左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2020/08/12 06:38:53 | 終了日時 | 2020/08/12 09:20:25 |
水平距離 | 21.60km | 沿面距離 | 21.89km |
経過時間 | 2時間41分32秒 | 移動時間 | 1時間51分45秒 |
全体平均速度 | 8.13km/h | 移動平均速度 | 11.57km/h |
最高速度 | 88.81km/h | 昇降量合計 | 939m |
総上昇量 | 471m | 総下降量 | 468m |
最高高度 | 480m | 最低高度 | 323m |
2020/08/12 13:06:04
とりあえずこの体育館の駐車場にて、ポタリングを開始する。
2020/08/12 06:40:23
豊能町高山の棚田は有名ですが、何処でも棚田が美しい。
2020/08/12 06:44:54
牧の妙見山道標
豊能町、牧の妙見山道標で、「右 能勢妙見宮」とある。
京都方面から亀岡・牧を経て妙見山詣りをするための妙見道に建てられた道標である。京都の大西講が建立したもので、明治期のものと推定される。
少し南の野間口には江戸期文政11年(1828)、京都開運講建立の妙見山道標も見られる。
江戸時代から明治、大正期にかけ京都方面より亀山(亀岡)、牧を通り妙見山詣りが大変盛んであったことを伺い知ることができる。
平成6年3月
豊能町教育委員会
2020/08/12 06:53:14
のどかな田園風景の中にぽつねんとその仏達は佇んていた。
2020/08/12 06:57:36
室町末期にあたる永禄7年(1564)の造立で土地の人からは「余野十三仏」と呼ばれている。表裏2面に各20体の仏像が刻まれ、表面上半部の三尊は、主尊が錫杖を持ち、両脇侍は合掌の地蔵菩薩立像である。下半部には上段9体、下段8体、計17体の地蔵立像が並んでいる。裏面にも同じく三尊像が刻まれ、両脇侍は地蔵の合掌立像であるが、主尊は宝冠をつけ何仏か定かでない。刻銘は「本願道清 永禄七年二月時将日」とあり、道清が本願となって同行多数の後生安楽を願って建立したものであろう。
豊能町観光ボランティアガイドの会HP転記
2020/08/12 07:01:31
切畑西野の集落北側山麓に在る観音堂境内山側に多尊石仏が在ります。
2020/08/12 07:01:31
高さ127センチの山形で石英閃緑岩の板状石に、上部に阿弥陀三尊立像。その下部四段に4・4・4・3体ずつで15体の坐像がある。阿弥陀如来は来迎印のようで、頭の周辺に放射光が彫られている。阿弥陀の両側に「為逆修 天正三乙亥年八月三日」(1575)と刻まれている。
2020/08/12 07:08:46
石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)の表に大きく蓮華座を刻み、上に舟形を掘り地蔵立像を厚肉彫りしている。
右手に短い錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を捧げ、衣紋は左右相称だが、像容はよく整い写実的であり、像全体から受ける感じはゆったりと悠揚としたものである。連弁の形もまるく大きくふくらみ、典型的な鎌倉時代の形式がみられる。
銘文は像の光背にあり、右に「正和三年甲寅卯月」(1314)、左に十五日願主平末方ム」とある。鎌倉時代は石造美術が最高の造形美に達した次期である。
本町における鎌倉時代の在銘文化財は、大円釈迦堂の乾元二年(1303)銘のある阿弥陀三尊笠塔婆とこの石像2基で、この点からも本町の貴重な文化財である。
豊能町観光協会HP転記
2020/08/12 07:13:12
境内にある石風呂は府指定文化財で、使用目的ははっきりしないそうだが僧侶が斎戒のために使用したという説と、人々が厄病除災にご利益があるとして入湯したという説などがある。大きさは外寸が200センチ×130センチ。高さ70センチ。上部に給水口らしい穴、底部に排水口が見られる。鎌倉時代の製作と推定されている。
2020/08/12 07:18:43
もとの溝川の橋になっていたもので、石英閃緑岩でつくられた板碑で3つに割れている。近くの人たち三軒で、ここに安置し供養しているという。
上部に阿弥陀三尊、向かって右にある観音菩薩は大きく欠損し、中尊の阿弥陀如来も首のところで大きく欠けている。
阿弥陀如来の頭部には放射光がある。三尊の下に5列4段、20体の円頂・合掌の立像は蓮華座上にある。この板碑の造立を志した供養者たちと思われる。
