滋賀 近江八景 をライドってみた。

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現在の軌跡: 01 08 2020 07:05

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/08/01 07:05:35終了日時2020/08/01 12:42:57
水平距離86.96km沿面距離86.99km
経過時間5時間37分22秒移動時間4時間34分00秒
全体平均速度15.47km/h移動平均速度18.98km/h
最高速度35.10km/h昇降量合計486m
総上昇量242m総下降量244m
最高高度119m最低高度92m

レポート概要

近江八景は、誰がいつ選定したかについて従来から諸説あります。2012年9月24日の京都新聞の記事によると「寛永の三筆」の公卿近衛信尹(1565~1614年)が琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み選んだ事が分る史料を京大の研究者が見つけたとあります。(これ迄は、室町時代に関白近衛政家が選んだと辞典に紹介されています。)近江八景の選定が確証出来るのは江戸時代初期の事で、かつて大津市の円満院に伝来していた当時著名な文化人の公卿:近衛信尹筆の自画賛で近江八景を水墨画で描き、それぞれに次のような歌が添えられています。

石山秋月: 石山や 鳰の海てる月かげは 明石も須磨も ほかならぬ哉

勢田夕照: 露時雨 もる山遠く過ぎつつ 夕日のわたる 勢田の長橋

粟津晴嵐: 雲はらふ 嵐につれて 百船も千船も 浪の粟津に寄する

矢橋帰帆: 真帆ひきて 八(矢)橋に帰える船は 打出の浜を あとの追風

三井晩鐘: 思うその あかつきちぎるはじめぞと まず聞く三井の 入あいの声

唐崎夜雨: 夜の雨に 音をゆづりて夕風を よそにそだてる 唐崎の松

堅田落雁: 峰あまた 越えて越路にまづ近き 堅田になびき 落る雁かね

比良暮雪: 雪晴るる 比良の高嶺の夕暮れは 花の盛りに すぐる春かな

近江八景は、名勝の場所を石山寺・瀬田の唐橋・粟津ケ原・矢橋・三井寺・唐崎神社・浮御堂・比良山系と特定したところが特徴です。選定されて以降、近江の風光をこよなく愛し何度も訪ね・居も構えた松尾芭蕉をはじめ、多くの人々に親しまれてきました。また、江戸時代中期以降は、日本の代表的な名所の典型と意識されていました。木版を含む当時の印刷物と、発行された浮世絵版画、道中記、名所記、名所図会等の大きな影響がありました。近江八景の知名度をより高めた浮世絵は、文や挿絵よりも具体的で彩色も華麗だった為、近江八景が浮世絵版画の格好の画題として描かれました。歌川(安藤)広重、葛飾北斎、鳥居清信等の多くの浮世絵師が版画を手がけ、特に、歌川(安藤)広重(1797~1858年)が1834年頃に作成した横大判錦絵近江八景(保永堂版)は有名で、広重はこれにより浮世絵風景画家として名声を上げたと言われ、20種の様々な「近江八景」を世に出し認知度も一気に高めたと言われています。近江八景が、江戸時代末迄に全国112ケ所の八景が誕生した中で日本において金沢八景・木曽八景等と並んで、日本の八景の風景鑑賞の基礎を築き、琵琶湖の優れた風景や多くの重要道が通い京に隣接していたことは、多くの人々に知られる機会に恵まれていた為、16世紀後半に選定された近江八景は、今も多くの人達に愛され続けています。


琵琶湖と云えばロードに乗る者には ビワイチ が有名ですが滋賀県は歴史遺蹟の宝庫でありますので今回は安藤広重が描いた近江八景を訪ねてみた。




東京滋賀県人会HP転記加筆

写真レポート

ピエリ守山

2020/08/01 07:05:35

ピエリ守山

ビワイチサイクリストにわ著名なピエリ守山に駐車する。
Eゾーンにある無料駐車場が早朝7時30分から利用可能とあるが、7時前にはあいていた。



梅雨開け

2020/08/01 07:33:45

梅雨開け

前日に梅雨開けのニースが聞けた、昔は梅雨明け宣言 とか言っていたけど。最近は梅雨明けらしい とな むにゃむにゃな感じですな。

ガキんちょ達がバス釣りに興じている。



近江舞子

2020/08/01 08:09:27

近江舞子

内湖がある雄松崎一帯は近江舞子水泳場で、琵琶湖八景のひとつ「雄松崎の白汀」として有名で、日本の白砂青松百選にも選ばれています.。寛文2年(1662)、湖西を襲った大地震により、湖岸線が水没して形成されました。

