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開始日時 | 2020/05/09 06:34:08 | 終了日時 | 2020/05/09 11:23:46 |
水平距離 | 54.73km | 沿面距離 | 54.80km |
経過時間 | 4時間49分38秒 | 移動時間 | 3時間52分38秒 |
全体平均速度 | 11.35km/h | 移動平均速度 | 14.02km/h |
最高速度 | 32.31km/h | 昇降量合計 | 399m |
総上昇量 | 223m | 総下降量 | 176m |
最高高度 | 46m | 最低高度 | -63m |
2020/05/09 07:03:59
天王寺・あべのターミナル駅周辺では大規模な再開発事業がすすめられてきた。再開発事業の一環
として、国道25号と府道30号の交差点に架かる旧阿倍野歩道橋(昭和40年(1965年)完成)は、老朽化
も進んでいたため再開発事業に伴う道路拡張により平成25年(2013年)4月に架け替えられた。
2020/05/09 07:20:52
猪飼野新橋は大正時代に耕地整理に伴い新たな平野川が開削され、橋が架けられた。その後、平野川改修工事によって現在の橋に架け替えられたとき、「歴史の橋」として整備したものである。親柱は、古代の墳墓の代表的形式である前方後円墳の形とし、高欄の支柱を勾玉の形としている。また、高欄には、日本書紀に記された「為橋於猪甘津即号其処曰小橋也」の14文字の銘板を配するなど、古代から開けたこの地を顕彰している。
「猪甘津に橋為す。即ち其の處を號けて小橋と曰う。」これは、書物に登場する最古の橋の記述といわれ、「日本書紀」仁徳十四年の条の一節である。猪甘津(いかいのつ)は、現在の大阪市生野区付近と想定され、周辺には猪飼野や小橋(おばせ)という地名が残っており、このあたりの土地は古くから開けていたようである。なお猪甘津の橋跡とも伝えられる「つるのはし跡」の石碑が地元の人々によって生野区桃谷3丁目に建てられている。
大阪市HP転記
2020/05/09 07:29:37
玉津橋は、大阪と奈良を結ぶ「暗越(くらがりごえ)奈良街道」の道筋にあり、江戸時代初期には既に架けられていたと考えられている。
昭和43年に架け替えられた橋は、橋の構造高を低く押さえる必要からプレビームという特別な桁が日本で初めて採用された。
現在の玉津橋は、桁高を抑えるために鋼床版桁が採用されている。橋面は「歴史の橋」の整備の一環として、美装化された2.2mの歩道が両側に設けられている。玉津橋は、暗越奈良街道筋にあたることから、高欄部に江戸時代に描かれた 古地図を銅板に焼き付けたものをはめ込み、橋が古くから存続してきたことを顕彰している。また、現在でも生駒山中の暗峠に石畳が残ることから、橋の歩道部には石畳風の敷石が並べられ、街道の雰囲気を伝えている。
また、橋の西側の東成区中道4丁目には「暗越奈良街道里程標」があるなど、今も玉津橋の近辺には、街道筋の面影が残されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:07:48
この橋は、明治6年3月長堀川に架けられた心斎橋の弓形の桁を用いて、つくられた。当時、心斎橋は、日本で5番目に架けられた鉄橋(ドイツ製、橋長37.1メートル幅員5.2メートル)で、その規模の大きさは多くの人を驚かせたという。
しかし明治41年に撤去され、石づくりのアーチ橋に主役の座をうばわれてからは、境川橋、新千舟橋、すずかけばしと、次々にその身の置きどころを代えていった。
そして、このたび当地で5度目の奉公をすることになったが、がっしりとした鉄の骨組みに、文明開化の音をしのぶことが出来る。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:23:07
この自転車・歩行者専用橋は、大小の工場が立ち並ぶ城北運河周辺に住宅が増え、河川環境の整備と新しい視点に立った橋づくりが求められるなかで架設された。市内有数の汚濁河川であった本運河の浄化は、市の施策として昭和41年以降進められ成果を挙げていた。しかし、運河周辺の景観や環境は、阪神高速道路大阪守口線の建設(昭和43年完成)によって大きく変化した。
運河の東西方向の大半が、上空を高速道路の高架に覆われる構造となったこの狭隘な空間に、住民の日常生活に密着しながら、景観的にもうるおいのある人道橋を建設することが命題であった。
本橋は、同じく高速道路のルートとなり埋め立てられた旧旭江野川敷の遊歩道である都市計画道路「江野川筋歩行者専用道」の延長上にあり、それと城北運河遊歩道の右岸(南側)を連絡する役割もあった。
架設方法に、PCブロックを順番に重ねていくキャンチレバー形式を採用した本市では最初の事例でもある。構造全体が優美な曲線によって構成されており、昭和51年土木学会田中賞を受賞した。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:39:17
