播磨の國の石棺仏を訪ねる。その2

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現在の軌跡: 06 06 2020 06:58

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/06/06 06:58:56終了日時2020/06/06 11:37:11
水平距離61.19km沿面距離61.24km
経過時間4時間38分15秒移動時間3時間42分45秒
全体平均速度13.21km/h移動平均速度16.41km/h
最高速度44.96km/h昇降量合計697m
総上昇量346m総下降量351m
最高高度53m最低高度9m

レポート概要

播磨の國の石棺仏を訪ねる。の後編扱いで播磨地方の主に南部(加古川姫路)の石棺仏をポタってみた。

素朴な石仏に魅力をかんじているのですが、なぜ鎌倉時代~室町時代を中心として古墳の石室の石を利用して石仏を造ったのでしょうか?
鎌倉時代は所謂庶民の宗教とも言える浄土宗/日蓮宗/時宗などが発生した時代でありますが、これは人口増加と密接な関係があると感じております。

社会工学研究所の調べでは  900年代に5,999,900人あった人口が1300年代には8,180,000人に増加しています、当時は現在のように海に近しい場所を埋め立てて利用すような技術力は無かったわけで、大体が山間部の水利の良い場所や盆地帯で暮らしていたでしょう。

9世紀~10世紀ころの日本では、田んぼを開発したくても、当時の道具で開発できる範囲はほぼ開発しつくしていたのではないでしょうか?

それを根本的に変えるのは鉄器の普及があったからではないでしょうか?10世紀頃には製鉄の炉が大型化して鉄の生産量が上がり8世紀頃には一部の貴族階級にしか入手できなかった鉄が割合に(貴重品ではあったでしょうが)入手しやすくなって事でしょう。

鉄の利用方法は武器のみではなく、ほぼ農具での利用であったでしょう、木製や青銅製の農具の何倍もの速度で土を起こし溝川を開削して行けた事でしょうし、その結果人口が増えて村を分村していったのでしょう。

家の次男坊や三男坊を新たな開発地へ送ります、まずは元の村にあった神さん(神社)を分霊して持って行きました、新たな鉄の農具で山の細流を引いてきて新たな田んぼを開発して行きました、小高い丘を切り崩して行くと石組が現れ石棺が出てきます。

恐る恐る蓋を開けると、しゃれこうべの一つも出てきて、(ひぇー)ともなったでしょう、しかしながら「喰ってゆく」事には抗えず一つ二つと墳丘は破壊されていったのでしょう、玄室の大きな石は樋を造るのに便利であったし、割って棚田の土留に最適であったでしょう。

しかしながら、髑髏の面影が残り夢見が悪くなるので、時々村へ来る遊行僧等に相談すると、「それでは遺体を包んでいた石棺に仏を刻んで供養しよう・・」と云うような事になっていったのでは無いかな??

しからば石棺仏は当時の官製宗教や貴族による私的宗教とは異なり、いわゆる庶民(開発農耕者)の生活と密着した存在であり、生活に根ざした信仰の対象となっていたようだ、これは現在でも続いていて何かの宗教法人が管理しているわけではなく、村のあるいは地域の有志(講とも云う)が持ち回りで世話をしていて、その他の無縁仏や地蔵さんや五輪塔などと一緒に祀られていて、地蔵盆の季節になると近所のガキんちょと共に飾りつけをして供養をしている事が多く散見される。

石棺仏を始め石仏や地蔵尊は権力や為政者とは無縁の純粋な今に生きる信仰対象である。

てなことで、非常に魅了的な石棺仏を巡ってみた。



ウィキペディア(Wikipedia)↓

石棺仏のほとんどは近畿地方に分布し、その9割以上は兵庫県播磨地方、なかでも加古川流域を中心に加西市、加古川市と、その周辺都市に集中している。[1] しかし藤原時代等の古いものは大阪や奈良に散見することができる。
刻まれた仏像のほとんどが阿弥陀如来と地蔵菩薩であることから、浄土宗や浄土真宗の造形であることがわかる。主に阿弥陀如来は来世を、地蔵菩薩は現世を祈念している。
播磨地方の石棺仏の多くが、鎌倉時代、室町時代のもので、播磨地方の、浄土真宗の広がりと供に、民衆が、新田開発や盗掘、自然災害等で出土した石棺を信仰の対象や墓碑としたものである。
また厳密には石棺仏とは呼ばないが、石棺の蓋などを何も彫らずに立てかけて信仰の対象にしている場合もあり、石棺仏とは、石棺材に特別な霊力を認めての造形であろうと考えられる。[2]
これらは、日本の古墳時代と中世の、二つの息吹を同時に感じることができる、貴重な石造遺産である。