歌川広重の近江八景にある 比良暮雪はこのあたりの風景を基本にしたのではないかと密かに思う。



比良暮雪

2020/08/02 07:39:58

比良暮雪

歌川広重の代表作の一つ「近江八景」の揃物は、あの「東海道五十三次」(保永堂版)の成功後、天保5年(1834)頃に刊行された。「近江八景」は、中国の「瀟湘八景」にならい、室町時代に選定されたと伝えられる。

雪に覆われた荒々しい比良連峰の山容と、ひっそりと軒を連ねる人家の対比が、冬の静寂を際立たせる。



近江舞子 内湖

2020/08/01 08:11:25

近江舞子 内湖

比良暮雪がどこからの風景なのか謎の部位がありますが、このあたりだろうと僕個人は思っている。

この近江舞子 内湖 はバス釣りのメッカでもあるそうな。



浮御堂

2020/08/01 09:13:09

浮御堂

浮御堂」は正式名称を海門山満月寺といい、臨済宗大徳寺派のいわゆる禅寺。その創建は平安時代後期とされ、浮御堂の背後にそびえ立つ比叡山の僧、源信(恵心僧都)によって、湖上の安全と衆生済度を祈願して建立されたとされている。

琵琶湖の上に立つお堂の中には「千体仏」と呼ばれる阿弥陀仏が安置されている。
これはもともと源信が、自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称して浮御堂を建立したところから始まった。




堅田落雁

2020/08/02 07:41:02

堅田落雁

浮御堂をバックに船が行きかう叙情的な風景はどれも美しい。琵琶湖畔の景勝地の名は、広重の名声と共に全国的なものとなった。

湖中にのびた「堅田浮御堂(うきみどう)」は、千年程前に恵心僧都源信が小堂を開いたのが始まり、と言われている。



比叡ヶ辻の家並

2020/08/01 09:35:48

比叡ヶ辻の家並

延暦寺のある比叡山の東麓にあたる浜側の街道沿いには古い家並が残る。



坂本の家並

2020/08/01 09:41:39

坂本の家並

比叡山の麓に広がる大津市坂本は、日吉大社、比叡山延暦寺の門前町として栄えてきました。参道沿に並ぶ延暦寺の僧侶の隠居坊・里坊などの屋並みや、穴太(あのう)積みの石垣が、美しい景観を作り出しています。

琵琶湖西岸を南北に走る古い街道沿いにもたたずまいの良い家並が残る。



坂本城跡

2020/08/01 09:45:18

坂本城跡

市内東部の下阪本、東南寺(とうなんじ)から旧道へ出る小川に沿う道筋に、坂本城跡の碑があります。坂本城は、現在見るべき遺構がほとんど残っておらず、この碑だけがひっそりと立っているだけだが、戦国時代に明智光秀(1528-82)が築城した城です。
 城内に琵琶湖の水を引き入れた水城で、大天守と小天守を持ち、その姿は非常に豪壮であったといいます。「その結構壮美なるには眼を驚かす」と絶賛されたこの名城は、明智光秀の支配のもと、比叡山の監視と西近江路(にしおうみじ)・坂本港明智の要衝の地となりました。本能寺の変の後、山崎(やまさき)の合戦で敗れた明智一族の秀満が妻子を刺し殺して城に火を放ち、討ち死にした史実は、戦国の悲話としてもよく語られています。
かつて存在した二ノ丸の南端に、坂本城址の碑がある。

滋賀県観光情報HP転記



唐崎神社

2020/08/01 09:50:17

唐崎神社

蕉の「辛崎の松は花より朧にて」という句で名高い樹齢約100年の巨大な霊松が境内にあります。金沢の兼六園にある唐崎の松はこの地から分けられたものとして有名です。

 古くから祓の霊場として知られ、平安朝には「七瀬の祓」の一所として都人や多くの姫君たちがお祓いをされて来ました。また、女別当社とも称し、女性の信仰が極めてあつく殊に婦人病、下の病には著しい霊験があるとされています。