源八橋が架かる大川(旧淀川)には、江戸時代初期からの長い歴史をもつ”源八渡”があった。与謝蕪村は”源八をわたりて梅のあるじかな”という句を詠んでいる。右岸の天満側は大阪城代配下の役人の官舎街、左岸の都島区側は農村地帯であったが、京街道に近いため多くの利用者があったと思われる。
都島区一帯は明治に入ってものどかな田園風景がみられたが、昭和10年に城北運河の開削によって、周辺の工業開発がにわかに進んだ。源八橋は、第二次都市計画事業として架橋されたもので、昭和9年8月、工事に着手、11年6月に完成している。
橋の形式としては、6径間のゲルバー式鋼板桁が採用されている。新しい橋の名前をつけるにあたっては、由緒ある”源八”の名前を残すよう地元からの強い陳情があって、この名が採用された。
昭和30年後半から自動車が急増し、源八橋も交通渋滞が定常化したことから、昭和46年になって、東行きの左折レーンを増やすため、橋の半分だけが上流側へ拡幅された。
また、平成11年3月には、再度の拡幅と橋面の改装工事が行われ、同時に、顕彰碑も設置されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:47:27
桜宮橋(さくらのみやばし)とは、大阪市の大川に架けられた国道1号の橋。大阪市北区天満橋1丁目と都島区中野町1丁目を結ぶ。銀色の橋であることから「銀橋」と呼ばれており、こちらの名称の方が有名となっている。設計は武田五一。
付近は大川沿いに桜之宮公園が広がる。
なお、国道1号の拡張および銀橋の補修工事のために、北側に新桜宮橋(新銀橋)が建設された。新銀橋は安藤忠雄の設計で、既存の銀橋に合わせたデザインとなっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2020/05/09 08:52:54
江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。
明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、「ぜにとり橋」と呼ばれたらしい。この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはなかった。
現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:57:12
大正14年3月、東横堀川の浚渫中に、末吉橋と九之助橋の間の川底から「大坂橋 天正拾三年」(1585)の銘が刻された擬宝珠(ギボシ)※(高さ60cm×外径35cm、重さ15kg)が発見された。しかし、この「大坂橋」は過去のいずれの文献にも見あたらず、橋の所在・規模については、後にさまざまの議論が展開されることになる。
この立派な擬宝珠は、昭和6年に再建された大阪城天守閣に保存され、市民に公開されていたが、終戦の混乱時に行方不明になり、橋の所在と同様に幻の擬宝珠となってしまった。
幻の「大坂橋」の名前は、昭和48年大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として390年ぶりに復活された。主橋梁部は、方杖式ラーメン橋と呼ばれるユニークな形式である。
なお、橋上には橋名由来碑が設置されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 08:57:12
京橋は大阪城の北の玄関口に当たる重要な橋で、公儀橋(※)に指定されていた。大阪城を起点として京都へ向かう京街道や野崎まいりで有名な野崎街道を兼ねる大和街道の出発点であった。
現在の京橋は、第一次都市計画事業の橋梁改築事業によって大正13年に架け替えられた橋が、昭和5年にスタートした寝屋川の改修事業によって3径間の橋に手直しされたものである。
戦中戦後を通じて傷みがひどくなっていたが、昭和56年にその姿が一新された。改装にあたっては大阪城の歴史的な背景を新たに創造できるよう、外装全体は石垣のモチーフでまとめられ、城郭を形成する石塁の力感ある構造が、橋の高欄・親柱に採用されている。また、高欄は歩く人に安らぎを与えるよう、植樹枡を兼ねた構造になっている。橋上照明は太閤秀吉ゆかりの千成びょうたんを模した形となっている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:01:54
江戸時代、現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に鴫野橋という公儀橋があった。この橋は大坂城の城内にあり、一般の人々が利用できない公の性格の強い橋であった。初めて架けられた時期は明確でないが、豊臣時代の城絵図や冬の陣・夏の陣を描いた絵には見あたらず、この時期にはまだ架けられていなかったものと思われる。
