浪速の名橋50選(改訂版)をポタってみた。その3

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現在の軌跡: 05 05 2020 07:22

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/05/05 07:22:02終了日時2020/05/05 12:05:50
水平距離64.01km沿面距離64.04km
経過時間4時間43分48秒移動時間4時間06分32秒
全体平均速度13.54km/h移動平均速度15.53km/h
最高速度33.59km/h昇降量合計427m
総上昇量219m総下降量208m
最高高度26m最低高度3m

レポート概要

暇である、運動しないので体重が増えてその方が健康に悪そうである、コロナ禍で出かけられないけど、ポタは基本一人だし誰とも会わないので、まあいいか?

今回は尼崎から東淀川にかけての大坂北部の名橋を訪ねた、神崎橋からなにわ自転車道で東淀川区へ抜けて淀川河川敷を西進してみた、淀川河川敷にはコロナの影響で遊びに行けない人がワンサカ出張っておりました。

浪速の名橋50選(なにわのめいきょう50せん)とは、大阪市に架かる全橋梁を対象に社団法人 土木学会関西支部 が名橋として選定したものである。 以下の50橋が選定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://www.cvv.jp/CVV2/kengakukai/naniwa%20no%20meikyo/kaiteikeii.html

今回  浪速の名橋50選(改訂版)をポタってみた。その3  では、淀川に架かる橋がメインになるのでよく似た構造橋が多くあまり面白いのは無かった。

ただ 瑞光寺 〒533-0005 大阪府大阪市東淀川区瑞光2丁目2-2 には 雪鯨橋(せつげいきょう)と云う鯨の骨を用いた橋があり、珍しく面白い。

写真レポート

神崎川 猪名川 合流点

2020/05/05 09:01:25

神崎川 猪名川 合流点

神崎川の河口には有名な大物の湊がありますが、河尻の河口付近は、三方が海に面した低湿地帯で、風波を防ぐのに困難な地形であったため、しばしば洪水に襲われたり、河尻に入港しようとする船が着岸できず沈没したりしました。このため、河口をややさかのぼった神崎が、船泊りの地として繁栄するに至りました。

江戸時代、中国街道の要衝であった当地には渡船が設けられていた。「摂津名所図会」には、”昼夜行人絶えず”と、その賑わいぶりが記されている。



神崎橋

2020/05/05 09:04:56

神崎橋

神崎橋の名前は「太平記」にも記されているが、南北朝時代に戦乱に巻き込まれて損壊したとされている[2][3]。近代まで長らく橋は途絶え、渡し船が交通を担っていた。

近代の橋としては、1923年にこの地に最初の橋が架けられた。その後1953年、1978年の二度にわたって架け替えられている。1953年に架け替えられた橋は、日本初の合成桁橋だった橋の長さは321.2メートル、幅は21.5メートルの合成桁橋[1]。現在使用中の橋は、1978年3月に架け替えられた。合成桁橋としては日本で最大規模とされている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



瑞光寺

2020/05/05 09:43:24

瑞光寺

瑞光寺
最寄駅:上新庄駅
吹田観音とも呼ばれ、聖徳太子が刻んだといわれる厄除聖観音が本尊、かつては中山観音と並び称されたお寺です。宝暦6年(1756年)当時の住職が、南紀太地浦を訪れ不漁で困っている漁師のために豊漁を祈願したところ、鯨の大群がやってきたので、漁師たちは鯨の骨を寄進し、住職は鯨の冥福を祈って鯨橋をつくりました。それが雪鯨橋という太鼓橋でこの寺の名物となっています。

阪急電鉄HP転記



雪鯨橋

2020/05/05 09:43:56

雪鯨橋

長さは約6m、幅は約3mの橋である。欄干はクジラの骨で造られている。クジラの骨を使用して架けられている橋は日本でもここだけといわれ、また世界的にも例をみない珍しいものとなっている。最初の橋は18世紀半ばに架けられた。古くは橋のすべての部分にクジラの骨が使用されていたといわれるが、天明(1780年代)の頃からは橋板は石造となったと伝えられている。

橋は老朽化に伴って何度か架け直されたが、1945年に太平洋戦争の戦災によって焼失した。その後29年間橋は途絶えていたが、1974年に捕鯨地で橋ゆかりの地でもある和歌山県東牟婁郡太地町の協力を得て橋を復興した。橋はその後、老朽化に伴い2006年11月に架け直された。

橋は浪速の名橋50選に選定されている。また日本百名橋の番外にも選定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



