大阪府北部の旧街道をめぐる

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2017-04-29 05-36

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/04/29 05:49:34終了日時2017/04/29 15:41:21
水平距離134.36km沿面距離134.77km
経過時間9時間51分47秒移動時間8時間19分06秒
全体平均速度13.66km/h移動平均速度16.06km/h
最高速度38.26km/h昇降量合計1681m
総上昇量836m総下降量845m
最高高度76m最低高度-1m

レポート概要

今回は大阪府北部から京都にかけての旧街道を走る。
始めに紀州街道大阪側の大和橋を基点にして、高麗橋で紀州街道から中国街道へ(紀州街道の基点は西成警察前辺りが妥当でありますが、里程源標がある高麗橋を基点としましょうか)大阪市内を通過する紀州街道は安立町や住吉大社あたりに街道風情が残っていますが、それ以外は古い街道の面影がほとんど存在していません。
梅田の繁華街を通る中国街道を走って神崎川を渡り津戸ノ中道と云われる古街道を北上する、この古街道は豊臣秀吉が明智光秀と雌雄を決する為に備中高松から中国大帰しをした時に使った道で短時間で北摂に到達できる。当時の雑兵や武士達は欲に駆られてこの泥田の中の畦道に近かった古街道を走ったのだろう。

津戸ノ中道は吹田で能勢街道と合流して中川原で西国街道と交差する、此処で古戦場や古い神社仏閣の多い西国街道を京都へ向かい羅城門まで進み羅城門から京街道(東海道)を南下した。岩清水八幡宮のある八幡で東高野街道に道を採って旧河内の国中を南下した。

キリシタン伝説が残る野崎辺りから古堤街道を西進して住道から比較的近世に(明治期)開かれた河内街道を市街地の中を進んでいく。河内街道が現役のころはまだ伊勢詣りや大峰詣り(この二つは今でも人気がある)が生活に溶け込んでいたようでおかげ灯篭や大峰参詣指差道標などが残っている。
また河内街道は旧大和川流域を抜けているので大阪城の二つの戦にちなんだ旧跡も多い。

河内街道の基点、八尾からは住吉に向かう住吉街道を進むこの住吉街道は古街道の痕跡がほとんど存在しなくて、八尾の寺内町以外の見所が無い、唯一長居通から歴史の道として残る部分の住吉大社付近に古い家並が残るのみだが、この道は大変古くて5世紀にまで遡ることが出来るだろう。

住吉大社東門辺りから熊野街道へ分かれて大和川手前で現代の道標を見てポタリングは終了した。

旧街道は車が少なくノンビリ気分でポタリングを楽しむことが出来る、旧跡を眺めながら休日を堪能できるのはこの上ない贅沢でもある。

写真レポート

紀州街道大和橋

2017/04/29 05:52:50

紀州街道大和橋

関連リンク

大阪市と堺市を結ぶ大和橋は、大和川の開削と共に宝永元年、紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった。当時、大和川にはこの橋しかなく、旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓の祭では一場の舞台となった。神遷しをした神輿をかつぎ数百人が持つ炬火の火は西宮を始め兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ人々はこの火を目印として神幸を拝したという。
大阪市HP転記



住吉大社

2017/04/29 06:03:08

住吉大社



天下茶屋跡

2017/04/29 06:11:42

天下茶屋跡

今から400年余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和62年に現在のものに修復された。

西成区HP転記



高麗橋里程元標(紀州街道起点・中国街道基点)

2017/04/29 06:35:32

高麗橋里程元標(紀州街道起点・中国街道基点)

関連リンク

江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。
大阪市HPより



繁華街を通過する中国街道

2017/04/29 06:51:34

繁華街を通過する中国街道

中国街道は大坂と尼崎、西宮を結ぶ街道で中世後期頃に道筋が形成されたと考えられています。
安土桃山時代以降に、「天下の台所大坂」から「城下町尼崎」と「門徒町として賑う西宮」を結ぶ交通路として整備されました。 尼崎市HP転記