滋賀県観光情報HP転記



唐崎夜雨

2020/08/02 07:43:19

唐崎夜雨

広重は、生涯で20種類あまりの近江八景シリーズを手がけたが、中でも傑作とされるのが、この〈保永堂・栄久堂板〉である。彼の絶頂期の作「東海道五拾三次」の直後に制作され、海外で「雨と雪と霧の芸術家」と称賛された広重の真骨頂が、遺憾なく発揮されている。本図は、このシリーズ中でも最も評価の高い「唐崎夜雨」で、巨大な老松のシルエットを画面いっぱいに、豪雨の中に浮かび上がらせ、映画のような臨場感をもって表現している。あくまでも和歌のイメージに沿った情景として描かれてきた近江八景図の歴史のなかで、広重は革新的な表現をみせている。

大津市歴史博物館HP転記



唐崎の松

2020/08/02 14:02:10

唐崎の松

記録の上では初代の松は天正元年(1573)に大風によって倒れ、二代目は天正19年(1591)当時の大津城主 新庄直頼公等により植えられました。
享保19年(1734)に発行された『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』には、「樹高はそれほど高くなく、枝葉が四方に繁り七間四方(12.6m×12.6m)の大きさで雨宿りが出来る。姿形がまことに均整がとれて美しい」と書かれています。植栽から約140年経っておりますが、とりわけ巨大ということではなかったようです。しかし、それから約100年後に描かれた浮世絵「唐崎夜雨図」では枝が琵琶湖まで達し、同時期の版画にも枝の東西54m・南北68.4mという注記があり途方もない大きさになっていたことがわかります。さらに明治初期(『近江輿地志略』から130年後)の由緒書には高さ27m(後に大風で折れて10m)幹廻り11m、枝東西72m・南北86mと記録しています。その頃の写真が長崎大学附属図書館に所蔵されています。

唐崎神社HP転記



三井寺

2020/08/01 10:12:50

三井寺

天台寺門宗の総本山。境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、西国第十四番札所の観音堂、釈迦堂、唐院など多くの堂舎が建ち並び、国宝・重要文化財は一〇〇余点を数える。

滋賀県観光情報HP転記



三井晩鐘

2020/08/02 07:44:38

三井晩鐘

陽も沈み、長等山(ながらやま)に夕闇の降りる時刻、日本の三名鐘のひとつに数えられる三井寺(みいでら)の鐘が、晩の入りを告げて遠方より響く情景を描く。なお、三井寺は、桜の名所でもあるため、他のシリーズでは、満開の桜とともに春の情景として描かれている。


大津市歴史博物館HP転記



膳所城跡 石鹿地蔵尊の由来

2020/08/01 10:33:59

膳所城跡 石鹿地蔵尊の由来

元亀2年(1571年)織田信長は大軍で比叡山の社寺堂塔を焼き払い僧俗3000人を殺した。そして、明智光秀に命じ坂本城を築かせた。その時、比叡山内にあった石地蔵を全部ひきずり降ろし、城の礎石にした。その後、本能寺の変で、信長がたおれた2年後の天正12年豊臣秀吉は、淺野長政に命じて、大津城を築かせた。築城には、坂本城の石地蔵を運んで礎石にした。関ヶ原の合戦の翌年慶長6年(1601年)、徳川家康は、藤堂高虎に命じ善所城を築かせたがこの時も大津城の石地蔵等運んで礎石とした。明治3年膳所城が廃城になった時、本丸、二ノ丸、三ノ丸跡から、これらの石地蔵が約300年ぶりに姿を表した。以後城跡の各所に放置されていたが、昭和38年有志相寄り、浄財の寄進もあり、この祠が建てられた。現在約60体が祀られている。
現地掲示板



膳所城跡

2020/08/01 10:36:25

膳所城跡

近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。

滋賀県観光情報HP転記



大津市晴嵐

2020/08/01 10:47:09

大津市晴嵐

近江八景の一つ。東海道の膳所から瀬田までの松並木を描いた「粟津の晴嵐」は強風に枝葉がざわめく様子から晴嵐と言われたとか。「粟津の晴嵐」の風景を復元した、松の並木が連なる静かな遊歩道を歩き、湖岸沿いに広がるなぎさ公園でひとときを楽しめます。

滋賀県観光情報HP転記



粟津晴嵐

2020/08/02 07:45:56

粟津晴嵐

山裾から湧きたつ春霞を指す中国語の「晴嵐」から離れ、近江八景に見立てる際、字面からの連想で、ざわめく松並木の葉音を聞かせる粟津が選定されている。

現在は帆船の代わりに学生のカッター競技のメッカとなっている。



瀬田の唐橋

2020/08/01 10:53:28

瀬田の唐橋

日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋。古くは、瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれ、日本書紀にも登場する。現在の状態は、織田信長により現在の状況(大橋・小橋)に整備された。
「唐橋を制するものは天下を制す」とまでいわれるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であることから幾度となく戦乱の舞台となった。現在の橋は昭和54年に架け替えられたが、緩やかな反りや旧橋の擬宝珠など往時の姿をとどめている。