明治になって弁天島の地が軍の用地となり、橋も陸軍の施設となったため、橋に関する詳細は伝えられていないが、この時期に鉄橋になった。その後の新鴫野橋は、橋長約55m、幅員8mの規模で、昭和10年3月に架け替えられたものと伝えられている。
近くの寝屋川には、地名から鴫野橋と命名された橋があるが、戦後、軍管理の橋が大阪市に引き継がれる際に新鴫野橋と命名されたため、公儀橋の鴫野橋とは場所が入れ替わってしまった。近年の発掘調査で発見された大坂城の石垣の配置からも、古い鴫野橋が現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に架けられていたことが確認されている。
現在の橋は昭和63年に架け替えられたもので、擬宝珠(ギボシ)※が付けられ、由来碑も整備されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:14:05
天満橋・天神橋・難波橋は江戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋である。当時としては最大級の橋で、この三橋は浪華の三大橋と呼ばれた。江戸時代には、ともに公儀橋に指定され、幕府の直轄管理となっていた。大坂の市街地を南北に結ぶ三大橋は市民の生活にも密接に関わる橋となり、都市発展に重要な役割をはたした。東西の町奉行所が、天満橋の南側にあり(のち西町奉行所は本町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側には様々な役所があった。橋の北側には役所の倉庫や町与力の屋敷があり、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の連絡にも利用されたと考えられ、官の性格が非常に強い橋であったと言えよう。
明治になり、天満橋・天神橋はほぼ同じ経過で架け替えが行われた。明治18年7月初めの大洪水によって両橋とも流失し、その復旧事業として、両橋ともに鉄橋に架け替えられた。この鉄橋の主要部材は天神橋と同じく、全てドイツ製であったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額は両橋とも国産品が用いられた。橋名額は現在も北詰の公園内に保存されている。
現在の天満橋は、昭和10年に重厚なゲルバー式鋼桁橋に架け替えられたものである。この桁の形状に対して当時の担当者が「のびのびとした、鳥が翼を広げたような形」と表現したように、景観上バランスのよい桁橋である。
戦後、自動車交通の発達により天満橋は、交通上のネックになり、昭和45年に高架橋が建設された。在来の天満橋の上に重ねる型式とし、設計荷重としては旧市電の軌道敷部の荷重と高架橋のそれと置き換えるように考えられた。さらに、平成元年に旧橋部が改装された。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:20:01
天神橋は文禄3年(1594)に架けられたと伝えられ、当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていたが、天満天神社が管理することからしだいに天神橋と呼ばれるようになったという。天神橋の架設は上町台地と大坂の北部方面を結ぶという意味で大変重要であり、後に天満組となる現在の北区の一部の発展を約束するものであった。
橋が地域を結びつける上でいかに重要な役割を果たしているかは、戦争の経過を追うとよくわかる。大塩平八郎の乱の発生を知った幕府はいち早く三大橋をこわし、反乱軍をふせごうとした。
明治18年7月初めに大洪水により淀川筋の橋は次々と流されたが、その直後に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品で長大スパン66mのボーストリングトラスが用いられた。
現在の天神橋は第1次都市計画事業によって完成したもので、低い軽快なアーチが中之島の剣先の風景によくマッチし、水都大阪の代表的な景観を形造っている。主要部の形式は3連の軽快な鋼2ヒンジアーチで、両端には重厚なコンクリートのアーチを置き、全体のデザインを引き締めている。
昭和62年、剣先側にらせん形のスロープが設けられると同時に美装化がなされ、遣唐使船の陶板ブロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板が飾られている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:23:07
難波橋が公儀橋となったのは天神橋と同じく、寛文元年(1661)のことといわれている。古くは中之島の先端が、難波橋の下流部にあったから橋は一本で架かっていた。この付近は絶好の行楽地で、夕涼み、舟遊び、花火見物などの人々でたいそう賑やかであった。