豊里大橋

2020/05/05 09:56:34

豊里大橋

豊里大橋(とよさとおおはし)は、淀川に架かるA型斜張橋で、大阪府大阪市東淀川区豊里と旭区太子橋とを結ぶ、全長561.4m、幅員19.5mの橋。正式な構造名称は、3径間連続鋼床版箱桁A型斜張橋と呼ばれるものである。国道479号(大阪内環状線)の一部である。浪速の名橋50選選定。

日本万国博覧会の関連道路の一環として整備され、1970年(昭和45年)に完成した。当時、大阪市では初めての本格的な斜張橋で、中央支間216mは当時日本最長であった。しかし、1975年(昭和50年)に中央支間250mの末広大橋(徳島県徳島市)が完成し、記録が破られた。

その後建設された、Osaka Metro今里筋線が豊里大橋の地下を通過している。
平田の渡し(へいたのわたし)は、淀川の渡船場としては最後まで残っていたが、1970年(昭和45年)3月3日、本橋の開通とともに300年以上も続いた歴史に幕を閉じた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



菅原城北大橋

2020/05/05 10:01:55

菅原城北大橋

大阪市北東部の豊里大橋と長柄橋の2橋が慢性的な渋滞を起こすため、その中間に都市計画道路豊里矢田線整備事業の一環として架橋された[1]。 旭区側は城北公園内を跨いでいるため、城北公園通(大阪市道中津太子橋線)には接続しておらず城北筋と接続している。 普通車の通行料金が100円だったので地元では100円橋とも呼ばれる。以前は、両岸堤防上の歩行者自転車道と連絡していなかったが、赤川仮橋の廃止に伴う代替措置として連絡スロープが2013年(平成25年)7月に取り付けられた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




長柄橋

2020/05/05 10:21:33

長柄橋

長柄橋(ながらばし)は、淀川に架かるアーチ橋である。大阪市北区本庄東と大阪市東淀川区柴島とを結ぶ 全長656.4m、幅員20mの橋である。 大阪府道・京都府道14号大阪高槻京都線の一部である。浪速の名橋50選に選定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



長柄橋

2020/05/05 10:22:07

長柄橋

古くから広くその名が知られる長柄橋ではあるが、橋の所在地については定かでない。

信頼度の高い書物にこの橋が登場するのは『日本後記』の嵯峨天皇条で、弘仁3年(812)、律令の制度にのっとって、中央政府から造橋使が派遣されて工事が行われたとされる。しかし、40年後の仁寿3年(853)には橋は既に廃絶しており、渡船が設けられていた。

 短命に終わった長柄橋は、人々の心の中で生き続け、歌枕として様々な歌に詠まれた。また、この橋には人柱の悲話が伝わり、”物いわじ父は長柄の橋柱鳴かずば雉も射られざらまし”の歌を耳にされた方も多いであろう。長柄の地に再び橋が架けられたのは明治6年のことで、現在の橋とほぼ同じ位置に豊崎橋という名の橋が造られているが、長柄橋の名が千年の時を経て復活するのは、明治42年、新淀川の開削にともなって架けられた鉄製のポニートラス橋である。この橋は明治7年に開通した東海道本線のトラスが転用されたものである。その後、昭和11年に架け替えられた橋は、第二次大戦末期に爆撃を受けて橋桁が損傷し、橋の下に避難していた人々に多くの犠牲者がでた。橋の南詰の観音像が犠牲者を供養している。

 現在の長柄橋は、昭和58年に完成したもので、中央部の橋はニールセンローゼ桁というアーチ形の橋が採用されている。近代的なアーチに千年の時の流れを映している。

大阪市HP転記



新淀川大橋

2020/05/05 10:30:53

新淀川大橋

新淀川大橋(しんよどがわおおはし)は、大阪府大阪市北区豊崎と淀川区西中島を結ぶ淀川に架かる国道423号(新御堂筋)、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)御堂筋線の併用橋である。大阪市の中心部と新大阪・千里ニュータウン方面を結ぶ動脈の橋であるため交通量・運行本数は多い。浪速の名橋50選に選定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

河川堤防工事でよく見えない状態



十三大橋

2020/05/05 10:41:57

十三大橋

十三大橋(じゅうそうおおはし)は、大阪市北区中津(南岸)と同市淀川区新北野(北岸)を結ぶ、淀川にかかるアーチ橋である。淀川河口より7.0 kmに位置する。

橋の中央部に路面電車を敷設することが可能な設計になっている。親柱のたもとに歯車をモチーフとした欄干など時代を色濃く反映した意匠などが残っている。現在、北行き片側1車線(新十三大橋がこれを補完している)、南行き片側3車線、および歩行者道が設定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