写真レポート

石宝殿

2020/06/06 07:17:23

石宝殿

兵庫県高砂市の採石場の中に、生石(おうしこ)神社という、巨石を御神体とする神社があります。

重量が500トンもあろうかといわれるこの巨大な石造物は、切り出して加工しもたのではなく
岩山を直に彫ったもので、三方は削られた元の岩山によって囲まれた形になっています。

生石神社の創建は12世紀。この石が作られたのは7世紀ごろと言われている。
制作に従事した石工には、これを遠くに運搬することが不可能なことは分かっていました。

此処には古くから石工集団が住んでいてその技術力を魅せたのでしょう、その集団と播磨地方に集中する石棺仏には関係があるだろう。



生石神社

2020/06/06 07:19:32

生石神社

生石神社周辺の竜山地区は今も現役の採石場だ。ここで産する竜山石は古来、石棺以外に礎石や石垣、石仏や石塔など建築や造園に幅広く使われてきた。

採石場跡は全山に及び、160カ所を超える。このうち江戸時代以前の31カ所が「採石技術や石の流通の変遷を知るうえで重要」として10月、石の宝殿や生石神社などとともに国史跡に指定された。

竜山石の使用例は、王墓を始めとして、岡山市北浦の八幡(やはた)大塚2号墳の組合せ式家形石棺、奈良県桜井市の艸墓(くさはか)古墳の刳抜き式家形石棺、奈良県広陵町の牧野古墳の組合せ式家形石棺、大阪府茨木市の耳原古墳の刳抜き式家形石棺と組合せ式家形石棺など非常にたくさんあります。



福円寺不動三尊石棺仏

2020/06/06 07:50:34

福円寺不動三尊石棺仏

福円寺不動三尊石棺仏 (室町時代、凝灰岩、高さ 159Cm 幅 83Cm 不動 像高 99Cm)

組合せ式石棺の底石をを利用して作られていると云われる。



真禅寺の石棺仏

2020/06/06 08:22:06

真禅寺の石棺仏

像の左右に「文永二年乙丑」「十一月十日」の銘があって、在銘石棺仏としては最古だそうです。

大阪府柏原市山ノ井町の瑠璃光寺石棺仏に良く似ておりそれを真似たものだといわれているようです。



真禅寺墓地の石棺仏

2020/06/06 08:23:12

真禅寺墓地の石棺仏

真禅寺境内の西側の墓地の真ん中に立っている。高さ130cm、幅74cmの家型石棺の蓋に、阿弥陀如来座像を薄肉彫りする。著しく抽象化された表現の阿弥陀石棺仏で「室町時代」の石棺仏の典型である。衣紋は等高線のような平行線の表現で、蓮台も幾何学的な模様である。

北条の五百羅漢に似ている。



大国墓地石棺仏

2020/06/06 08:51:07

大国墓地石棺仏

154cm×83cm×25.5cm。室町時代後期。駐車場と墓地の境界にぽつねんと佇んでいる。




那須与一の石仏

2020/06/06 08:58:34

那須与一の石仏

昔、須磨にある那須与一の墓に毎月7日、熱心にお参りしていた播磨のある人の夢枕に那須与一が現れ「汝、我を信じて遠い所からこの地に参詣してくれているが、我が病気に掛かっていたおり、播磨国神吉ノ庄、高野山(たかのさん)慶妙寺に参籠していたが遂に落命せり、現在、神吉村の西にある釈迦堂という所で火葬されたが、そこに有る半折れの石仏は我の像なり、これによりはそこに参詣すべし。」とのお告げがあった。


翌日、その場所を訪ねてみたところ、夢のとおり半折れの石仏があったので大喜びしたそうです。遠近の者はそのことを伝え聞き、毎月7日には多くの人々がこの石物にお参りするようになったとのことです。

