浪速の名橋50選(改訂版)をポタってみた。その2

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現在の軌跡: 04 05 2020 08:40

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/05/04 08:40:47終了日時2020/05/04 12:04:53
水平距離38.99km沿面距離39.05km
経過時間3時間24分06秒移動時間2時間39分46秒
全体平均速度11.48km/h移動平均速度14.54km/h
最高速度28.09km/h昇降量合計278m
総上昇量125m総下降量153m
最高高度71m最低高度6m

レポート概要

暇である、運動しないので体重が増えてその方が健康に悪そうである、コロナ禍で出かけられないけど、ポタは基本一人だし誰とも会わないので、まあいいか?

浪速の名橋50選(なにわのめいきょう50せん)とは、大阪市に架かる全橋梁を対象に社団法人 土木学会関西支部 が名橋として選定したものである。 以下の50橋が選定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://www.cvv.jp/CVV2/kengakukai/naniwa%20no%20meikyo/kaiteikeii.html

構造物として面白いのは此花大橋のみになった、道頓堀に架かる橋は軒並み一般的な構造で歴史的名橋と云うだけである。
木津川に架かる戦前の工作物(橋)は当時のリベット止めが見れて面白い。

写真レポート

木津川渡船場

2020/05/04 09:04:40

木津川渡船場



甚平渡船場

2020/05/04 09:26:57

甚平渡船場



天保山渡船場

2020/05/04 09:50:19

天保山渡船場



此花大橋

2020/05/04 10:15:53

此花大橋

此花大橋(このはなおおはし)は、大阪市此花区北港と此花区舞洲を結ぶ大阪港に架かる橋。 北港(北地区)と、既成市街地を結ぶ延長1.7kmの長大橋である。平成2年度の土木学会田中賞を受賞。
形式 モノケーブル3径間連続自碇式吊橋
橋長 540.00m
支間長 120.00m + 300.00m + 120.00m
幅員 23.50m
橋脚 鉄骨鉄筋コンクリート
基礎 鋼管杭
着工 1979年(昭和54年)
完成 1990年(平成2年)3月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



北港ジャンクション

2020/05/04 10:09:47

北港ジャンクション

1994年4月28日に淀川左岸線の北港ジャンクション - 島屋出入口間が開通[1]。2013年5月25日には島屋 - 海老江間が開通し、5号湾岸線から当ジャンクションで淀川左岸線を経由して阪神高速3号神戸線へと行けるようになった[2]。

4層の立体構造で、柱と道路が複雑に入り組んでいる[3]。この様な構造になった理由として、ジャンクションの近隣は工場や石油タンクの建ち並ぶ埋立地で、用地買収が困難であるという事情がある[4]。使う敷地を極力抑えるため、連絡道路は全て立体交差で、中央の柱と梁による建造物(立体ラーメン)で道路を支えている[4]。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



昭和橋

2020/05/04 10:49:05

昭和橋

木津川の分流点に昭和橋が架けられたのは昭和7年のことである。この路線は計画道路梅田九条線(土佐堀通)に当たっており、市電路線でもあった。主橋部には支間長69mのタイドアーチが適用されたが、橋が土佐堀通りから川口へ斜めに渡るため、67度近い斜橋となっているため斜めになったアーチ橋という大変設計の難しい構造となっている。

大きな橋体の重量を支える基礎には、軟弱地盤であることを考慮に入れ、長さ22~25mの木杭が、両側で千本以上も打ち込まれている。

宮本輝氏の『泥の河』は、この橋の描写から物語が始まっている。

大阪市HP転記




昭和橋

2020/05/04 10:47:09

昭和橋



昭和橋

2020/05/04 10:54:22

昭和橋

施工は間組 制作は大阪鐡工所・・大阪における近代重工業の発祥ともいえる大阪鉄工所は、英国人ハンターによって創設された造船工場である。明治14年創業で、6馬力の蒸気機関を備えた最新説工場であった。明治31年には桜島に移転し、現在の日立造船所へと発展していく。

当然ながら構造はリベット止め



木津川橋

2020/05/04 10:52:24

木津川橋

最初の木津川橋は1868年(慶応4年)、大阪港の開港に伴い開設された運上所(税関)や外国人居留地のある川口地区と対岸の江之子島地区を結ぶ木製の橋として架けられた。

1876年(明治9年)には橋脚など部分的に鉄製となり、日本初の歩車分離橋となったが1885年(明治18年)の洪水で流失、1888年(明治21年)には輸入鉄材を使用した鉄橋として復旧した。その後1913年(大正2年)には大阪市電の開通に伴い3径間アーチ橋に架け替えられた。1953年(昭和28年)5月18日に国道172号線の一部となる。