梅田周辺にはかつては町が無くて、泥田の中のあぜ道の様な道であったろう。



萩之橋 中国街道/能勢街道分枝地点

2017/04/29 06:55:15

萩之橋 中国街道/能勢街道分枝地点

昔は街道を横切る水路に架かっていた橋で、萩の寺として有名な東光院の山門の前にありました。萩の寺の前にあった橋だから萩之橋です、東光院は「南の四天王寺、北の東光院」と称された創建1200年以上の歴史を持つ格式ある古刹で、大正3年に豊中市の曽根に移るまではこの地にあった。

此処から西宮方面へ向かう



長楽寺をしめす道標

2017/04/29 07:06:06

長楽寺をしめす道標



神崎金比羅さんの石灯籠(津戸ノ中道)

2017/04/29 07:19:16

神崎金比羅さんの石灯籠(津戸ノ中道)

関連リンク

金比羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で、早くから船乗りの信仰を集めていました。神崎の津は、都と西海とを行き来する船と人々でにぎわっていました。この石灯籠は、航海の安全を祈念し、灯台の役割をもつものです。願主岸田屋治兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)頃建て替えられたものです。

ここから津戸ノ中道と云われる古街道を走るこの古街道は豊臣秀吉が明智光秀と雌雄を決する為に備中高松から中国大帰しをした時に使った道で短時間で北摂に到達できる。当時の雑兵や武士達は欲に駆られてこの泥田の中の畦道に近かった古街道を走ったのだろう。



吹田アサヒビール工場

2017/04/29 07:52:23

吹田アサヒビール工場

神崎から意外な速さで吹田に到着する。所要時間は約40分であった。

この道(津戸ノ中道)は神崎川の氾濫源に中を通る道だったはずで、足元は相当に悪かっただろう。
この道を進んだ雑兵や侍達は恩賞目当てに必死で走って天王山へ向かったことだろう。



吹田市岸部北2の小路道標

2017/04/29 08:16:11

吹田市岸部北2の小路道標

関連リンク

この道標は佐井寺観音の参詣道に江戸期に立てられた旨の吹田市教育委員会の掲示板があった。

津戸ノ中道は吹田のアサヒビール工場の東側片山町辺りから亀岡街道と合流している。



摂津市千里丘6市場池公園の道標(津戸ノ中道→亀岡街道)

2017/04/29 08:19:58

摂津市千里丘6市場池公園の道標(津戸ノ中道→亀岡街道)

右 亀岡街道  亀岡 高槻 京都
左 小野原街道 山田 小野原 勝尾寺
東面
左 吹田   大阪

と刻まれている。大阪となっているので恐らく明治期のものだろう。



中川原の道標(亀岡街道→西国街道)

2017/04/29 08:44:51

中川原の道標(亀岡街道→西国街道)

関連リンク

 この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と、南北に走る亀岡街道が交差するところです。
町名を「中河原町」といい、茨木城の城主として名を連ねている賎ヶ岳七本槍のひとりとして
有名な、「中川清秀」が生まれたといわれる由緒地です。

掲示板より

此処を右折して西国街道を東進する。



白井河原合戦跡

2017/04/29 08:48:24

白井河原合戦跡

池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられています。この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。この戦いに勝利した荒木村重は織田信長からも一目おかれる存在となる。

荒木村重・・謎の多い人物です。



芥川宿 一里塚跡

2017/04/29 09:08:05

芥川宿 一里塚跡

西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の政治・経済に大きな影響を及ぼしました。現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。 高槻市HP転記

この辺りで西国街道の南を東進していた津戸ノ中道は西国街道へ合流する。



摂津・山城ノ国国境

2017/04/29 09:37:34

摂津・山城ノ国国境

大阪府三島郡島本町山崎と、京都府乙訓郡大山崎町の境を流れる明神川のすぐそばに立つ石碑。
明神川を挟んで、関大明神社がある。

赴きのある石碑だけに横の看板がじゃま・・



離宮八幡宮

2017/04/29 09:37:59

離宮八幡宮

平安時代(794~)の始め、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見、神のお告げをお聞きになりました
そのお告げとは国家鎮護のため、九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座せよというものでした
そこで清和天皇は僧の行教にそれを命じます
天皇の命を受け、八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の津(当時淀川の航海のために設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光をみました
不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されました
ここは嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました。神社HP転記



