泉州の巡礼道をポタる。(200年前とほぼ変わらない天野街道を走る)

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現在の軌跡: 15 08 2020 06:11

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/08/15 06:11:34終了日時2020/08/15 11:50:49
水平距離72.64km沿面距離72.70km
経過時間5時間39分15秒移動時間4時間27分21秒
全体平均速度12.86km/h移動平均速度16.22km/h
最高速度51.52km/h昇降量合計1053m
総上昇量527m総下降量526m
最高高度215m最低高度1m

レポート概要

巡礼は観音信仰がさかんになった平安時代の中期から、修験道や僧たちの修行としてはじまりました。
西国三十三所霊場巡礼が最も古い巡礼であると云われています。

江戸時代も中盤を過ぎるころには、社会が安定して市民階級に富が集まりだしますので、巡礼が一般庶民にも広まり、ブームとなって巡礼をしていた様子です。
当時の為政者は巡礼による他所への移動(まあ旅ですな)は比較的許可を緩くしていたようで、庶民側でもそのあたりをうまく利用して旅を楽しんでいた様子です。
大阪府内にある4か所の番所のうち、5番の葛井寺(ふじいでら)から4番の和泉の施福寺(槙尾寺)までの道筋が巡礼街道として残っていますが、よく探すとそれら以外にも巡礼道が存在していて小さな道標と地蔵尊がまつられており、庶民の道としての名残を知ることができます。
泉州に於いては水間観音への参詣道である水間街道はその面影を良く残していますし、西高野街道も里石道標等が残っていて往時の空気を感じる事が出来ます。
また西高野街道から分枝して天野山金剛寺へ向かう天野街道はほぼ江戸時代の参詣道(街道)が現在も残っています。

写真レポート

堺材木町の道標(右 妙国ぢ  左 住よし 大さか)

2020/08/15 06:27:25

堺材木町の道標(右 妙国ぢ  左 住よし 大さか)

紀州街道にあたる堺の大路筋には江戸時代の大きな石製 道標 がある。

道標にはソテツで有名な妙国寺 と 住吉大阪を示す 道標である。

住よし は当然住吉大社を示している。



妙国寺わきの道標

2020/08/15 06:28:47

妙国寺わきの道標

ソテツで有名な妙国寺のわきには、右 ソテツ 左大坂 を示している。

奥には幕末に堺事件を起こした土佐十一烈士の墓を示す道標がたっている。

明治元年慶応四年に起きた事件ですが、この墓に詣でると非常に功徳があるとされて物凄い数の参詣者があったとされる。
それを裏ずけるようにいくつもの道標がたっている。



土佐十一烈士墓(宝珠院境内見学不可)

2020/08/15 06:29:35

土佐十一烈士墓(宝珠院境内見学不可)

土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)に起った堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院(ほうじゅいん)境内にあります。

 堺事件とは、慶応4年2月15日堺港に上陸してきたフランス軍艦の兵に対し、鳥羽伏見の戦以後に堺の警固にあたっていた土佐藩士がこれを阻止しようとしてフランス人11人を殺傷した事件です。フランス公使は憤激し、2月19日に明治新政府に対し土佐藩士の斬刑や謝罪を含む五ケ条の要求を提出し抗議しました。結果、2月23日土佐藩士隊長 箕浦猪之吉(みのうら いのきち)ら20人の切腹が妙國寺本堂庭前でフランス人士官等の立ち合いのもと行われました。しかし、11人が切腹した時点で、フランス人達は切腹の悲惨さにすっかり青ざめ切腹の中止を命じ、残りの9人は罪人として土佐に返されることになりました。

 箕浦達11人の亡骸(なきがら)は妙國寺北隣の宝珠院境内に葬られ、墓碑は土佐藩主 山内豊範(やまのうちとよのり)により建てられ、後に修復されました。この墓碑の正面には戒名、側面に俗名が彫られています。なお、フランス人水兵の亡骸は、神戸市旧居留地外人墓地に葬られました。
堺市HP転記



助松村境石造物群

2020/08/15 07:03:20

助松村境石造物群

関連リンク

地蔵堂・宝篋印塔・徳本上人碑・六十六部供養塔、などの石造物で構成され地域では「ホウケント」と呼ばれ大切にされきました。江戸時代に紀州街道が巡礼道でもあったことをしめし、また助松村境における境神信仰の残る事例として貴重です。広報いずみおおつ 平成27年4月号記事転記

助松村境で村の境界にかなり立派な石造物が並んでいることから、助松村は経済的に裕福であった事が伺える。



蛸地蔵

2020/08/15 07:32:31

蛸地蔵

1584年、岸和田城は敵の軍勢から攻められ、落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救ったそうです。そして数日後、岸和田城のお堀から傷を無数に負った地蔵様が発見され、城内に大切に収められました。その後、天性寺内にある日本一大きいとされる地蔵堂に移され、今に至っているそうですよ。南海電車HP転記