現在の橋は1966年(昭和41年)に高潮対策事業の一環として架け替えられた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



木津川橋碑

2020/05/04 10:49:56

木津川橋碑

木津川橋は慶応4年、川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた。当時、川口には大阪開市・開港に備えて運上所(税関)が設置され、続いて居留地が設けられて、新しい町並みが出現しつつあった。また江之子島には、明治7年に大阪府庁が建設されるなど行政の中心地であった。

 木津川は、明治9年には橋脚など一部鉄製となり、橋面は歩道と車道が分離された初めての橋となったが明治18年の洪水で流出した。明治21年には輸入鉄材を使用した、橋長75.3m、幅員10.4mの鉄橋となった。その後大正2年には市電の開通により橋長72.7m、幅員21.8mの3径間の立派なアーチ橋になった。

 現在の橋は昭和41年に高潮対策事業の一つとして架け替えられた橋で橋長75.55m、幅員21.60mの鋼桁橋である。

大阪市HP転記



心齋橋  現存しない

2020/05/04 11:06:50

心齋橋  現存しない

心斎橋筋は、船場と島之内を分ける長堀川(現在は埋立てて長堀通)に架かっていた心斎橋(橋梁)に由来する。単に船場と島之内を繋ぐにとどまらず、道頓堀川にも戎橋が架けられ、なおかつ西横堀川(現在は埋立てて阪神高速1号環状線北行き)寄りの道であったことから、道頓堀の芝居小屋と下船場の新町遊廓を結ぶ道として賑わいを見せるようになり、今日に至っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



心斎橋橋梁顕彰碑

2020/05/04 11:06:56

心斎橋橋梁顕彰碑

心斎橋は、元和8年(1622)ころ美濃屋岡田心斉が中心となって架けたところから名づけられたとされる。心斉は、長堀川を開いて物流を盛んにし、大阪繁栄の基礎をつくったひとりでもある。江戸時代の心斎橋は長さ18間(約35.5m)幅2間1尺(約4.2m)の木橋で、橋筋の人々が大切に維持管理する 「町橋」として近代までその生命を保った。
 文明開化の波にのって、明治6年(1873)、ドイツ直輸入の鉄製弓形トラス橋となった心斎橋は、橋脚なしに川をまたぐ当時としては珍しいもので、名所絵の絶好の題材となった。
 現在鶴見緑地公園に“緑地西橋”として余生を送る橋がそれである。
 さらに明治42年(1909)石造2連アーチ橋に架け替えられ、眼鏡橋として川面に映るガス灯と共に長く親しまれた。愛媛県産の良質の御影石を用い、西洋風意匠で組み上げた秀麗な雰囲気の名橋であった。
 新しい心斎橋では当時の面影を残すため、ガス灯を復元するとともに、欄干や親柱には建造時の石材をそのまま使用しており、顕彰碑は南側歩道の東側に設置されている。

大阪市HP転記



下大和橋

2020/05/04 11:20:25

下大和橋



下大和橋 顕彰碑

2020/05/04 11:13:46

下大和橋 顕彰碑

こころこころの 商いも みな世渡りの大和橋
 下いく水の泡よりも 色にそ銀は消えやすく
  -生玉心中 中巻 大和橋出見世の場

 近松門左衛門の戯曲、生玉心中の舞台ともなった本橋付近の島之内、道頓堀界隈はまさに庶民の生活の舞台であった。現在もこの橋の南側には国立文楽劇場や二ツ井戸があり賑わいのある道頓堀とは一線を画し、上方文化の香りの残る地区となっている。

 江戸時代、このあたりには大和橋と中橋の2橋が架かっていたが、宝暦年間に大和橋が廃され、道頓堀川にそそぐ東横堀川に上大和橋が架けられたことにより中橋が下大和橋となった。

 木橋であった下大和橋が永久橋となったのは昭和3年(1928)のことで、昭和62年(1987)の架け替えの際に、橋面空間の演出に重点をおいた整備が行われた。

現地顕彰碑転記



日本橋

2020/05/04 11:18:13

日本橋

堺筋(紀州街道)が道頓堀を通るところに架けられた橋で、大阪市中央区に位置する。江戸時代には、日本橋の橋筋は「長町」と呼ばれ、古くからの宿場町だった。橋詰には船着き場があって水陸交通の要所として賑わい、とくに人通りの多かった道頓堀への曲り角にあたる南詰の西側には幕府の高札場(こうさつば:現在の官報掲示板)が設けられていた。当時は、橋長約40m、幅員約7mの木橋だったとか。明治から数回の改修工事を経たのち、昭和44年(1969)の地下鉄建設に伴って架け換えられ、現在に至る。橋詰には旧橋の親柱が残されている。また、日本橋界隈は明治時代、古書店街として賑わっていたが、戦後に入って自作のラジオ向けのパーツや工具などを扱う店が現れたことをきっかけに電気街として発展し、現在の「でんでんタウン」に至っている。