この石仏にお参りすると、「長患いしなくてもすむ」といわれており、今も毎月7日には、多くの人々が参詣でに訪れます。


平成26年3月吉日 神吉町町内会 掲示板転記



那須与一の石仏

2020/06/06 08:59:15

那須与一の石仏

壇の上にまつっている石仏は、那須与一の石仏として信仰されています。
那須与一は源義経に従い屋島の合戦で平家の扇の的を弓で射落とした話で有名な武将です。
中央の石仏は、家形石棺の蓋に地蔵菩薩坐像が彫られています。
また、半分に折れた石仏は、石棺の身に地蔵菩薩立像を彫ったもので、こちらが「那須与一さん」と呼ばれたそうです。
信仰すると長患いせずに済むといわれます、銘がないのでいつ作られたのはっきりしませんが、室町中期以前に造られた物とかんがえられています。

加古川文化財保護協会



宮前の石棺仏

2020/06/06 09:04:37

宮前の石棺仏



宮前の石棺仏

2020/06/06 09:04:37

宮前の石棺仏

神吉町宮前の真福寺の北東隅、宮前の公会堂との境に、組合せ石棺の底石と並んで阿弥陀座石棺仏が立てられている。

 石棺材を立てて信仰の対象にするのは他にも見られ、平荘町里の観音堂にも2基、立てられている。そのことからも石棺仏は石棺を単に石材として利用したものではなく、石棺材そのものに対する信仰とつながっていると考えられる。



皿池の二尊石仏

2020/06/06 09:15:50

皿池の二尊石仏

「石棺の上半に高さ30cmの阿弥陀仏と地蔵菩薩の坐像を彫こんでいます。

石棺は高さ(地上部分)80cm、下部99cm、上部の幅67cmです。

室町時代前期に彫られたものと考えられ、均整がとれて気品のある石仏としては志方随一といわれています。

    平成13年3月 加古川市教育委員会」



皿池の二尊石仏

2020/06/06 09:17:06

皿池の二尊石仏

皿池とよばれる溜池は加古川市に3ヶ所にある。この二尊石仏は志方小学校の南西の県道65号線と515号線の交わる交差点の北西にある皿池の西北隅の空き地にある。
 高さ80cm、幅93cmの石棺の一部と思われる石材に像高30cmほどの阿弥陀と地蔵を彫ったものである。阿弥陀は線彫りの蓮華座上に二重光背の彫りくぼめた中に定印の阿弥陀座像を薄肉彫りし、地蔵菩薩は同じく線彫りの蓮華座上に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵座像を薄肉彫りしている。形式化の進む室町期の石仏であるが、地蔵は上品な尼僧のような雰囲気である。



堂山六地蔵石棺仏

2020/06/06 09:31:36

堂山六地蔵石棺仏

この石棺仏は、上下二段に深く彫られた六つの舟形光背の中に六地蔵が浮き彫りになっています。
素朴、稚拙であるが、良く保存され、運台や胸のあたりの線が美しい。
左下に一女人の像が刻まれているが、石仏の施主でしょう。
室町時代の後期のものでしょう。

加古川市教育委員会



堂山六地蔵石棺仏

2020/06/06 09:32:19

堂山六地蔵石棺仏



小畑の八ツ仏(やつぶつ)

2020/06/06 09:37:06

小畑の八ツ仏(やつぶつ)

関連リンク

「八ツ仏」と呼ばれている石棺石仏です。平荘町小畑の小塩池の西の里道に立ち、凝灰岩製の家形石棺の蓋石の内側に8体の仏像などを薄肉彫りしています。
石棺は、家形石棺の蓋石で、蓋石の内側と縁部分に合わせて8体の尊像を彫り出しています。いずれも舟形の輪郭を彫りくぼめた中に薄肉彫りしており、半月形の蓮華座の上に座る像高17.6センチメートルから25.7センチメートルまでの坐像が配されています。内側上段の2体及び縁部の4体は定印の阿弥陀如来坐像、内側下段の向かって右の像は捧珠持錫像の地蔵菩薩坐像と考えられ、向かって左の像は胸前に両手を合わせる或いは両手で鉢を持つように見える坐像で尊名は不詳です。
鎌倉時代の石仏と比べると、表現に形式化が進みかけているものの、近接する長楽寺墓地に立つ「六尊石仏(加古川市指定文化財)」とともに、南北朝時代の大形で迫力のある石棺仏として、注目されてきたものです。
石棺材に複数の仏像を彫り出したこのような形式の石仏は、加古川地域の特色を示すものです。
加古川市HP転記