難波橋が鉄橋になったのは明治9年であるとされるが、橋の架替えに合わせて中之島の先端が上流の方へ延長されたことにより、橋は南北に分けられ、この北側部分のみが鉄橋になったようである。
難波橋が今のような立派な姿になったのは、市電事業によってである。以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていたが、市電の第三期線として計画された堺筋線に移された。橋本体は鋼製2ヒンジアーチで、中之島公園と一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされている。橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ2体の石造のライオン像が配されていることから『ライオン橋』の愛称で市民に親しまれている。
その後、橋本体の傷みがはげしく、架替えられたが、装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:24:06
土佐堀川・中之島公園・堂島川をまたがる堺筋に架けられている、全長約190mの橋。橋詰の4ヶ所に、阿(あ)と吽(うん)それぞれ2体の石造のライオン像が配置されていることから、「ライオン橋」の愛称でも親しまれている。江戸時代、この橋は堺筋の西隣にある難波橋筋に架かっていた木橋で、北詰は樋之上町、南詰は北浜一丁目、橋長約207m、橋幅約5.7mの、幕府直轄の公儀橋だった。反り橋だったため、周辺の16橋や遠くの山々を眺めることができ、橋の上は花火見物や夕涼みの一等桟敷となるなど、絶好の行楽地としてにぎわっていたそうだ。明治45年(1912)、市電堺筋線を北浜から北の天神橋六丁目へと延伸する際に、現在の位置に移された。華麗な照明灯、中央の中之島公園へ降りる広い石造りの階段など、都市景観の創造が図られた設計が見事。近くに、大阪証券取引所をはじめとする、近代のレトロビルも群集している。
大阪観光局公式サイト転記
2020/05/09 09:27:11
天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられているため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。
天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。
現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。
その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:30:18
江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、船場との連絡のために土佐掘川には多くの橋が架けられていた。栴檀木橋もそうした橋の一つであった。橋名の由来は『摂津名所図会』ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとしているが、詳らかではない。
明治になっても木橋のままであった栴檀木橋は明治18年の大洪水で流失した。再び架けられたのは大正3年のこととされる。これは明治37年に、大阪府立図書館が建てられ、明治末には大阪市庁舎の建設が決定されるなど、橋が再び必要となっていたためであろう。
その後、昭和10年に架け替えられた橋は桁の高さが一定のシンプルな美しさを強調した設計であったが、当時の設計者はこれを理想としていたようである。昭和60年9月、新しい橋に架け替えられたが、旧橋のイメージを大切にしながら橋面などは府立図書館や中央公会堂など、背景にある歴史的建築物との調和を考えてデザインされた。
また、センダンノキをモチーフにした欄間パネルが取付けられている。由来碑と大正時代の親柱は橋梁の橋詰に設置され、橋の歴史が一目でわかるようになっている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:33:56
水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。
水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。
水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:34:54
