大阪の戦争遺産をポタってみる。

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Morning Ride

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/06/27 06:19:49終了日時2020/06/27 11:23:40
水平距離63.13km沿面距離63.31km
経過時間5時間03分51秒移動時間3時間56分03秒
全体平均速度12.50km/h移動平均速度15.98km/h
最高速度42.30km/h昇降量合計583m
総上昇量304m総下降量279m
最高高度34m最低高度-16m

写真レポート

加賀谷家防空壕

2020/06/27 06:26:19

加賀谷家防空壕

この防空壕は、周辺の方々も含めて避難できるように加賀谷さんが昭和20年8月14日に完成させた防空壕です。終戦の前日に完成したため、実際に使用されたことはないそうです。

鉄筋コンクリートの頑丈な防空壕。全体で60平方mの広さで、地下住居として生活できるように造られた。現在は物置に使用され、外側は見ることができる。



加賀谷家防空壕

2020/06/27 06:26:46

加賀谷家防空壕

横に窓があって中はかなりの空間になっていることが伺える。



大正区への訪問は渡船が一番。

2020/06/27 06:47:47

大正区への訪問は渡船が一番。

周囲を水に囲まれた大正区は大正初期まで大部分がのどかな農村地帯でした。
 陸路の交通機関の発達は遅く水路を行き来する小船と、木津川や尻無川の渡しが重要な交通機関でした。
 水都大阪には多数の河川があり、人々の通行のための渡船は江戸時代から始まり渡船業は代々家業として受け継がれて来ましたが明治24年に府が「渡船営業規則」を定め監督、取締りを行なうようになりました。
 明治40年に安治川、尻無川など29の渡船場を市営事業として市が管理することになりました。
 大正9年、旧道路法の施工により渡船は無料となり、それまでの請負制から昭和7年、市の直営方式に改められ現在に至っています。
 昭和10年には31箇所あった渡船場が橋梁の架設や道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災のためその多くが廃止されました。
 昭和23年15箇所で再開されましたが、その後都市整備が進み自動車の利用増加によって、12箇所となりました。利用者の減少により、大阪市内の渡船は現在ベイエリアを中心に8箇所となっています。その内の7箇所が大正区にあり(1箇所は天保山渡船=港区)区民の生活に欠かせない交通手段のひとつとして今なお親しまれ、日々利用されています。
 自動車の利用が多くなった現在も生活の足になり動く橋として利用するかたわら近代都市の風物詩となっています。
大正区HP転記



千本松渡船

2020/06/27 06:49:09

千本松渡船

大正時代の中頃に設けられた渡船場のひとつで、大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目間を運航している。江戸時代、木津川の川尻に近いこの付近は、北前船などの出入りが激しく、幕府は舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤としても役立つよう天保3年(1832)、ここに長さ1.58kmにおよぶ石の堤を築き、その上に松並木を植えたことから千本松の名がついた。「摂津名所図会大成」にも関連記述が見つかっているそうだ。昭和48年(1973)、千本松大橋が完成したことを受けて渡し船の廃止論が出たものの、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の人に利用されている。定員は約45人。自転車込みだと20人ほどで、運賃は無料。



海軍艦政本部 大阪倉庫

2020/06/27 07:00:03

海軍艦政本部 大阪倉庫

海軍艦政本部は海軍省の外局で艦船、兵器の計画、審査、造修保有、海軍工作庁、工場の設備の計画、審査並びに造船科、造機科、造兵科士官の教育及び本務に関する事項等を管掌し、海軍技術研究所、海軍火薬廠を管下に持ちました。


現在は閉鎖されていますが、正門が当時のまま残っている。



高射第三師團 尼崎高射砲陣地

2020/06/27 08:04:18

高射第三師團 尼崎高射砲陣地

兵庫県尼崎市役所に隣接する東七松町(橘公園)と七松町に高射砲陣地がありました。




高射第三師團 尼崎高射砲陣地

2020/06/27 08:06:41

高射第三師團 尼崎高射砲陣地

上部に巨大なライオンの像が建てられており、頂部はコンクリートで塗り固められてしまっています。



西淡路高射砲陣地

2020/06/27 09:15:18

西淡路高射砲陣地

大阪市東淀川区西淡路に國次高射砲陣地がありました。
当高射砲陣地は全国的に見ても珍しい高架式砲座、及び指揮所が完存していました。

高射砲第百二十二聯隊 國次高射砲陣地が正式名称ですが、令和2年6月27日の訪問日には取り壊されて跡地が整地されていました唯一指揮所だけが残っていましたが、取り壊しが決まっている。