紀州街道を下る人々はまあほぼこの蛸地蔵に参ったでしょう。
今でもいい感じの家並が残る。



願泉寺

2020/08/15 07:37:47

願泉寺

寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落。願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍が今も残っている。南海本線貝塚駅に近い貝塚寺内町の一角は、土蔵や格子戸などが小路のところどころにあり、かつての街の繁栄ぶりを物語る姿も数多く残っており、貝塚の歴史を物語る。貝塚市HP転記

紀州街道は貝塚の街で水間街道 牛滝街道 が分枝する。




水間街道

2020/08/15 07:50:23

水間街道

厄除けで有名な水間観音その街道は江戸時代の面影を濃厚に残している。
数は少ないが丁石も残っている。



水間寺

2020/08/15 08:23:04

水間寺

寺伝では、天平16年(744)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創した。そして開創当時は七堂伽藍を備え、また坊院も150余りを数える大寺であったと伝えている。

戦後期に根来寺に味方して秀吉に焼かれて寺運衰退した。

作家で僧侶であった今東光さんが貫主をされたことでもよく知られている。
今東光氏は昭和36年に就任され昭和48年に退任されるまでの12年間、貫主を務められた。



上白原の道標

2020/08/15 08:41:29

上白原の道標

旧外環状線の岸和田上白原四番地はちょうど外環状のピークにあたる。

明治期の実地調査と記された道標がある、遠くは伊勢神宮 信貴山等が刻まれている、明治の中頃までは巡礼がされていたことの証左になりえる。



槇尾山への道

2020/08/15 09:11:26

槇尾山への道

和泉市小野田町辺りを巡礼道は通る、道の先には西国四番札所の槇尾山がある。



天野山 金剛寺

2020/08/15 09:44:06

天野山 金剛寺

女人高野とも呼ばれる天野山金剛寺は、天平年間(729-749)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創。弘仁年間(810-824)には弘法大師空海が修行したと伝えられる、真言宗御室派大本山でもある。その後、堂塔伽藍は荒廃したが、平安末期、後白河法皇と皇妹八条女院の帰依を受け、高野山の阿観上人が伽藍を復興。八条女院が、高野山より真如親王筆の弘法大師御影を御影堂に奉安し、女性が弘法大師と縁を結ぶ霊場とされたことから、「女人高野」と呼ばれるようになったという



天野山 金剛寺

2020/08/15 09:47:19

天野山 金剛寺

石畳があっていい感じの路地が残っています。
此処の紅葉は素晴らしいの一言に尽きる。



槙尾山 葛井寺 を示す道標。

2020/08/15 09:52:29

槙尾山 葛井寺 を示す道標。

天野山 金剛寺の北の出口辺りに古い道標がたつ。

右 葛井寺道 左槇尾山道 と刻む ここが巡礼道であった証。



天野街道

2020/08/15 10:02:27

天野街道

西高野街道と別れて天野山へ向かう 天野街道 は当時の面影を良く残している。

舗装こそされてはいるが、自動車一台通過できない狭い道には電柱もない。



天野街道

2020/08/15 10:07:28

天野街道

ところどころに古い道標があり。

ほぼ江戸時代の雰囲気が続いている街道である。



天野街道

2020/08/15 10:25:28

天野街道

このあたりは舗装も無くて雨上がりには自転車は難しいだろう。

いい雰囲気が残る、素晴らしい街道。



天野街道 西高野街道 分枝部

2020/08/15 10:31:15

天野街道 西高野街道 分枝部

このあたりで、天野街道 西高野街道が分枝している。

どちらも往時の面影が残る巡礼道。



関茶屋  十二里里程石

2020/08/15 10:48:11

関茶屋  十二里里程石

西高野街道は大阪堺大小路の十三里石道標から始まり途中、河内長野で東高野街道と合流し一本街道になり、高野街道ゴールの女人堂手前にある神谷辺り一里石道標を目指し歩きます。西高野街道は堺市を離れ河内長野地区まで歩き古野の行者堂で出会う道標の九里石は、高野山女人堂までの距離示す里程評道標で、この西高野街道は行者堂九里石の先に辻本の辻で東高野街道に合流し、一本街道の高野街道となり高野山を目指します。



竹ノ内街道と西高野街道 分枝部

2020/08/15 11:24:23

竹ノ内街道と西高野街道 分枝部

此処で竹ノ内街道と西高野街道 分枝しています。

高野山へ巡礼する人は右へ、伊勢参りへ行く人は左へ道を取った事でしょう。

分枝地点にある、十三里石には、「安政四年丁巳三月」の文字が刻まれており、1857年に建立されたと推定されます。

昔の人は巡礼と云う旅を、僕らと変わらないくらい楽しんだことでしょう。