左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2020/08/14 05:13:52 | 終了日時 | 2020/08/14 11:07:49 |
水平距離 | 60.24km | 沿面距離 | 60.26km |
経過時間 | 5時間53分57秒 | 移動時間 | 4時間01分51秒 |
全体平均速度 | 10.21km/h | 移動平均速度 | 14.87km/h |
最高速度 | 40.55km/h | 昇降量合計 | 530m |
総上昇量 | 265m | 総下降量 | 265m |
最高高度 | 100m | 最低高度 | 1m |
2020/08/14 06:42:23
まあ とりあえず 長尾街道を東進することにして、長尾街道の起点にあたる方違神社へ訪問する。
2020/08/14 06:51:04
かなりレトロな医院を発見した。
僕らが子供の頃にはこんな感じの医院がほとんどだった。
2020/08/14 06:58:15
長尾街道の道標地蔵
長い街道は非常に古くからある街道(5世紀頃から)で道標やら地蔵様やらがやたらとある。
道沿いに地蔵尊を二体納めた祠があり、その後ろに道標が二本立っている。一本には「右 たき谷道 左 ふじい寺 はせなら みち」天保14年(1843)と刻まれ、もう一本には天保15年(1844)と刻まれている。
2020/08/14 07:05:42
更池村惣井戸
寛政8年(1796)の井筒があり、多聞院の5代住職龍昌の銘がある。元は西除川の河川敷に存在した。
2020/08/14 07:12:24
長尾街道上田1丁目ちちかみばし道標
松原郵便局前に明治43年(1910年)2月に大阪府の建てた角柱型道標が見られる。「ちゝかみはし」「長尾街道」と刻まれている。北へ松原警察署横を流れる今井戸川が長尾街道と交わる所に「ちちかみ橋」が架かっていた。いい伝えでは、平安朝、貴族の女房が抱いていた赤ん坊がむずかり、乳房を噛み「ちちかみ」とよんだ悲しい話が残っている。
2020/08/14 07:23:25
雄略天皇陵
宮内庁により「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵として治定されていることから、雄略天皇陵として親しまれているこちらの古墳ですが、考古学的には実際の被葬者は明らかでないとも言われています。
2020/08/14 07:30:15
元禄年間の古い道標
藤井寺市役所の裏手となる南側を通る長尾街道の道路脇に在るものです。
この道標はこの展示場所から200mほど西の三叉路の地点に建てられていたものです。
2020/08/14 07:43:21
東高野街道(誉田八幡宮辺り)
創建は欽明天皇20年(559)と伝わる古社です。
第29代・欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって社を創建しており、最古の八幡宮とも伝えられています。
2020/08/14 07:47:52
渡来系氏族の西文氏が7世紀に建立したと伝えられ、その歴史は飛鳥時代まで遡る。
西文氏は王仁氏の子孫とされ、王仁氏は日本書紀に記されている伝承上の人物。
2020/08/14 07:48:38
心礎の東側に立つ石造五輪塔 5 基は「昭和 32 年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安 3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ 3.1m あり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。」とあって、高屋城の築造時に転用されていたものを西琳寺へ移したものである。
昭和 45 年(1970)に跌石 1 個・石造蔵骨容器 1 口とともに大阪府の有形文化財に指定された。
2020/08/14 07:50:32
ここは東高野街道と竹内街道の交差点(蓑の辻)で、かつて古市の中心地だったという。その繁華だった頃のレトロな面影を残していた羽曳野市商工会館ビルは今や変哲もないただの建物になっていた。
2020/08/14 07:54:15
石川を東側に抜けたところに川向の道標がある。
竹之内街道には道標が要所に立てられているが、川向の道標は「大黒寺」「法華寺」への案内であったらしい。
神南辺隆光の建立
2020/08/14 07:59:51
八丁地蔵と役行者錫杖、水碑がある役行者錫杖は道標にもなっていて、これも神南辺隆光の建立。
2020/08/14 08:22:01
この磯長山 叡福寺は、聖徳太子と、その二ヶ月前になくなられた太子の生母穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后と、一日前(一説には同日)に亡くなられた太子夫人膳部大郎女とを葬ってある。いわゆる三骨一廟である。
2020/08/14 08:26:00
叡福寺境内西側、叡福寺古墳を正面に見た左左手叡福寺墓地の入り口を入ると写真のような石塔をご覧いただけますこのような屋根を何層にも重ねた石製の塔を、層塔と呼びます。