大阪市庁舎北側を流れる、堂島川に架かる橋。もとは元禄年間(1688~1703)、堂島市街地の開発によって新しく架けられた堂島川五橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)のひとつ。橋名は、万葉歌人の歌にも詠まれた地名に由来したという。明治43年(1910)、市電の開通に合わせて鉄橋に架け替えられた。現在の橋は第1次都市計画事業によって、南側の淀屋橋とともに改修工事がなされたものだが、大正時代当時としては、橋の改修としては珍しくデザインコンペが実施され、全国から意匠設計の応募があったもの。設計担当者に決まったのは大谷龍雄。橋長81.5m、幅員37.0m、上路充腹式、鉄骨鉄筋コンクリート造で4径間アーチ橋に、手摺りつきだった。昭和5年(1930)に着工、同10年(1935)に完成。その後、2度の改修が行われたが、ほぼ竣工当時の姿のままだという。橋の名板は関一市長の筆によるもの。
大阪観光局サイト転記
2020/05/09 09:36:45
土佐堀川に架かっている橋で、付近には日本銀行大阪支店をはじめ、府立中之島図書館、中央公会堂など、有名な近代建築が点在している。初代の橋は江戸時代、当時日本一の材木商だった淀屋によって架けられた、橋長約65m/幅員約4mのもの。橋名は、その淀屋にちなんでつけられた。淀屋家は堂島米市場や天満青物市場、さらに雑喉場(ざこば)魚市場の形成に多大な貢献をしたといわれるが、宝永2年(1705)突如として闕所(けっしょ)処分とされ、家が断絶となった歴史が残っている。当時の橋は明治18年(1885)の大洪水のため流失した。現在の橋は、大正11年(1922)から始まった第1次都市計画事業の一環として意匠設計の懸賞募集が行われ、昭和10年(1935)に完成したもの。デザインがたいへん優れ、周辺の環境とも調和しているなどの理由で、大阪市が行った橋に関する意識調査結果では、市民にとって最も魅力を感じる橋に名が上がっている。橋上を一日に7万人が渡り、6万台の車が通る。
大阪観光局サイト転記
2020/05/09 09:38:12
淀屋初代の常安(じょうあん)は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い財をなした。その後大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷の惣年寄にも任ぜられ、中之島の開拓にも力を尽くした。2代个庵(こあん)のとき、靭(うつぼ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富をきづいた。その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000平方メートル)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢をきわめた。5代目辰五郎のとき(宝永2年、1705)驕奢(きょうしゃ)な生活は町人身分を越えるものとされ、その上、訴訟のもつれでとがめられ、全財産を没収、所払(ところばら)いにあい、さすがの淀屋も没落した。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:42:13
錦橋は朝日フェスティバルホールの南側にある土佐堀川可動堰を指す名称で、昭和60年5月、橋面の美装化整備が行われた際に新しく名付けられた。
この可動堰は橋長約55mで、中央の2径間は支間約15mの鉄筋コンクリートのアーチを主構とし、両側には階段と一体構造になったコンクリートアーチが用いられている。建設当時から歩行者専用橋として利用されてきた。
橋面の整備にあわせて、大阪のシンボルにもなっている橋をより深く知ってもらえるよう橋上を橋のギャラリーにすることにした。植樹枡の壁面を斜めにした展示スペースには、江戸末期から明治初期に画かれた大阪の橋をテーマにした錦絵をタイルに焼きつけたものを展示している。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:43:55
江戸時代、肥後橋の北詰の中之島に肥後藩の蔵屋敷があり、このあたりは肥後島町と呼ばれた。明暦3年(1657)の「新板大坂之図」には肥後殿橋とあり、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。肥後藩の蔵屋敷は元禄時代になって中之島西部の越中橋北詰へ移転したが、橋名と町名はそのまま残った。
肥後橋が渡辺橋の通りに移ったのは明治21年に鉄橋化されたときからである。18年の洪水で流失した後、渡辺橋と共に鉄橋で架けられた。肥後・渡辺橋の通りは、明治7年にすでに造られていた大阪駅へのメインストリートであったため、早く鉄橋化されたものと思われる。
大正15年に第一次都市計画事業によって完成した橋は、中央部がスパン27.0mの鋼アーチよりなり、両側に橋台兼用のコンクリートアーチがあった。意匠の様式はスパニッシュルネッサンス式と呼ばれ、河川上の橋脚の位置に豪華な飾塔を立て、非常に華やかで、かつ重厚な作りの橋であった。