西淡路高射砲陣地

2020/06/27 13:21:02

西淡路高射砲陣地

在りし日の高射砲陣地



西淡路高射砲陣地 指揮所

2020/06/27 09:17:05

西淡路高射砲陣地 指揮所

家になっている指揮所のみが遺されていますが裁判所の裁定による私有物の撤去許可が降り次第破壊される予定だそうです。



大阪陸軍造兵廠 化学試験場 

2020/06/27 10:00:11

大阪陸軍造兵廠 化学試験場 

京橋口前筋鉄門が表門に指定された際に守衛舎として建設され、その後、守衛所は表門を入った左側に新築されたため、当建物は便所として使用されたそうです。

戦後は公園管理局の倉庫として使用されていましたが、今では放置され朽ち果てそうです。



大阪陸軍造兵廠 化学試験場

2020/06/27 10:01:17

大阪陸軍造兵廠 化学試験場

大阪造兵司発足当初は製砲所内に分析場を開設し砲熕の金質の分析していましたが、時代が進むにつれて色んな事を分析していた。



大阪陸軍造兵廠 化学試験場

2020/06/27 10:02:00

大阪陸軍造兵廠 化学試験場

昭和39(1964)年4月、自衛隊大阪地方連絡部が大阪防衛施設局内(旧大阪聯隊區司令部)から移転、平成6年(1994)1月まで使用されていた。



大阪陸軍造兵廠 化学試験場

2020/06/27 10:03:01

大阪陸軍造兵廠 化学試験場

現在では蔦が絡まり朽ちて行くばかり。



山里丸石垣の機銃掃射痕

2020/06/27 10:12:41

山里丸石垣の機銃掃射痕

天守閣北側にある山里曲輪石垣には、機銃掃射によってつけられたと思われる弾痕がたくさん残っている。その大きさは、直系30センチくらいのものもあり、その恐ろしさを形で伝えている。山里丸から本丸に続く桝形石垣には爆弾の炸裂により生じた弾片跡が残ります。



山里丸石垣の機銃掃射痕

2020/06/27 10:12:57

山里丸石垣の機銃掃射痕

石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。

昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。

山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

掲示板



大阪陸軍造兵廠跡

2020/06/27 10:21:32

大阪陸軍造兵廠跡

現在の大阪城公園、大阪ビジネスパーク、UR森之宮団地一帯は、戦時中まで大阪陸軍造兵廠でした。
このあたりには巨大な兵器工場が建ち並び、大勢の人が働いていましたが、終戦前日の昭和20年(1945年)8月14日の空襲で、完全に破壊されてしまいました。
 その後、この一帯には多くの住宅や施設が建ち、当時の面影を知るよしもありません。



歩兵第八聯隊兵営の南門

2020/06/27 10:31:42

歩兵第八聯隊兵営の南門

関連リンク

今では貴重な戦時中のコンクリー製の衛門と敷石が残る。

大阪城周辺は明治維新の功労者で軍事の天才であった大村益次郎の提言で軍事関係の諸施設が集められた。



真田山陸軍墓地  境界石標

2020/06/27 10:36:56

真田山陸軍墓地  境界石標

しっかり 陸軍省 と刻まれてある。



真田山陸軍墓地 

2020/06/27 10:37:32

真田山陸軍墓地 

明治4(1871)年4月10日、我が国初の(兵隊)埋葬地として開設されて以来、大東亜戦争停戦による荒廃を経て現在も良好な状態で保存されています。

ここはなんと見言えない空気感があっ襟を正してしまうような気持になる、砂岩製の墓石にには〇〇岩夫
大阪府河内郡狭山村 
明治〇〇年蔚山にて戦士

などと刻まれていて、死者が語りかけるような感覚が伴う。
戦争はしてはいけないが、その戦死者をないがしろにするような社会にしてはいけないだろう。




旧騎兵第四聯隊 標柱

2020/06/27 10:42:24

旧騎兵第四聯隊 標柱

陸軍省所轄地と刻まれた標柱。



旧騎兵第四聯隊 忠魂碑

2020/06/27 10:42:31

旧騎兵第四聯隊 忠魂碑

昭和8(1933)年11月、騎兵第四聯隊兵営の一角に聯隊将卒により建立され、現在は大阪騎兵会が維持して近所の三光神社が供養している旨を石碑に刻む。

住之江の護国神社に騎兵第4聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰がある。

今は騎兵連帯を持つ国は少なくなっているが、戦後の日本に於いては自衛隊の機甲科がそれにあたるのだろう。