小畑の八ツ仏(やつぶつ)

2020/06/06 09:37:06

小畑の八ツ仏(やつぶつ)



長楽寺石棺仏

2020/06/06 09:43:59

長楽寺石棺仏



長楽寺石棺仏

2020/06/06 09:44:42

長楽寺石棺仏

関連リンク

加古川市の石棺仏の特色の一つは像自体は小ぶりで、多尊石仏が多いことである。その多尊石棺仏の代表といえるのが「八つ仏」とこの長楽寺石棺仏である。

 高さ185cm、幅118cmの縄掛突起つき家形石棺蓋石の内側に舟形の彫りくぼみを6つつくりそこに像高22cm~30cmの阿弥陀如来と地蔵菩薩を薄肉彫りする。上の2体が阿弥陀如来で、蓮弁を彫っていないお椀のような蓮華座に座っている。後の4体は地蔵菩薩と思われる。3体は立像で中央の向かって右の像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。他の2体は合掌しているように見える。印相や持ち物はわかりにくいが、向かって左下は地蔵座像であると思われる。

 他の加古川地方の石棺仏と同じように写実性に欠ける形式的な表現の石棺仏であるが、石棺の合わせ目部分を額縁のようにして、中に6体の半薄肉彫りすることにより、大型の縄掛突起つき家形石棺そのものの迫力を充分に生かしている。加古川の石棺仏を代表する一基といえる。
加古川市HP転記



神木阿弥陀石棺仏

2020/06/06 09:54:43

神木阿弥陀石棺仏

大型の家型石棺の蓋石内側に簡略ながら力強い定印阿弥陀坐像が蓮弁上にに座していて、地元では「神木の大日さん」の名で親しまれている様です。

高さ177cm、幅1m、厚さ28cmの大きな石材に単純な二重光背を彫りくぼめ明快な像高52cmの中肉彫り阿弥陀如来坐像を刻み出している。



神木阿弥陀石棺仏

2020/06/06 09:55:26

神木阿弥陀石棺仏

此処は神木構居と云われる館跡らしい。

歴史は嘉吉元年(1441年)頃の城主は赤松満祐の家臣竹中弥五郎であったと伝えられる。 天正年間(1573年~1592年)には志方城主櫛橋氏の家臣高橋平左衛門が城主で、天正6年(1578年)には別所氏と行動を共にして三木城に籠城している。




報恩寺石棺仏

2020/06/06 10:06:19

報恩寺石棺仏



報恩寺石棺仏

2020/06/06 10:06:19

報恩寺石棺仏

関連リンク

この石仏は、報恩寺本堂の背後の墓地に西面して立ち、古墳時代の石棺材に、横に並んだ4体の弥陀如来坐像を舟形の輪郭の中に半肉彫りした石仏です。弥陀如来坐像の像高は18.8cmです。
 石棺は組合せ式石棺の長側石で、背面に短側石を嵌め込むための溝の加工痕があります。
 この石仏には銘文があり、向かって右から第二尊と第三尊の間に「文和二季」、また、第三尊と第四尊の間に「二月」の文字が陰刻されています。
 5-6世紀頃の古墳時代の石棺材に、14世紀の南北朝時代に複数の仏像を彫り出したもので、加古川地域の石仏の特色をよく示しています。制作年代が明らかなもので、この地域の中世の石仏を考える上で基準となる貴重なものです。
加古川市HP



見登呂姫の石仏

2020/06/06 10:21:31

見登呂姫の石仏

加古川に架かる、上荘橋を渡り、「見土呂フルーツパーク」へ行く細い道の途中にある、少しへこんだところに「美登呂姫の石仏」の立て札が、そこを進むと小さなお堂ですが、きれいに清掃されている見土呂大師堂があります。大師堂の右側には、見登呂姫の石仏があります。
阿弥陀三尊石棺仏(高さ 174Cm 幅 125Cm 厚さ 25Cm)