この橋も戦後になって四ツ橋線の地下鉄3号線を通す工事に伴って架け替えられた。円盤状の支柱をもつユニークな高欄をもっていたが、平成6年に橋面と高欄部の改装が行われ、より華やかなデザインのものになった。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:45:40
「渡辺」は渡しのほとりを意味し、大阪の古地形から上町台地の北端部あたりを指したものと考えられる。平安時代にはこの水陸の結節点に勢力を張った渡辺党という武士団があった。そのころから渡辺橋の名は断片的に見られるが、その実態はさだかでない。また『太平記』には南北朝時代に楠公父子が渡辺の橋をはさんで幕府軍と戦った記述がある。
江戸時代になり、堂島開発にともなって渡辺橋はほぼ現在の位置に架けられた。江戸期には大江橋と渡辺橋の間の堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよいほどの盛況であった。
渡辺橋は、明治18年の洪水で流されたが、直後にイギリスから輸入された鉄製のラチスガーダーにより復旧された。この橋がいち早く鉄橋化されたのはこの橋筋が大阪駅へ通じる重要路線であったためと思われる。
その後、市電事業で架け替えられ、次いで昭和2年には第一次都市計画事業によって架け替えられた。この橋の本体は2ヒンジ鋼アーチ橋で、ネオルネッサンス様式の意匠が施された華麗な橋であった。橋面だけでなく、下を行く船からの美観も重要視されていたことは注目される。戦後、地盤沈下による高潮対策事業と地下鉄建設のため、現在の橋に架け替えられた。また平成3年には歩道部が改装され、ライトチューブを入れたステンレス製の高欄や現代的な親柱などの意匠が採用されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:47:25
渡辺橋・肥後橋は江戸期、明治期を通じて大名蔵屋敷や米市場とともに中之島や堂島地区の繁栄を支えてきた。
渡辺橋の名前の由来は、現在の天満・天神橋付近の上町台地北端部あたりの渡辺の津と呼ばれていた地名のようである。
肥後橋は、橋の北詰の中之島に肥後・熊本藩の蔵屋敷があり、明暦3年(1657)の「新板大坂之図」には、肥後殿橋と書かれており、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。
明治18年の大洪水によってこれまでの木橋が流され、明治21年に両橋ともイギリスから輸入した鉄橋に架け替えられた。
その後、渡辺橋・肥後橋は市電の第2期線建設(明治41年)にともなって架け替えられ、明治以降4代目の橋は第一次都市計画事業(昭和初期)によって架 けられた優美なアーチ橋であった。現在の橋は昭和41年に高潮対策事業と地下鉄建設に合わせて架け替えられた。
この碑の隣にある親柱は、昭和41年に架け替えられた時のものである。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:55:58
1784年(天明4年)に、葭屋庄七らによって開発された蟹島遊廓への通路として設けられたものであり、橋も同時期に架橋されたと考えられている。葭屋橋付近の大川・東横堀の水の流れは複雑であり、通船数も多かったため、船が橋脚へ衝突する事故が多発していたと伝わる。その上、洪水の被害も頻繁に受けていたことから、架け換え時には様々な工夫が施され、1804年(文化元年)に架け替えられたときは錦帯橋を模して途中に橋脚を設けない構造とし、さらに明治初期に架け替えられた際には、当時としては珍しい斜張橋の構造が採用された。
現在の規模に近い状態になったのは、明治末期の大阪市電敷設事業によってである。1910年(明治43年)7月に近代橋への架け替えが完成し、市電は10月に開通している。現在の橋は1966年(昭和41年)に架け替えられている。今橋と左岸東詰でV字型に架かっている形になっているが、元は別々に架かっていた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2020/05/09 09:56:37
東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられた葭屋橋は、俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられたものである。この遊廓は天明4年 (1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋も天明年間に架設されたと考えられる。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建てられ発展した。