阿弥陀如来と勢至菩薩の間に刻銘がある。また、勢至菩薩の左に「道見」とある。刻銘は「天正三年九月吉日」(1575)と読める。
現地掲示板
2020/08/12 07:27:43
全体が苔で覆われている。高さ178センチ×巾300センチの自然石に横長に彫られてる。中央に阿弥陀立像、その周囲の三段に合計22体合掌坐像が彫られている。いずれも長方形の切込みを入れて半肉彫された供養佛である。阿弥陀像の下に「為逆修天正二甲戌年十一月吉日」五輪塔の地輪に「天正二年為逆修 五月十五日」(1574)の銘がある。
2020/08/12 07:30:19
地蔵は付近から掘り出されたものという。高さ184センチの自然石表面を舟型に彫り窪めて地蔵立像を彫っている。すらりとした長身で引き締まった感じが印象的。無銘であるが法性寺の地蔵と酷似しており南北朝と推定されている。
2020/08/12 07:30:19
2020/08/12 07:41:33
大円集落センター横の観音堂の斜め向かいにある土建屋さんの資材置き場様の端から擁壁を10メータ程度よじ登る感じの雑木林の中にぽつねんと佇んでいたが、この三尊は凄くかわゆい感じががして、僕は一番のお気に入り石仏となりました。
入口に看板も何も無いので、とにかく府道と土建屋の境界脇から擁壁を10m登るべし。
2020/08/12 07:41:33
小松の横向き地蔵とも呼ばれており、中央の阿弥陀如来は、舟形の彫り込みに半肉彫りの坐像で、左右の観音・勢至菩薩は内側を向いた坐像となっている。
三尊の姿は、肉付けが豊かで彫りに丸みのある童顔は実に可愛らしく、その姿は印象的である。作風は大円下所の阿弥陀磨崖仏に似ており、同一作者と考えられる。造立は南北朝時代であろう。
2020/08/12 07:41:33
ね。横を向いている様子がかわゆいでしょう?
2020/08/12 08:01:07
茨木市上音羽
能勢妙見街道沿いに幅6mの花崗岩の自然石に上下2段に分け、28体の地蔵仏が彫られています。上段右には円内に宗祐の文字に、その下に小さな合掌立像が2体、左に蓮台を伴う大形の立像と、像下に法印・宗承と2行に刻まれています。
中央には放射光背を負った阿弥陀如来像が彫られ、左右に甲戌(きのえいぬ)天正2年(1574)11月15日の刻銘があります。下段には右に4体、左に16体の地蔵仏が刻まれており、極楽往生を来世に願った逆修仏と見られています。桑原の地福寺と同一作者とみられる。
2020/08/12 08:27:32
豊能町にある7基の逆修石造物のひとつ。天正二年(1574)十一月廿八日の銘がある。それぞれの像の右肩に法名が刻まれているようで、右端のものは妙海と判読されている。16人の逆修講中が生前に死後の極楽往生を願って供養した証しである。
2020/08/12 08:35:23
府道沿いにひまわりが植えられた畑があった。
2020/08/12 08:41:29
2020/08/12 08:47:41
上部に阿弥陀三尊、その下に16体の逆修仏が彫られている。碑文に天正元年(1573)と記されている。逆修とは、生前に死後阿弥陀如来の功徳により極楽往生しようとするもので鎌倉時代に始まり、乱世の永禄・天正年間に最高潮に達した。
2020/08/12 08:55:05
2020/08/12 09:01:41
高さ1mほどの板状の自然石に、22体の像と3基の五輪塔が刻まれている。
最上段の中央に定印の阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に地蔵菩薩がある。
観音菩薩の横に2体と下段の3段に17体、合計19体の円頂合掌の像がならんでいる。
この19体は地蔵尊を表したとも、供養者をあらわしたとも考えられる。
向かって左の五輪塔の右上に「天正八庚辰八月日」の紀年名が見られ、桃山時代天正八年(1580)の造立である。
なお、近くにある双体地蔵は、小さな舟形の石に2体の阿弥陀如来が彫られている。
頂上にある「ほぞ」からみて、もと笠石が乗っていた卒塔婆であったと考えられる。室町時代後期のものと思われる。
平成5年11月 豊能町教育委員会
2020/08/12 09:09:02
地蔵菩薩立像、向かって左に「恵春(けいしゅん)」の刻銘がある
不動明王、左右に「天文十七戊申年」「正月吉日智衆」の刻銘がある
かつてはこの摩崖仏の前を旧道が通っていた。
2020/08/12 09:09:02
今は夏なので苔むしてよくわからない。