滋賀県観光情報HP転記




瀬田夕照

2020/08/02 07:47:16

瀬田夕照

織田信長が天正年間(1573‐92)に架橋した記録を彫りつけた唐金(青銅)製の親柱の擬宝珠が有名。また唐橋から眺めた琵琶湖の夕景は〈瀬田の夕照(せきしよう)〉として近江八景の一つである。現在の橋は1979年架橋されたコンクリート桁橋で,全長220m,欄干などに往時の趣が保たれている。

遠くに近江富士が描かれ夕暮れ時の空気感を醸している。



石山寺から北を望む

2020/08/01 10:59:21

石山寺から北を望む

石山寺から北を望むと遠くに瀬田の唐橋が望まれる。
石山秋月はこの辺りからの鳥観図を心象風景として描いたものだろう。



石山秋月

2020/08/02 07:48:54

石山秋月

湖上には満月がのぼり、湖面を照らしている。手前には、石山寺の建つ伽藍山が、月明かりで墨色に照らし出され、岩肌からは本堂がのぞく。山上の、頂き近くには国宝の多宝塔が垣間見え、見晴らしのきく崖上に月見台が建つ。

大津市歴史博物館HP転記



石山寺

2020/08/01 11:02:01

石山寺

西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている。国宝の本堂・多宝塔をはじめ、経典・聖教類、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。

滋賀県観光情報HP転記



矢橋

2020/08/01 11:21:54

矢橋

矢橋(やばせ)は滋賀県草津市の集落地名。矢橋から船に乗り対岸に達すると東海道の近道になることから、古くから琵琶湖岸の港町として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」(瀟湘八景の遠浦帰帆と対応)として有名。現在は矢橋帰帆島が建設され当時の趣はない。また矢橋帰帆島と湖岸との間の水路に赤潮・アオコが発生しやすく問題が指摘されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今はかつて旅人を乗せた船の代わりにレジジャーボートが係留されていた。



矢橋帰帆

2020/08/02 07:49:48

矢橋帰帆

矢橋(やばせ、草津市)の港へと到着する船たちが、順次帆をおろして着岸する光景を描いている。江戸時代、矢橋は対岸の石場(いしば、大津市)との渡し船の発着港として栄えた。瀬田橋ルートは、かなりの迂回になるので、東海道を行く旅人が、渡し船で近道をしてにぎわったのである。

大津市歴史博物館HP転記



矢橋港 石積突堤址

2020/08/01 11:32:53

矢橋港 石積突堤址

矢橋港は近江八景の「矢橋帰帆」として著名であり、広重ほかの浮世絵などにより、親しまれた名所でありますが、現在は琵琶湖沖の広大な矢橋帰帆島や近江大橋で構成される躍動的な近代景観を満喫する新名所へと姿を変えました。大津への渡し場として多くの旅人で賑わった、かつての港の様子は、弘化三年(1846)銘の常夜灯や発掘調査で発見された石積突堤など、公園の中に残された遺構から想像をせざるをえなくなりました。

草津市HP転記

江戸期の港湾施設が現存するのは非常にまれだそうです。



矢橋の集落

2020/08/01 11:36:13

矢橋の集落

矢橋湖底遺跡から縄文土器が出土していることから集落の成立は古い。万葉集に詠まれていることから少なくとも古代には港町の機能を持っていたと思われる。かつては「矢走」「矢馳」「八橋」「箭橋」などとも書かれた。現草津市内には志那・山田・矢橋の三港があったが、矢橋は特に中世に台頭。要港警備の拠点として矢橋氏による矢橋城も築かれた(「城前」という小字も存在する)。近世には「矢橋帰帆」として歌川広重の浮世絵「近江八景」や「伊勢参宮名所図会」(「近江名所図会」にも転載)に描かれるなど、全国的に有名になった。明治時代に入ると琵琶湖交通に蒸気船が登場。さらに鉄道が敷設され物資輸送の主役が陸上交通に移ると矢橋港は衰え、矢橋の町も往時のにぎわいを失った。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』