大山崎黒門跡

2017/04/29 09:44:42

大山崎黒門跡

れぞれ黒門が設けられ、それぞれ東の黒門・上の黒門と、西の黒門・下の黒門と言ったそうです。

門は夜になると用心のため集落を守るために閉めていました。東黒門はちょうど、五位川が西国街道と交わるところにあり、現在も名残として東黒門跡があります。

後の山は天王山



調子八角の現代道標

2017/04/29 09:49:42

調子八角の現代道標



神足の旧石田住宅

2017/04/29 09:55:21

神足の旧石田住宅

旧石田家住宅は、表構えに格子と出格子を並べ、大屋根の下の白壁に虫籠窓がある江戸時代末期の町家建築の基準となる建造物で、西国街道沿いに店を構え、「紙屋清兵衛」の屋号で和紙などを商っていた商家。(平成12年(2000)10月、国登録有形文化財登録)
平成19年(2007)9月、この建物の保存と地域コミュニティの振興等を目的に、また文化を発信するサロンとして「長岡京市立神足ふれあい町家」としてオープン。情報・観光コーナーや、催しや会議等市民が気軽に利用できる和室の貸出しも行っている。



羅城門跡(西国街道→京街道「鳥羽街道」)

2017/04/29 10:29:25

羅城門跡(西国街道→京街道「鳥羽街道」)

羅城門は、794年に遷都された平安京の真ん中を南北に通ったメインストリート・朱雀大路の南の端の大門であり平安京の正門でした。「羅城」とは都の城壁のことであり、唐の長安に倣ったものです。羅城門の大きさは左右33メートル、奥行8メートルで二重閣瓦屋根造でした。816年の大風で倒壊した時には再建されましたが、980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなくこの付近も荒廃していきました。



下鳥羽辺りの化粧地蔵

2017/04/29 10:46:58

下鳥羽辺りの化粧地蔵



鳥羽街道・愛宕茶屋戊辰役東軍戦死者埋骨地

2017/04/29 10:58:55

鳥羽街道・愛宕茶屋戊辰役東軍戦死者埋骨地

鳥羽街道「愛宕茶屋」跡(納所岸ノ下)に激戦を物語る東軍戦死者を祀る石碑が建てられていました。この戦場では、35名の旧幕軍戦死者が埋葬されたようすです。

現在も妙教寺住職が代々毎年2月4日に法要を営まれて、遠く会津若松からも訪れる人があるそうです。
薩摩軍が初めてアームストロング砲を使用した戦と云われています。炸裂砲弾を使用した近代戦闘の幕明けであった、が同時に戦死者の発生率もうなぎ上りになっていった。



淀城跡

2017/04/29 11:05:44

淀城跡

淀城は京都・桂川と宇治川の中州に建っていた山城国の近世城郭で、二代将軍秀忠の頃、一国一城令で廃城となった伏見城の石垣や、二条城の旧天守(二条城へは玉突きで伏見城の天守が移築)を利活用して築城されたと伝わる。江戸中期に稲葉氏が入部し、そのまま明治を迎えた。

秀吉の愛妾淀殿が居た淀城(古淀城)は此処から500メーター程北にあったとされる。



御幸橋 (京街道→東高野街道)

2017/04/29 11:21:52

御幸橋 (京街道→東高野街道)

御幸橋(ごこうばし)とは、京都府八幡市の木津川と宇治川(淀川)に架かる橋であるがかつては岩清水八幡宮へ天皇の使者が使ったので御の字が宛てられた。



岩清水八幡宮

2017/04/29 11:24:23

岩清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮とともに二所宗廟の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一社、また宮中の四方拝で遥拝される一社である。

東高野街道の基点にあたる。



八幡の街並風景

2017/04/29 11:27:30

八幡の街並風景

平安時代中期から交通の要衝で,堤防下は石清水八幡宮の境内で,門前町や遊郭街を形成しました。そのため参拝客や旅人でたいへんな賑わいだったそうです。



八幡市の道標

2017/04/29 11:33:16

八幡市の道標

京街道・東在所道と彫られた道標



洞ヶ峠

2017/04/29 11:42:04

洞ヶ峠

関連リンク

洞が峠をきめこむ・・今では死語に近いかも?