大阪観光局HP転記



相合橋

2020/05/04 11:21:24

相合橋

この橋が最初に架けられたのは1680年代で、当初は中橋あるいは新中橋と呼ばれ、近松門左衛門の浄瑠璃『心中重井筒』の一節にも中橋として登場している。相合橋と名が改められた時期は不明。なお、当橋は島之内の北を流れていた長堀川の中橋と玉屋町筋で結ばれており、中橋と相い合う橋であることから相合橋になったともいわれている。

江戸時代から明治にかけて、北に宗右衛門町、南に道頓堀の芝居町を挟んで坂町(元伏見坂町)といった花街が広がっていた。明治になると、男女の仲が切れる「縁切り橋」との風評が立ち、遊女などは相合橋を渡ることを避けていたといわれ、婚礼の行列も相合橋を渡らなかったと伝わる。

現在の橋が架橋されたのは1962年(昭和37年)で、1983年(昭和58年)に幅を両側へ大きく拡げて、橋上に憩いの広場が設けられた。2004年(平成16年)に、相合橋付近にとんぼりリバーウォークが整備された際に、遊歩道へのアプローチ階段が設置された。

相合橋の南詰の先から南北に千日前通まで延びるアーケード商店街・相合橋筋商店街がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



戎橋

2020/05/04 11:24:13

戎橋

大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が南海難波駅前まで伸び、人通りが多い。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットにもなっており、1日平均20万人(休日は35万人)が戎橋を通行している。

長らく1925年(大正14年)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート製アーチ橋が架かっていたが、2007年(平成19年)に現在の橋に架け替えられた[1]。河岸のとんぼりリバーウォークへ降りるスロープが設置され、橋下には御影石と青銅を用いた先代橋の三連窓壁高欄が取り入れられている。また、観光客などが立ち止まることを考慮して橋上は円形の広場になっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



大黒橋

2020/05/04 11:27:12

大黒橋

大黒橋(だいこくばし)は、大阪府大阪市を流れる道頓堀川に架かる橋。北岸の中央区西心斎橋2丁目と南岸の同区道頓堀2丁目および浪速区湊町1丁目とを結ぶ。

近年まで現存していた鉄筋コンクリートのアーチ橋は、1930年(昭和5年)に架設されたもので、1車線車道と両側歩道の構造になっていた。その翌年には橋東側に河川浄化のための可動堰が設置され、その上部を歩行者専用道として利用した。可動堰は、橋がコンクリート製なのに対して、煉瓦で装飾されており、1988年(昭和63年)の改装工事にはベンチや植樹枡が設置されるなどの整備が行われた[1]。

その後、劣化や損傷等の老朽化、耐震性の問題により、2013年(平成25年)4月まで行われた道頓堀川水辺整備事業の遊歩道とんぼりリバーウォーク設置工事に合わせて鋼ポータルラーメン橋に架け替えられた[2]。これは桁下高さや航路幅、河岸遊歩道の建築限界などを確保するために採用された[3]。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



大黒橋

2020/05/04 11:28:08

大黒橋

関連リンク

大黒橋は木津の大黒神社への参道に当たっていた。江戸時代初期の地図にはこの橋は「なんば橋」「下橋」と記載されているが、元禄16年(1703)の『公私要覧』には「大黒橋」とあり、これ以降はこの名前が定着したようである。

 江戸時代の大黒橋は木橋で、橋長42.7m、幅員2.4mと記録されている。また、嘉永7年(1854)、大阪は津波に襲われたが、この際、木津川から道頓堀川へ津波がさかのぼり、西道頓堀川の橋は全て壊れた。さらに遡上してきた船や橋が大黒橋に引っ掛かり岸へ乗り上げたため、周辺の家屋が壊され、甚大な被害を被ったとされている。

 昭和5年に大黒橋と同時に上流側には道頓堀川の浄化用の可動堰が設けられた。その上部は歩行者道路となり、昭和63年にはベンチ、植樹枡が設置されるなどの整備が行われた。

大阪市HP転記