葭屋橋の架橋地点は通船の数が多いうえに、水流が複雑であるため、橋脚へ船が衝突する事故が多かったようである。また、大川の洪水時に、度々被害を受けたことから、架け替えにあたっては種々の技術的な工夫がなされた。明治初年に架けられた葭屋橋は当時としては大変珍しい斜張橋の原理を用いたもので、大変評判になったようである。
葭屋橋の通り(府道石切大阪線)が現在のように広くなったのは市電事業によってである。北浜の交差点から天満橋の南詰までの市電は明治44年10月に開通しているが、橋はその直前の7月に完成した。一方、蟹島と呼ばれた料理屋街は道によってへだてられた形となり、しだいにさびれていった。なお現在の橋は昭和41年に架け替えられたもので、2径間の合成桁が採用されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:57:20
大阪の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えられる。
江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大阪の金融の中心地であった。また北浜には寛保3年(1743)金相場会所が設けられ、明治11年(1878)証券取引所が設立されるまで、金銀銅三貨の取引がこの地で行われた。 元禄の頃の資料に、橋長75.8m、幅員5.5mと記されており、町橋としては規模の大きなものであった。橋のたもとから尼崎方面への乗合船が出ていたとの記録もある。
今橋は大正13年に近代橋になったが、戦後、東横堀川に沿って阪神高速道路が建設されたときに若干の改造が加えられた。その後老朽化が進んだため、現在の橋に架け替えられている。
大阪市HP転記
2020/05/09 09:59:34
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。
江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。
明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。
明治3年(1870)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
大阪市HP転記
2020/05/09 10:05:15
江戸時代の平野橋界隈は、東に神明神社、西に御霊神社があり、その門前の盛り場として賑わっていた。定期的に開かれる夜店は当時の大阪名物のひとつとされていた。平野町の名前の由来は定かではないが、御霊神社の祭神、早良(さわら)親王が京都の平野神社に祀られていたことからこの界隈が平野とよばれるようになったとされている。
『地方役手鑑』などの資料によると平野橋は橋長61.8メートル、幅員4.1メートルとなっており、明治31年(1898)の架け替え時の資料にもほぼ同規模の橋であったとの記録が残されている。
現在の平野橋は昭和10年につくられたもので、逆ランガー桁とよばれる珍しい形式で、この形式の適用は世界で初めてであるといわれた。アーチ部材が細くスマートな印象を与える橋である。令和元年度に土木学会の選奨土木遺産に認定されている。
大阪市HP転記
2020/05/09 10:09:52
本町橋は現役の橋としては、大阪市内最古の橋である。
豊臣秀吉が大阪城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられている。江戸時代には公儀橋の一つとして幕府が直轄管理する橋であった。
橋の東側は商業地となり、今のシティプラザ大阪の前には石畳が敷かれ荷揚場になっていた。また橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地ともなった。天明7年(1787)の調査によれば、橋長約54m、幅員5.9mの木橋であったとされている。
現在の橋は、本町通が市電道路として拡幅された大正2年(1913)5月に架け替えられたもので、3連の鋼アーチが、ルネサンス風のデザインをもつ石造りの橋脚に支えられた重厚な構造の橋となっている。
大阪市HP転記
2020/05/09 10:52:46
木津川に架かる橋である。
前にも紹介した橋ですが、この橋が一番大阪らしい橋では無いか?と個人的に考えている。
江戸期に人工島であった大正区(当時は恩加島新田)が維新後から工業地帯へと変貌を遂げた、
戦後さらに重厚長大産業が大正区に沢山できて橋を架けないと行けなくなった、当時(計画は昭和30年代でしょう)は木津川に大きな船が出入りしていて(木津川は江戸期には大型帆船「和船」の日本一の集散港であった)高さを稼ぐ必要に迫られて橋下33メータを確保するために変わった構造の橋を造ったが、陸路が発達して大きな船が木津川を通過することは今は無い。
無駄に高い橋の下を渡船が走っている、木津川沿いには古い造船所があり、昔の大坂の殷賑ぶりを空想しながら渡船に乗って潮風に吹かれて帰宅した。