高野道町

2017/04/29 11:51:10

高野道町

町名が 高野道なので東高野街道の知名度の高さがわかるな。



新屋敷の東高野街道案内板(里程標)

2017/04/29 12:01:34

新屋敷の東高野街道案内板(里程標)

かつては北に50メーター程の屋敷の植え込みの中にあった。

 明治 33 年3月に建てられた里程標です。
「東高野街道 距城河国界 壹里」(約3.9km)「距京都府綴喜郡八幡町 貳里拾貳間」(約7.9km)
「距北河内郡星田停車場 壹里廿六丁四十九間」(約 6.9 km)と記されています。



田園風景の中を進む東高野街道

2017/04/29 12:12:21

田園風景の中を進む東高野街道

枚方 茄子作あたりの風景。



本尊掛松

2017/04/29 12:21:47

本尊掛松

1321年(元亨元年)融通念仏宗中興の法明(ほうみょう)上人が、男山八幡の霊夢を受け、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より、 東高野街道を男山に向かう途中、当地で同じ霊夢によって天得如来を奉じて深江に詣でる途中の八幡宮よりの使者に出会い、『十一尊天得如来』の画像を授けられた。
 法明上人は歓喜のあまり尊像を傍らの松に架け、称名念仏を唱え踊りだしたという。これが融通念仏宗の念仏踊りの始まりとされされている。



四条畷の東高野街道案内板

2017/04/29 12:45:23

四条畷の東高野街道案内板

川崎池公園の入り口付近に設置された四條畷市歴史散歩道では、歴史民俗資料館など付近の観光案内を行っている。



清滝街道との重複部

2017/04/29 12:49:49

清滝街道との重複部

本市の中央部を東西に貫く古道は、清滝街道と呼ばれ、多くの人々に利用されてきた。
蔀屋西端から東へ山間を越えて下田原に至り、磐船街道と交差する約7kmのこの道は、古代
より河内と大和を結ぶ重要な道であった。 戦後は国道163号として整備され、平成2年
には清滝トンネルが開通し、急坂が解消されて、いよいよその重要度が増している。

公園の掲示板転記



野崎観音

2017/04/29 13:04:05

野崎観音

関連リンク

「のざきまいり」で知られ、昔から大阪庶民に「のざきの観音さん」と親しまれる寺。本尊の十一面観音は行基作と伝えられ、縁結び、安産、子授けのご利益があるといわれている。境内みはらし台からは、大阪平野が一望でき、自然に恵まれたハイキングコースもある。



古堤街道分枝(東高野街道→古堤街道)

2017/04/29 13:13:25

古堤街道分枝(東高野街道→古堤街道)

この道がいつ頃整備されたかは定かでないが、大阪と奈良を結ぶ主要街道のひとつであり、大和国北部と大坂を結ぶ「大和街道」の一つとされた。 近世以前、河内国に深野池・新開池という2つの大きな池が存在していたころは京橋から東へ、新開池の北側のほとりを通り、角堂浜(住道浜)から船で深野池の東岸へ渡った。このあたりまでは大坂からの野崎参りの参拝道としても機能した。1704年の大和川付け替え以降は大きな池はなくなり、京橋から住道までは寝屋川右岸に沿い、現在のJR住道駅前で寝屋川を橋で渡り、中垣内から竜間方面へ山を越えた。山越えの途中で田原方面と生駒方面の二手に分かれる。



古堤街道 住道商店街

2017/04/29 13:21:46

古堤街道 住道商店街

この街道は都市部に埋没した感じです。



古堤街道 住道商店街道標 (古堤街道→河内街道)

2017/04/29 13:23:14

古堤街道 住道商店街道標 (古堤街道→河内街道)