層塔は二上山で算出される凝灰岩で作られており現存状態はあまり良くありませんが屋根の軒などがしっかりと表現された良品です。このような層塔が叡福寺周辺の狭い範囲に数基分布しています 。
大阪府立近つ飛鳥博物館だより記事「近つ飛鳥の風景」より転記
2020/08/14 08:26:34
凝灰岩製、総高約162センチ、天文20(1551)年銘の重厚な石仏地蔵菩薩二体が墓地内にある。
2020/08/14 08:34:05
右 たいま たけのうち 道
つぼさか よしの
をかてら(岡寺) 者せ寺(長谷寺)
ここは巡礼道だったんだ。
2020/08/14 08:38:39
大阪府指定の文化財として昭和45年12月7日指定
2020/08/14 08:44:08
お堂の中に納まった立派なお地蔵さん。その堂は、塀囲いされた内陣と、前と左右が吹き抜きの外陣からなる珍しい造りとなっています。
この地蔵尊に関する記録は全く残っていませんが、昔から堂の南側にある池の泥を、この地蔵尊に塗り付けて祈願すると願いが叶えられるといわれ「泥掛地蔵さん」と呼ばれるようになりました。
戦後まもなく、泥を掛けないで祈願するようになりましたが、その効能には変わりがないようで、今でも近隣の人たちに信仰され、大事に守られています。
室町末期頃の作とされる。
2020/08/14 08:48:06
滝畑から流れる石川は都市部の河川にあっては水が綺麗です。
2020/08/14 09:08:24
富田林街道(平尾)の道標
正面に 左 ふく町 右 さかい
左面に 東 いせ 南 金剛山
平尾には富田林街道 貴志街道 高野街道(バイパスとしての) があり江戸中期まで交通の要衝としてにぎわっていた。
2020/08/14 09:23:53
現在は田土開発されて大美野との町名がついていますが、1892年の地図を見るとこのあたりは大草村草尾とあり地図には伊勢道と記載があります。
田んぼの中の道でそれが伊勢へ向かう道であったので伊勢道なる地名があったのでしょう。
大阪府HPでの記載内容は・・
大美野は昭和初期に、ヨーロッパの田園都市になぞらえて開発された町で総面積40万平方メートルに及ぶ大規模な住宅地である。
2020/08/14 09:48:19
父鬼街道 と和泉街道の分岐部にある祠と道標。
2020/08/14 09:48:19
右ハいせ道 左是より四丁北 ふどう道 きやう??
と刻まれる。
堺の南部辺りの住人が伊勢参りに行く時は和泉街道経由 竹ノ内街道 横大路 伊勢街道
で巡礼したのでしょう。
2020/08/14 09:52:57
父鬼街道は明治25年の『大阪府統計書』によって、その名称が設定されました。起点は堺市で鍋谷峠を越えて、和歌山へと南下する街道です。
上町と草部町の境界となる道の分岐点に
文久2年(1862)に建てられた道標と地蔵が置かれています、横には すぐ大阪 住吉 と刻まれる。
2020/08/14 09:58:13
古街道がそのまま商店街になっている珍しい道。
画像はもう廃業した銭湯から眺めた熊野街道、緑のタイルがいい味だしてます。
2020/08/14 10:04:30
和泉五社の1つで和泉国一宮です。
ご祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、日本書紀や古事記に登場する伝説の人物、もう一柱のご祭神である大鳥連祖神(此の和泉国に栄えた神別である大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖)です。本殿は大鳥造と言い、神社建築史上一種の様式を保っており、構造は出雲の大社造に酷似して、切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ形式を今日に伝えています。全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされ、勝運、開運、厄除、交通安全に信仰されています。
2020/08/14 10:44:18
吉大社を紀州街道沿い南に下った大阪市住之江区安立の街並み。
難読地名の安立(あんりゅう)とは宮中や後に徳川将軍家御典医を務めた半井家一族の名医で、従五位下の位を有する貴族であった半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)が桃山時代に居住していたことに因む。
永らく住吉大社宮司家の津守氏の領地であった。
大阪と堺を結ぶ、かなり繁栄した郊外の街道町であったので今でも古い町家が残る。
2020/08/14 10:52:01
摂津の國の一ノ宮・この東門から延びる道は「磯歯津路」別名住吉街道とも云われる道であるが、雄略天皇の時代(5世紀後半頃)にあったとされる古代の道です。住吉津(すみのえのつ、細江川の河口付近にあった古代の港で、外交使節の発着地として重要な位置を占めていました)から奈良へと向かう古代の国際街道でした。
4-5世紀には存在した国際街道「磯歯津路」を1600年後に自転車でブラブラできるなんて、なんて幸せな国に生まれて住んでいるんだろう。