見登呂姫の石仏

2020/06/06 10:21:31

見登呂姫の石仏

仏の由来は、室町時代のはじめ、当地の井口城が赤松則村の砦として築かれました。 井口城には美しく心やさしい美登呂姫がおられました。家来の一青年が 美登呂姫を見入り機会をみて近寄ろうとしていました。ある年の"月見の祝" の席で姫に近寄ることができた青年は、姫への思いを打ち明けましたが、 姫は青年の申し出を拒みました。腹の立った青年は姫を切り殺し、 裏山に埋めてしまいました。村の人々はとても残念がり、石仏を作ってまつりました。 見土呂の地名は美登呂姫からきているといわれています。

現地掲示板



成福寺墓地の石棺仏

2020/06/06 10:33:13

成福寺墓地の石棺仏

石棺は成福寺の南側にある墓地の中にあります。



成福寺墓地の石棺仏

2020/06/06 10:33:13

成福寺墓地の石棺仏

向かって左側は、高さ85cm、幅46cmの組合せ式石棺の側石に像高44cmの地蔵立像を薄肉彫りしている。地蔵寺地蔵石棺仏と同じ延命地蔵で、右手に錫杖を左手に宝珠持つ。蛇腹模様の衣紋やにぎやかな装飾的な蓮華座などは滋賀県の永正16(1519)の刻銘がある菩提禅寺地蔵石仏によく似ていて室町時代後期の作と思われる。
 向かって右側は、高さ91cm、幅66cmの家形石棺に像高27cmの地蔵立像を薄肉彫りしたもので、左側の地蔵石棺仏に比べると頭が大きく稚拙な表現で時代は下ると思われる。



堂田の石棺仏

2020/06/06 10:53:07

堂田の石棺仏

神野町石守の皿池の北の田の中に3体の石仏が祀られている。そのうちの1体がこの石棺仏である。高さ122cm、幅100cmの家形石棺の蓋石と思われる石材に像高60cmの阿弥陀座像を浮き彫りにしている。

他の2体は、「たごりの地蔵」「こぼれ地蔵」とよばれる南北朝と室町時代の地蔵石仏である。



堂田の石棺仏

2020/06/06 10:53:07

堂田の石棺仏



西之山弥陀石棺仏

2020/06/06 11:06:44

西之山弥陀石棺仏

加古川市神野町西之山の公会堂の裏にあります。家形石棺の蓋石を縦割りし、上部をそのまま庇に残した上で、くり込み部に弥陀座像を厚肉彫りしています。
堀も深く目鼻立ちもはっきり残っています。
166cm×48cm×32cmの大きさで、南北朝か室町時代初期のものと思われます。



西之山墓地の石棺仏

2020/06/06 11:09:13

西之山墓地の石棺仏

加古川市神野町西之山の共同墓地の入口に二体の石棺仏が並んで立てられています。ともに組合せ式石棺の側石を使用していて、左側は116cm×66cm×10.5cmの石材に一体の地蔵立像と三体の弥陀座像を薄肉彫りしています。右側は130cm×67cm×20cmの石材に二体の弥陀座像を浮彫しています。どちらも作風が似ており、周辺の石棺仏とも共通する様式であり、南北朝時代の作と思われます。



西之山墓地の石棺仏

2020/06/06 11:09:13

西之山墓地の石棺仏



地蔵寺の石棺仏

2020/06/06 11:17:54

地蔵寺の石棺仏

山門をくぐったすぐ左側に石棺仏二基が立っている。
 
 向かって右は、組合式石棺の側石(高さ148cm、幅62cm)を利用したもので、上部に二重光背を彫りくぼめ、右手に錫杖を左手に宝珠もつ延命地蔵立像を薄肉彫りしている。背面には胎蔵界大日如来の種子「アーンク」を薬研彫りしていて、種子の下に弘安四(1281)年四月廿日の銘を刻む。地蔵立像は石棺材を使った板碑の裏に後年彫られたものである。播磨の石棺仏としては珍しい二重光背であることから考えて種子が彫られてからあまり隔てていない鎌倉後期の作と考えられる。
 左の石棺仏は家形石棺蓋石(高さ135cm、幅102cm)を利用したもので、三体づつ2段に地蔵菩薩を半肉彫りしている。その下に男女の供養座像が彫られている。右の地蔵立像石棺仏とよく似た作風や二重光背から、地蔵立像石棺仏と同じ頃の造立と考えられる。



地蔵寺の石棺仏

2020/06/06 11:17:54

地蔵寺の石棺仏



2020/06/06 06:58:56

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