関連リンク

商店街中ほどにある古堤街道の道標
「古堤街道 距高麗(橋)・・」、「距大和國界・・」、「距國道第二號路線分岐・・」、「明治三十五年五月 」とあり河内街道との辻にあたる。



おかげ灯篭 加納

2017/04/29 13:34:45

おかげ灯篭 加納

河内街道は比較的新しく開かれた街道ですが、大峰や伊勢への参詣道としての利用が多かったようだ。

おかげ灯篭は江戸時代に盛んに行われた伊勢神宮参宮の記念物でほぼ60年毎に遷宮が行われる年の参宮は『おかげ年』といわれ平年より一層の御利益があると言われていたことから慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、享保3年(1718年)、享保8年(1723年)、明和3年(1771年)、文政十三年(1830年)と計6回にわたり各地で集団でのおかげ参りが行われました。



若江岩田の石田家住宅

2017/04/29 13:59:49

若江岩田の石田家住宅

石田家住宅は、江戸時代中期の享保元年(1716年)に建築され、享保13年のサル年に瓦製のサル二匹を大屋根にすえつけ現在に至るといわれています。
当時、岩田村と御厨村が井路川の排水のことで争った時、庄屋だった新兵衛は、争いの解決と岩田村の繁栄を願い、村人とともに住吉大社に祈願いたしました。
大屋根のサルは、かやぶき屋根の棟に載った高さ約30cmのもので、東側のサルは玉を持ち、西側のサルは右手に御幣、左手に扇を持っています。
これは悪魔が「去る」という意味でおかれたもので、サルは住吉大社の方向に向けられています。



2017/04/29 14:04:39

飯島三郎右衛門の墓

旧大和川の河川にあたるこのあたりは、大阪夏の陣での激戦区でもありました。

飯島三郎右衛門(いいじまさぶろうえもん)は、市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国武将織田信長に仕えました。
信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えました元和元年(1615)年五月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成(きむらながとみのかみしげなり)に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信(やまぐちいずのかみしげのぶ)に槍で突かれ、この地で戦死しました。



2017/04/29 14:12:30

木村重成の墓

大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。  この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史跡として指定されている。【出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市・八尾教育委員会

掲示板転記



2017/04/29 14:25:13

常光寺 (河内街道→八尾街道)

臨済宗南禅寺末で「八尾の地蔵さん」で名高い。行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。南北朝の戦乱で焼失したが又五郎大夫藤原盛継が再興した。足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いた。 大阪(坂)夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実検をし、今でも血天井として残されている。 寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。八月二十三日、二十四日の地蔵盆は名高く、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

掲示板転記



2017/04/29 14:30:04

久宝寺船着場 道標

長瀬川はもと大和川の本流で古くはおよそ二〇〇メートルの川幅があり、人と物資の運搬で川舟が往復した。 宝永一年(一七〇四)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や、大阪、淀などへの往復でにぎわった。 こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよび、ともに祭礼のときのお旅所であった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協



2017/04/29 15:00:29

八尾街道の佇まい 鷹合

鷹合家並を抜けるの古街道



2017/04/29 15:13:36

住吉街道 (八尾街道→住吉街道)

関連リンク

住吉街道は竹之内街道にも匹敵する古街道でしょう。なんせ時代は5世紀後半、雄略天皇の時代にまでさかのぼるようだ。

磯歯津路と云われる古代街道にほぼ重複する形で残っている、古代住吉大社横に津(住吉津・・すみよしのつ・・船着場)があって外国の使者は下船した後この磯歯津路を使い奈良の都へ進んだらしい。



2017/04/29 15:19:41

住吉福祉会館



2017/04/29 15:20:33

池田屋 (住吉街道→熊野街道)

熊野古道沿いに立つ池田屋本舗は手作りにこだわる老舗味噌屋。赤味噌ベースのおかず味噌(200グラム945円~)が美味しい。築400年以上という住吉最古の家屋は有形文化財。創業当時に使っていた大きな味噌樽も店先に展示されている。

ここは住吉街道と熊野街道の交差点でもある。



2017/04/29 15:26:51

熊野街道碑

大和川のほとりに大阪市最後の熊野街道の碑(現代版)がある。