十三大橋

2020/05/05 10:43:32

十三大橋

十三大橋の南西詰の堤防の上に高さ4mほどの石柱が建てられていますが、これは大正9年3月に地元の有志によって建てられた道標です。東面には「池田四里、伊丹二里半」などと彫られています。



淀川大橋

2020/05/05 10:55:17

淀川大橋

淀川大橋(よどがわおおはし)は、大阪府大阪市福島区海老江と西淀川区姫里を結ぶ淀川に架かる国道2号の橋。阪神間の主要道路の橋であるため交通量は多い。歩行者専用の道路もある。浪速の名橋50選に選定されている。淀川陸閘が左右岸にある。この橋の下(地下)にJR東西線が通っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



淀川大橋

2020/05/05 10:58:12

淀川大橋

淀川大橋は1926年(大正15年)に架設され、架設後90年が経過した橋梁です。架設当時は橋梁中央に路面電車が走っており、その両側に片側1車線の車道と歩道という構成でした。後の軌道撤去(昭和50年)にともない橋上の利用形態は変化しましたが、橋桁は今も架設時のまま阪神間の交通を支えています。
これまで、繰り返し補修を行い維持管理をしてきましたが、床版の劣化や橋桁の鋼材腐食等老朽化による損傷が著しく、床版取替を含む大規模修繕工事を実施することになりました。平成29年度より床版、部材の取替を実施していきます。

淀川大橋床版取替他工事サイトHP転記



玉江橋

2020/05/05 11:15:59

玉江橋

玉江橋(たまえばし)は、大阪府大阪市の堂島川に架かる橋である。なにわ筋に架けられている。浪速の名橋50選にも選ばれている。

昔は大阪の七不思議の一つとして「玉江橋の南に天王寺さんの五重塔が見える」と言われていたが、玉江橋の東南に位置する四天王寺が橋の真南に見えることによるが、これは下に流れる堂島川が西南に流れているため、この橋が単に斜に架けられているからである。

福澤諭吉は玉江橋の北詰にあった中津藩の蔵屋敷で生まれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



玉江橋

2020/05/05 11:17:12

玉江橋

関連リンク

玉江橋は大江橋や渡辺橋と同様に、元禄期の堂島開発によって架けられた橋である。この時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活されたが、のちに玉江橋と変更されている。玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。

 江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝院という薬師堂があり、縁日には大層賑わった。

 明治18年の大洪水で流失した後、一たん木橋で復旧されたが、明治42年の北の大火で類焼している。その後、昭和4年に第一次都市計画事業によって近代的な3径間鋼ゲルバー桁に架け替えられた。昭和44年には高潮対策による嵩上とともに下流側に新橋が架けられ、拡幅された。また、平成3年には改装工事が行われ、堂島川の常安橋とともに、現代的なアルミ製の高欄や照明灯、タイル舗装が用いられている。
大阪市HP転記



常安橋

2020/05/05 11:20:48

常安橋

常安橋(じょうあんばし)は、大阪府大阪市の土佐堀川に架かるなにわ筋の橋。

大阪市北区中之島4丁目・5丁目と西区土佐堀1丁目・2丁目の間を結んでいる。
橋名は中之島の開発に尽力した大坂屈指の豪商・淀屋常安にちなむ。北詰付近は開発期に常安請所となっていた場所で、のちに常安町・常安裏町という町名になった。また、南詰の土佐堀で現在の田辺三菱製薬を創業した薬種商・田辺屋五兵衛にちなみ、田辺屋橋とも俗称された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



常安橋

2020/05/05 11:22:44

常安橋

常安の名は江戸時代初期の豪商淀屋常安に由来すると考えられる。「大阪市史」には「淀屋は本姓岡本氏、元祖与三郎常安北浜十三人町に住し、材木売買を営み、元和偃武の後中之島を開拓して之に居る。故に常安町・常安橋の名あり。」と書かれ、常安橋が淀屋常安の中之島開発に伴って創架されたと受け取れる。しかし江戸時代前期の地図では同位置の橋の名を「田辺屋橋」としており、古くはそう呼ばれていたらしい。

 淀屋は5代目辰五郎の代で取り潰しになるが、常安請所は常安町となり、常安の名は長らく残ることになる。

 江戸時代の中之島一帯には蔵屋敷が建ち並んでいた。常安町も同じで蔵屋敷出入の物資運搬のために橋が必要であった。そのため橋の維持管理はこれらの蔵屋敷を事実上運営していた名代、蔵元などの有力商人の手でおこなわれていたものと思われる。

 常安橋が近代的な橋に変わったのは第一次都市計画事業によってで、幅員11.4mの3径間ゲルバー式の鋼桁が架けられた。戦後になって下流側にほぼ同じ幅の橋が新たに架けられている。

大阪市HP転記