く、杜若かきつばたの名所として万葉集にも詠まれた。平成九年(1997)には、往時を偲ばせる「杜若かきつばた園」が復活した。また、「弁天さん」と呼ばれて親しまれ、福の神・女性の作法・芸事の守護神として崇敬されている。 浅沢の杜若(かきつばた)「住吉の浅沢小野の杜若 衣に摺りつけ着む日知らずも」(万葉集) その昔、ここから南にかけては清水の沸く大きな池があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢・京都の大沢と並ぶ近畿の名勝であった。 とくに住吉の浅沢池は、美しく咲き乱れる杜若かきつばたで歌人たちに愛され、万葉集をはじめとする多くの歌集にその名を留めている。



2020/04/12 18:20:50

住吉高とうろう

出見の浜にあって、夜間航行する船の目印になった灯台。方角を見失った時に住吉大神に祈るとこの灯籠の灯が煌々と輝いたという。現在は台風により倒壊した灯籠を再建したもので、元の位置から200メートル東に離れた、住吉公園西側の国道26号線沿いにある。

おおさかeコレクション転記



2020/04/05 13:03:57

住吉高灯籠

が国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。

大阪市HP転記



2020/04/12 18:25:13

住よし大和橋

大和橋は元禄16年(1703)に始まる大和川付替えに伴い新設され、宝永元年(1704)9月26日に完成した。紀州街道が大和川を渡るところに架けられており、熊野詣や和歌山へ至る輸送路として、また貿易港堺を通る重要な軍用道路として整備され、公儀橋に指定された。  旧暦6月末日に行われた住吉大社の大祓の祭りでは、堺の仮宮に移された神輿が夜住吉に還幸する際、神輿をおくる堺の人々と神輿を迎える住吉の人々のかざす数百の松明が大和橋の上であかあかと燃え、北は明石、南は泉州海岸からも見ることができたという。

おおさかeコレクション転記



2020/04/05 13:14:48

大和橋

大阪市と堺市を結ぶ大和橋は、大和川の開削と共に宝永元年、紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった。当時、大和川にはこの橋しかなく、旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓の祭では一場の舞台となった。神遷しをした神輿をかつぎ数百人が持つ炬火の火は西宮を始め兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ人々はこの火を目印として神幸を拝したという。

 これを「住吉の火替」といった。

 幕府の手によって架けられた大和橋は洪水時に絶えず流失の危険にさらされながら大正5年、大阪府が鉄橋に架け替え、現在の橋は橋梁形式三径間連続の斜張橋で橋長192メートル、有効幅員9.5メートルとなった。
大阪市HP転記